歴史を学ぶということ

僕は、日本の小学校で「昔の日本はね、世界を変えたんだよ」と教えてもいいと思う。日本が歴史上誇れるのは、元に支配されなかったこと、まあラッキーだとしても。明から抜けだしたこと、実質中国に支配されていた時期はなかったものの、形式上でも独立している。そして、ロシアに勝ったこと。様々な外交事情は置いといて、インドのネルーだったり各国の人々が「白人による世界支配が終わるんじゃないだろうか」と歓喜したのは事実だ。そして各先進国が危険視したのも事実だ。日本がリーダーシップをとり、中国を統一してアジアを解放していけば彼らが築いた国際秩序は崩壊する。これは当時のドイツ皇帝が言っていた。詳しくは映像の世紀第11集「JAPAN」を見てください。そしてアメリカと戦ったこと。アメリカは原爆を2発も落とした。それは誇れることではないけれど、アメリカにそこまでさせた国は他にはない。ベトナムは勝ち抜いたけどさ。

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もちろんそこには悪い部分も含まれている。何が失敗で、そこから何を学ぶか、歴史を学ぶ意義というのは経験に優ると僕は思う。人は誰しもその一代で経験できることが限られている。社会も同じだ。しかしその、膨大な資料というのは幾代までも積み上げることができる。そこには事実が有り、状況が有り、知識があり、経験がある。それによって僕らは一代で成し遂げなかった成果を積み上げ、拡張し、更に未来へと繋ぐことができる。だから、未来のため、これからのため、過去の成功や失敗から学び、彼らの意思や過ちを踏まえ、未来への今を作ることが歴史を学ぶことの意義なのではないだろうか。だからこそ、歴史の改竄や誤った事実というのは罪だとされている。事実と結果に偽りがあると、これからの行動と結果に対して誤差が生じ、データベースとしての役割を果たさない。

昔と今

しかし、歴史は飽くまで過去に生きた人たちの事実であり、我々のものではない。当たり前だ。日本人だからといって、彼らと同じ時代を生きておらず、経験していない。これは想像でしかないが、西欧諸国がアメリカ大陸やアフリカ大陸、ユーラシアでもそうだけどオーストラリアの先住民たちに行った虐殺に対して罪の意識がないのは、それは彼ら自身がやったことではないからではないだろうか。今を生きているヨーロピアンやアメリカ人がインディオやアボリジニを虐殺したり、アフリカの黒人を奴隷貿易しているわけではない。彼らは虐殺者や奴隷商人の子孫として生まれただけのであり、その罪を彼らが背負わなければならないなんていう話はない。殺人者の息子は犯罪者だろうか。もちろん現代において尚その思想、差別意識等を持ち合わせることは罪に繋がるかもしれないが、現代を生きる大半の人達は、現代の常識に沿って形作られている。僕らはそれが非人道的であるということは理解しており、誰かがやっていれば非難する。そういう人々、良識を備えた何の罪もない人々に対して、先人の罪を被せるのはナンセンスなんじゃないか。そういう認識が欧米では当たり前なんじゃないかと想像している。どうなんだろう。

だから、僕らはそのためにも良識を得ないといけない。歴史を学ばないといけない。過去の事実、偉大なる成功や失敗から学び、では我々の世代はどうするかという事を、それらの膨大な経験という資料から未来を導き出さなければならない。新たな成功に繋がるヒントをそこから探し当てないといけない、過去の失敗に繋がる落とし穴を見つけ出さなければいけない。そして自らの経験を、また新たな歴史として後人たちへと積み上げなければならない。

NHKスペシャル 映像の世紀 第11集 JAPAN [DVD]

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