戦争や差別について願わくば

原爆投下の日が過ぎたところで、ウェブ上においても戦争の話題をちらほら見かけた。自分は戦争体験はないし、歴史について特別多くを学んだわけでもないから間違った認識も多々あるだろうけれど、それなりの、その程度の意見として残しておきたい。

日米開戦は間違っていたのか

正直わかんないです。僕は政治家でもなければ外交のこともよくわからない。これは本当に自分の意見というか感想として述べたいだけの話。先日こういうツイートを見かけた。

これはまあ、ビジネス等に役立てる上では反省したい項目だと思う。けれど太平洋戦争において、果たしてこれが全て当てはまるかというとちょっと疑問に思う。例えば

「どうしても勝てない戦いはある」

という点について。おそらく日本軍も勝つつもりで戦争やっていただろうし、全面戦争において勝利までとはいかずとも、日露戦争のように早期講話を目論んでいたけれどミッドウェー以降あてが外れたとかなんとかかんとか、そういう流れはあっただろう。でも、同時によく言われるのは

「負けるとわかっていても立ち上がらないといけない時がある」

当時の日本人は今よりも意地や面子を重んじる人たちだっただろう。それが良いとか悪いとかはともかく、日本が対米開戦に踏み切った理由として挙げられているのがABCD包囲網であったりハル・ノートであったり禁輸であったりアメリカにおける日系人差別であったり、まあそういう細かいことは僕は専門でもなく自分の意見で述べられないから省こう。戦争は、やはり勝つためにやっていただろう。しかし「勝てないからといって戦わない」という選択があったかどうか。そして仮に戦わなかった時に待っていた結末はどんなものだったか。

「戦って負けて良かった」と言うつもりはない。日本人なら誰もが知るように、戦って負けた結末は悲惨だった。もしかしたら、戦わずにアジア諸国やオセアニアから手を引き、ブロック経済と禁輸措置の中で現在の北朝鮮以上の人口と経済圏を抱えたまま貧困にあえぐ国民を打開策のないまま見捨てる、という選択が正解だったのかもしれない。そもそもシベリア出兵あたりから軍拡が行き過ぎて諸外国に目をつけられたのが間違いだった、という意見もあるだろう。今とはまるで違う当時の国際情勢の中で「うまくやればよかった」というのは、それができれば越したことはなかった。でも結果的に彼らがうまく事を運べず、どうしようもない中で、欧米諸国の植民地であったアジア諸国の惨状を目の当たりにし、それが日本の未来の姿にしか見えず「開戦しかない」という決断をしたことを、僕はどうしても否定する気にはなれない。「負ける戦争はやらなければよかった」なんていう風にはとてもじゃないけれど言えない。戦争が終わった当時子供だった人が、敗戦の報せを聞いた時「まだ俺らがいるじゃないか!」と憤ったという話を聞いたことがある。ベトナム戦争と太平洋戦争を同列に語ることはできないけれど、北爆に対するベトナム人の凄まじい怒り、執念も北ベトナム勝利に導いた要因の一つだと言われている。彼らは果たして、勝てる戦争だと思ったからフランスやアメリカと戦ったのだろうか?(そもそも南北統一戦争でありソ連や中国といった共産圏からの支援もあって戦争の中身は全く違う、だとしても。)

ただ、実際に先の敗戦において空気で決めたりはダメとか諜報戦の脆さとか、反省できる点がたくさんあるのは事実だと思う。

現代を生きる人たちに罪はあるか

「殺人鬼の家族は同罪か」

この質問に対しておそらく多くの人はNOと答えるのではないだろうか。父親が人を殺したからといって、その息子も「人殺しの息子だから同罪」なんて裁き方をするのはどう考えてもおかしいだろう。しかしこの考えは、個人ではなく、国家や民族においてはまかり通っている。「日本人は罪を償え」「ドイツ人は罪を償え」「アメリカ人は鬼畜だ」僕はこれらの考えがいつまでも続くことに違和感を覚える。当事者たち、実行犯たちである当の本人がそう言われるのしかたがないことだろう。やったのだから。アジア人を虐待した日本人の誰か、ユダヤ人を殺したドイツ人の誰か、日本の民間人に向けて爆撃したアメリカ人の誰か、それを指示した人たち。罪がある人がそう呼ばれ、罪を償えと言われるのは当然のことだと思う。ではその家族、子孫において、もっと言えば現代を生きる戦争を知らない人たちまでそういった汚名を着せられる必要は果たしてあるだろうか?彼らに、我々に罪はあるだろうか?

確かに当事者ではなくても問題がある人はいる。現代の価値基準においても尚、当時の非人道的な思想や行動を肯定する人たち、例えば白人以外は劣等種で差別されたり虐殺されても当然、なんて今でも思っていたら問題だろう。そんな思想を持つ人たちには当事者として罪がなくとも(実行していればあるが)、現代の国際的な価値基準においてその思想に問題があることを指摘されてもしょうがない。差別される側からは非難されて当然だろう。しかし実際には、現代において良識のある多くの人はそうではない。内心秘めいていればそれはわからないし、中にはそういう態度で接してくる人もいたけれど、大多数はそうではないと信じている。良識のある彼らまでが同罪かと言えば、たとえ彼らがドイツ人であろうとアメリカ人であろうと、日本人であろうと韓国人であろうと、僕は違うと思う。現代を生きる彼らに、現代の価値基準に照らし合わせて良識を持った僕らに、罪はない。

罪があるとすれば、それは当事者の行動にあり、問題があるとすればその思想にある。血統や民族ではない。「でもそれでは被害者の家族の気持ちはおさまらない」「恨みは消えない」「末代まで祟る」そういう気持ち、思想、意見があるのは知っている。戦後日本人のアメリカ人に対する恨みは凄まじかっただろうし、それは当事者間だったからとも言える。その思想が子や孫に受け継がれ、いまでも民族的に憎しみの感情を抱いている人もいるだろう。韓国人の日本人に対する感情なんかは反日教育も合わさってひどいことになっている。全員ではないが。

憎しみの連鎖を断ち切るには

そういうのは何とかして断ち切っていかないと、憎しみの連鎖はいつまでたっても終わらないんだろうなと思う。でも非常に難しい。これは国策も宗教も民族も土地も関係してくるからややこしい。何千年続いているだろう。イスラエルは、果たしてナチスがホロコーストを行わなければ建国されていなかったのだろうか。パレスチナの地においてユダヤ人とアラブ人が結婚したり仲良くやっていた過去は、今どうあがいても再現できると思えない。ユーゴスラビアのようなユートピアめいた国家の中でセルビア人とクロアチア人とボシュニャチが再び隣人として仲睦まじく暮らせる日は来るのだろうか。中国人や韓国人が国家単位で日本と仲良くなる日が想像できるだろうか?

単に罪、恨みの問題だけでなく、金、資源、所有物、領土、聖地の問題も関わってくる。お互いの言い分があり、どこかで区切りをつけるということは、どちらかが妥協するということになる。妥協できるなら闘争はおこらない。妥協にあたっては禍根も残る。過去を踏まえた「これから」を考えるには、果たしてどうしていけばいいのだろうか?何が正解だろうか?平和を望むにはどうすればいいのだろう?憎しみの連鎖は、どうすれば断ち切れるだろう?