居場所の移り変わり

先日、Facebookを見ていたら後輩がタグ付けされた写真がニュースフィードに挙がっていた。その後輩は会社員なんだけど、大学のサークルかなんかで仲が良かった人たちとの写真を載せていた。彼女が大学を卒業したのはもう4年ほど前になる。つまり、そういう集まりがいまだに続いているということになる。僕にはそういったことがない。彼女は今でも会社員を続けているが、会社の同僚や同期たちよりも、どうやらその大学の頃の仲間たち(10人近くいる)の方が仲良いらしく、遊ぶのもずっとそっちがメインのようだ。

 

僕はといえば、大学生の頃の知り合いなんて疎遠も疎遠だ。もう連絡先がわからない。バイト先が同じ人だった人たちも、高校の同級生も同じ、小中となると地元が同じだからごく稀に会うことはあっても、基本的に連絡取らない。僕はその、人間関係が希薄で、今までの人生でほとんど築いてこなかったと言っていい。少なくとも今日まで残っているような関係というのは一つもない。連絡取る手段さえわからない。だから、この後輩のように大学の頃の友人といまだに続いている姿が不思議でしょうがない。

ぼくはその、小学校なら小学校、塾なら塾、中、高、大学、バイト先、会社とそれぞれのコミュニティに属していたけれど、僕が誰かと仲良かったのは、僕が属していたその時キリだった。その間だけの関係。そこを離れると、その関係性が終わると、もう始めから何もなかったかのように僕と他人との関係性というのは無になった。何も僕から関わりを拒んだりすることはない。ただ媒介となっていたコミュニティがなくなったり遠ざかることで関わりそのものがなくなるというだけに過ぎない。僕はもう会社員の頃仲良かった人ともほとんど連絡をとっていない。彼女なんかは僕の隣の席で下手すれば毎日雑談をしていたが、お互いそれも遠い昔のことのようだ。僕は今、トロントにいる人たちと日常的に連絡を取り合っている。さもそれが当たり前かのように。

僕はそういうのが普通だと思っていたから、いつまでも大学時代のコミュニティを続けている彼女が少し理解できなかった。彼女と、その周りの人たちも含め。もう君たちには新しい生活の場が用意されており、もう彼らと仲良くする必要などない。大学を卒業した元大学生同士のサークルの集まりなんて、これ以上何の生産性も発展性もない。思い出の季節は終わったのだ。たまに懐かしむならわからんでもないけれど、いまだに一緒に過ごしたところで、君らはもうそれぞれ別の社会に生きている。共に歩めない。何が君たちをそう駆り立てるのだろうか?

その姿は僕に、スケボーをやめ、スーツを着てオフィスに通いながらも、会社帰りにいつもパラノイドパークに立ち寄る若い会社員の男性のような違和感を思い起こさせる。彼は今でも続けている友人のスケートを借り、スーツ姿のままパークを一周だけして、昔の仲間と談笑しながらも、朝が早いからと言っていつも先に帰る。