日本を捨てたら、多分英語はうまくなる

トロントの語学学校に通っていた時、僕は他の生徒たちの話題についていけなかった。語学学校にはいろんな国から生徒が来ていた。一部国名を挙げると、ブラジル、メキシコ、コロンビア、ベネズエラといった中南米から、スペイン、イタリア、フランス、ウクライナ、ロシアといったヨーロッパ勢、サウジアラビア、リビアといったイスラム諸国、タイ、ベトナム、韓国といったアジア人まで様々だった。国も地域も違う彼らには、共通項があった。僕も含め、学校へ英語を学びに来ているという点では同じだが、僕以外の彼らが持つ共通項とは、英語の文化に馴染みがあるということだった。

 

英語で繋がっている世界

具体的に言うと、音楽、映画、ドラマ、バラエティ、有名人など、アメリカを中心とした英語文化圏の人ならまず誰でも知っているような人、話題について、彼らは元から馴染みがあったのだ。日本人でも海外に出る人ならそういうの詳しいかもしれないけれど、僕は全然知らない。おそらく彼らは自分たちの国を、世界の中の一つとして見ていた。

ニュースを見るときは世界の中で自分たちの国がどう扱われているか、他の国と自分たちの国がどのような関係性を持っているか、他国の情勢が自分たちにどのような影響を与えるか、自分たちは国外でどう見られているか、どう関わっていくべきか、そのためには国内をどう運営していくべきかを見ていた。そんな政治的な話に限らず、音楽にしても映画にしても、やはり英語のコンテンツが世界中で流通しており、むしろ英語でなければ流行らないためか、英語圏ではないグループや歌手でも当たり前のように英語で歌ったりする。日本で言うところのグローバル?グローバリゼーション?なんていうのはとことん遅れており、彼らは意識せず、英語を介して自然に世界の中の自国、そして自分たちを見据えている。

日本とそれ以外

もちろんそれは、いまだに残る大英帝国植民地支配の影響や、同じ大陸の中で国境が陸続きであること、貿易や軍事におけるパワーバランスから英語圏の影響を受けざるを得なかったこともあるだろう。そしてアメリカ。その点において日本は、日本独自の日本語、日本文化の独立を見事保っていると言える。本当に?多分。いいか悪いかは別として。

日本以外の外国全てが既に画一的にグローバル化されているという意味ではもちろんない。カナダに英語を学びに来ている彼らは丁度中間層ぐらいだろう。上層は英語圏の大学で学位を取ったり技術を身につけてそのまま就職する。下層っていう言い方は変だけど、英語だけに関して言えばそれは地元に残る人たちで、国内の言語のみを話し国内の音楽を聞き国内の文化に浸かり、外国の影響なんか全く受けていないという人々もいるだろう。語学学校にいた韓国やアラブ人にも僕と同様に英語圏の話題についていけない人がいた。

日本から世界へ

中間層の彼らのように英語圏の文化に馴染めば、英語習得はおそらくずっと早くなるだろうし、おまけに国際感覚みたいなものも身につくかもしれない。よくわからないけど。文化に馴染めば単に英語を話すだけでなく英語圏の考え方というか、発想を知ることができる。少なくとも外国人との話題には事欠かないだろう。もし仮に外国人の友達が欲しければ、単に英語が話せる日本人だけよりもそちらのほうが優位だと思う。僕が日本を捨てたら英語がうまくなるかもしれないと言ったのはそういう意味だ。日本という国はあまりにも日本だけに固執しており、世界の中の日本人というのもあまりに特殊だ。それはいいことなのかもしれないけれど、英語を学ぶという点においては弊害でしかない。

しかし、何も日本を捨てると言ったって日本から出る必要はない。これだけインターネットが発達しており、外国人の往来も増えた中では日本にいながらも、日本の外から日本を眺めることだってできる。外国の音楽や映画、ニュースなんかはいくらでも見ることができる。幸いにも日本国には多額の借金と多少のキャッシュや貸付、経済規模があり、またその独特な文化とコンテンツのお陰で一部の外国人からは興味を持たれている。日本語を学びたいという外国人もいる。つまり、英語圏の文化から受け身になるだけでなく、こちらから接点を持つことだってできる。あれ、それだと日本捨ててないよな。まあいいや、僕が言いたかったのは、日本国内だけを見る視点を捨てたら近道かもねって話。

英語教材とか英語学習法とか全然否定しないけれど、北ベトナムの兵士にはBBCラジオだけで英語を覚え、工作か交渉をした人もいるんだから、そんな手段もあるよ。でもまあ本当、日本語文化圏にどっぷり浸かってしまうと英語なんてまるで必要ないから、日本語の日常の中で非日常の英語を特別に学ぶっていうのはやはりちょっと遠くて、だったら逆に英語ベースの日常の中で日本を考えるってのもいいんじゃないかなー。