8日目、ワルシャワ到着

前回の続き

オルガ・パブロ宅からクラクフの空港へ向かおうとトラム乗り場へ来た。トラムがいつ来るのか確認しようと電光掲示板を見たら、何か文字が点滅している。これなんだろうと思って時刻表を見ようと思ったら、そこには時刻表が全て剥ぎ取られていた。あれ、なにこれ、と思いながらもトラムが来るのを待っていた。停留所には寝ているおっさんが一人いるだけ。何か張り紙があるけれどポーランド語で読めない。近くを通る人も停留所を通り過ぎるだけで、立ち止まってトラムを待つ人はいない。これは休みだな。

 

トラムの停留所とバス停はオルガ・パブロ宅を挟んで反対側にあり、太陽が照りつける中ちょっとした距離を歩く。僕はバックパックを背負い、片手にはデイパックをぶら下げている。暑い。まさかトラムが休みになっているだなんて思いもよらなかった。バス停に着くと通常通りバスに乗り、何事もなくクラクフの中央へ来ては空港行きにバスに乗り換えた。バスの扉には「Solaris」と書かれている。もしかして、と思ったけれど、ただのバス会社の名前だった。

ソラリス (バス) - Wikipedia

ポーランド人の親子

クラクフの空港には十分に余裕を持って着くことができた。僕はチェックインを待ち、荷物を預けてからも搭乗を待っていた。ワルシャワへと向かう飛行機に乗る人は少ないようで、搭乗ゲートの前で待っている人は僅か数人。もうすぐ搭乗時間かな、と思ったところで飛行機が1時間遅れるというアナウンスが流れた。待っていた人の中に父一人息子一人の親子連れがいて、父親の方が飛行機の遅れに愕然としていた。僕はその父親の方に話しかけらた。

「まいったよ。1時間も待つことになるなんて」

「飛行機で1時間の遅れはよくあるんじゃない?」

「そうじゃないんだ。ワルシャワへ行くのに1時間待つんだったら電車で行くのと変わらないんだよ。飛行機を選んだ意味が全くない」

なるほどと思った。僕は今までずっと国際線ばかりに乗っていたからその発想はなかった。

「君はどこから来たんだい?」

「日本です」

「日本だって、すごいじゃないか、ほらディヴィッド、日本には優れた車の会社がたくさんあるんだぞ、レクサスとか」

息子はよくわからなそうに退屈そうにしていた。

「彼も英語を話すんですか?」

「そうだ。今勉強中だ」

ディヴィッドと呼ばれた息子は4歳か5歳ぐらいだろうか。父親に推されて僕と英語で少し話すが、あまり興味が無さそうだ。

「あなたはクラクフ出身ですか?それともワルシャワですか?」

「ワルシャワだよ」

「ワルシャワについて少し聞きたいんですけど」

「どうぞ」

「ワルシャワはどんな街ですか?クラクフとはどう違うでしょう?」

「そうだね、全然違うよ。全く違う。クラクフには歴史ある街並みが残っているが、ワルシャワは第二次大戦で全て破壊されたからね。ワルシャワにも再築された旧市街はあるが、まああれも別に悪くはない。けれどワルシャワへ行くんだったらその悲劇の歴史を見てきてほしいな。ポーランドはかつて素晴らしい大国だったんだよ。ヨーロッパでもっとも先鋭的でリベラルな国家だったんだ。それが、君も知っているだろうがドイツやソ連によって破壊された。経済はいまだに低迷しており、ポーランド人はまるでドイツなどの企業の経済的な奴隷だよ。これからのポーランドを良くするには力強いリーダーが必要なんだ」

僕は彼の言うことが気になり、ポーランドの歴史を簡単にWikipediaで読んだ。僕はポーランドの歴史について、2009年になってやっと民主化20年を迎えられた国、周辺の大国に何度も蹂躙された悲劇の国という程度の印象しか持っていなかった。しかし16世紀頃のポーランドというのは、その時代既に国王を選挙で選んでいた。以下Wikipediaより引用する。

ジグムント2世アウグストの死後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。

ポーランド - Wikipedia

これは1572年、つまり16世紀の話であり、日本では織田信長あたりが活躍していた時期になる。日本においては20世紀の1920年時点においても選挙権を持っていたのは人口の5.5%だったらしく、その数字を単純に比較することはできないにしても、ポーランドがいかに早熟で進んだ国だったかというのが垣間見れる。

そしてもう一つ気になったのが、第二次大戦中にワルシャワの街が徹底的に破壊されたという話、すわなちワルシャワ蜂起についてだった。ワルシャワ蜂起の内容を詳しく知ったのはこれが初めてであり、実に悲惨だと言える。映画にもなったカティンの森事件なんかもこのワルシャワ蜂起と関わりがあるようだ。ほんの数分程度で得た知識からポーランドの歴史について受けた印象は、ポーランドという国は善良なる被害者だったのではないだろうかという事だった。ポーランドは占領はされつつ抵抗もしていたため一方的な被害者であったとは言えないのかもしれないけれど、加害という面において、第二次大戦中の日本とは比較にならないほど僅かだろう。日本が受けた被害というものも凄まじかった。しかし、その善良性においてポーランドには著しく劣るのではないだろうか。

ワルシャワ蜂起 - Wikipedia

カティンの森事件 - Wikipedia

飛行機は1時間遅れで出発し、約1時間後にワルシャワへと到着した。ワルシャワの空港はクラクフの空港と違い、近代的な感じがする。時間は夜の10時頃。事前に調べていた空港から市街地までの電車は10時半頃が最終であり、急がないといけないなあと思ってバゲッジクレームで荷物が流れてくるのを待っていた。すると先ほどの親子に会った。

「泊まるところは決まっているのかい?」

「はい。ワルシャワの中心地にあるホステルなんですけど、電車は確か10時半頃が最終でしたよね?」

「バスもあるよ。バスでセンターへ向かうことができる。しかし私達は息子が疲れたって言うからタクシーに乗ろうと思うんだ。君も来ないか?どうせ道中なんだ、乗せていってあげるよ」

なに、そんなのいいのか?と思いながらもおじさんはタクシーを停め、僕は前の席に乗り込んだ。タクシーの中ではドライバーとおじさんがポーランド語で何か会話している。僕が日本から来たとかも少し言っているみたいだ。タクシーから見えるワルシャワの街というのは、確かにクラクフと全く違い、近代的なビルがたくさんある都市だった。僕はおじさんに「確かに全然違いますね」などと言いながらも、タクシーについてどうしようか考えていた。このままただ乗せてもらってお礼を言うだけというのはさすがに悪い気がして、何かできないか考えていたところ、カナダに住んでいた頃に同じ学校にいた日本人のことを思い出した。

僕が一度日本に帰国した時、彼から5円玉を10枚ぐらい持ってきてくれないかと頼まれたことがあった。そんなものをどうするのか聞いたところ、外国人の友人にプレゼントするということだった。クラスのプレゼンなんかで5円玉が日本のフォーチュンコインだみたいなことを話したら沢山の外国人にそれをくれとせがまれたそうだ。僕は手持ちの円通貨を確かめた。5円玉は、3枚ある。子供にあげるにはこういうのもいいかもしれないと思った。

「あそこがセンターだ。その住所だともうここから歩いてすぐのところにある。おそらくあそこを右に曲がってすぐに違いない」

http://www.flickr.com/photos/7729940@N06/16324871766

photo by Daniel Kulinski

http://www.flickr.com/photos/31871979@N00/4096029065

photo by Kuba Bożanowski

(写真を撮らなかったため引用)

ホステルへ

ワルシャワ中央駅はかなり大きく近代的な建物で、こんなものはクラクフのどこにもなく面食らっていた。タクシーはホステルの近辺まで来ているということで、そこでおろしてもらった。僕は用意していた、比較的綺麗な5円玉を彼らに手渡した。

「これは日本のコインで、僕からのギフトです。日本では幸運のコインだと言われており、神社にて願いを込めて神に捧げたり、お守りとして持ち歩いたりするものです」

「おお、日本のコインだって!良かったねディヴィッド!ありがとう!」

僕は彼ら親子と別れ、バックパックを背負って歩きながらホステルを探した。事前に予約した予約表にホステルまでの地図が載っており、この中央駅からは歩いて2、3分ほど、本当にすぐ近くだった。ホステルに着くと、グレーのジャケットを着た、若くていかにもポーランド人のかっこいい兄ちゃんが受付をしていた。彼に部屋を案内され、トイレやシャワー、キッチンやロッカー、Wi-Fiなどの説明を一通り受け、部屋のベッドに落ちついた。そこは8人部屋。二段ベッドの下は既に埋まっており、僕は上を使わざるを得なかった。

「日本人の方ですか?」

僕は声をかけられて振り向くと、そこには日本人らしき男性、それも初老の男性がいた。

「はい、どうも。お一人なんですか?」

「今はそうですけど、来週妻と合流するんですよ。それまでは一人ですね」

「それはいいですね、旅行先で合流だなんて」

「そうですか?それにしても、今着いたんですか?遅い時間ですね」

「クラクフから国内便で来たんです」

「なるほど」

トロントを出てから初めて話す日本人だった。この人は60歳で定年の後に趣味で旅行しているらしい。1年の4ヶ月ほどを海外旅行に費やしているらしく、節約のために若者に混じってホステルに宿泊しているとか。それにしても、なんとも羨ましい生活だ。飛行機が遅れたこともあってこの日はもう遅く、ホステルから出ることもなしに荷物を整理したり着替えたりして、そのままベッドで寝た。ワルシャワ1日目はただ来ただけで終わり。

次回、9日目ワルシャワを歩く