どうやって正気を保つか

生来、楽観性というものを持ち合わせていない。常に不安におののき、緊張の面持ちで、心配事が絶えず、パニックに陥っている。おそらくこれがもっとひどくなると薬なんかで無理矢理頭をボカすんだろうと思う。ひどく、というか、通院すれば。

 

何に対して。己の現状や今後の見通し、これまでの失敗、罪状と償い、借り、踏み出すその一歩がつるっと滑って鞄の中身が壊れやしないか、そこにある金属の先端が目に突き刺さりはしないか、僕はその前を横切る際に手で覆うことにしている。身の回りにあるもの全て、自らを脅かす何かになり得る。そういうことが、頭から離れない。

それにも関わらず、僕は今無職で外国にいて頻繁に飛行機に乗り保険には入っているものの生活費も切り崩して、その日暮らしをしている。自殺行為だ。楽観的な人でさえ、多少はそういう恐怖を遠ざけるためにつがいを作り、貯金をし、安定した職を求め、家を構え、莫大な保険と将来設計の上で、安心安全安泰を望むものである。僕にはそういったものが一切ない。今日まで積み上げてきたものはゼロに近い。

ではその、平常運転の日常生活から押し寄せる以上の、何倍もの不安をどうやって処理しているのか。日頃の平静というのはいったいどこから生まれたものか。もしかして、どこかに夢や希望を抱いているのか?そんなわけがない。じゃあ不安を抱いていないのか?もちろん不安しか無い。でも一見平静に見える。そうだ、偽っているに過ぎない。平静を装っている。その場その場を生きることにより、明日もしくは明後日、2年後3年後、10年後のことを見ないようにしている。現代ほど、アリとキリギリスではキリギリスが正しかったんじゃね?という意見がまかり通っている時代もないんじゃないかと思う。しかし僕自身は何もそういう思想を持ち合わせているわけではない。楽はしているが、僕に関しては苦難を乗り越えることができなかっただけ。そして享楽に興じているわけではない。

僕の恐怖心というものは、就職することで和らぐ類のものではなかった。僕はあそこでは生きていけないと感じた。将来の金銭的な不安よりもその時その場にいることのほうが堪えた。そしてそれらを手放すことは、僕にとって安定の放棄を意味した。苦労と努力と、運も相まってを築いた金銭的な、社会的な安定。そういうったものを全てかなぐり捨てる、言わば肉体の自殺行為であった。それは何も、会社を辞めてすぐさま別の会社に転職するのであれば当てはまらない。もしくは今からでもフリーで初められる技能を身につけ、職業人として取り組むのであってももちろんあてはまらない。僕はそのどちらでもない。僕がとった選択というのは、言わばゆっくりとした自殺行為である。

大体死ぬことを考えている。自殺をするとかいつ死ぬとか、どんな死に方でといった具体的な話ではない。人はいつか死に、いつでも死に、全員が死ぬ。死というのは身近であり、そこかしこに溢れ、他人ごとではない。いつ死んだっておかしくない。それは運命なんて大げさな問題ではなく、肉体の機能が停止するパターンと可能性が未知数であるということにすぎない。交通事故、病気、災害、事件、自殺、死ぬまで時間はかかるかもしれないけれど、僕はそういうことを頭に巡らすことで、つまり死を意識することによって、平静を保つことにしている。

それは僕の根本的な部分である諦めの境地に通じている。「いつ死んだって構わない」というその態度は、言うなれば「問題の先送り」の逆を行く「問題の前倒し」とでも呼べるだろう。実際明日死のうが30年後に死のうがそんなに大して変わらないだろう。明日はきっと、死ぬにはいい日だ。あさってかもしれない。いつになるかはわからない。