家族は他人だという意識

自分はよく自分以外を指す言葉として他人という言葉を使うんだけど、その時にいつも頭をかすめるのが「親兄弟はどうなる」ということだった。親兄弟も含めた他人を指すときにはわざわざ「自分以外」と言い直したりする。一般的に他人という言葉には親兄弟は含まないだろうという認識があるからだ。つまり「身内」という言葉の対比として「他人」という言葉が存在するのではないか。自分以外の人たちを指す言葉として何か便利なものは無いだろうか。と言うのは、僕が他人という言葉を使いたいときは大抵「親兄弟」も含めた自分以外を指すからだ。結婚している人であれば配偶者は間違いなく他人だし、子供も言うなれば他人だ。「他者」と言えばいいのだろうか。しかし他者という言葉はあまり馴染みがなく、その言葉が出てきても「たーしゃ?」と首を傾げてピンと来ない。他者が血縁も含めた自分以外を指す言葉だという認識は一般的なのだろうか。そもそも他者という言葉を使う頻度は他人に比べてあきらかに低い。むしろ今までほとんど聞いたことがなく見かけたこともない。「他者と他人」という評論文を国語の問題で見たことがあり、思い出した程度だ。

レヴィナスの他者論(PDF)

 

言葉の定義はともかく、いわゆる辞書的な意味においての他者を、今回は他人という言葉で使用させていただく。僕は自分の血縁が他人だという意識を持っている。「血縁だから」というつながりにあまり大きな意味を見出していない。確かに他の人間関係と比べたら特別ではあるだろう。しかしその特別は特に別なだけであって、特別優れているといった崇高な意味ではない。「家族だから」「血縁だから」という理由は、何かを肯定したり受容したりする理由にならない。「血縁だから」で変わることといえば血縁以外の人と比べて付き合いが長くなる確率が高いこと、それによって血縁以外の人よりも親密度が増す確率が上がることぐらいじゃないだろうか。兄弟よりも仲の良い友人がいて、親子よりも信頼関係の強い師弟があることに不思議はない。そういう基準において、ただ「家族だから」ということが他より優先される理由にはならない。親であろうが子であろうが兄弟であろうが、自分以外の他人という意味では同じだ。人と人との関係は単に親密度で測られる。血縁は保証にならない。「血縁は別物だ」なんて言い切れるだろうか?その根拠は?

共同体 - Wikipedia

血縁が崇高というのは、ある種の宗教であり社会システムだろう。儒教や古来から続く相続制度、家督の承継などがその例に挙がる。それらの起源をもっとたどれば、種の保存と繁栄を目的とした生物の本能プログラムに含まれるコマンドの一部かもしれない。「自分の遺伝子を大切にしろ」という本能から来る命令が意識や無意識を縛り、自らの遺伝子を守るために血族を守り、そういった宗教やシステムを生み出したとも考えられる。もしくは、単にそのほうが共同体を築くにあたって効率的だった、人類という動物が繁殖するにあたり適した仕組みが血縁という共同体だったのかもしれない。それがたまたま広範囲に渡ったとか。やはり考えれば考えるほど、情緒的な面において何か特別だなんていう風には言えない。あるのは合理性だけだ。その合理性にしたって、現代でも過去でも、ある一定の条件下においては他より効率的に機能する関係性、であるに過ぎない。一定の条件下とは、主に慣習や法律ということになる。もしくは臓器移植とか。輸血にあたっては血縁よりも血液型が優位になるが、臓器移植は血縁のほうが適合性が高いことが多いとか。実際は他人からの臓器移植も一般的だから何とも言えないけど。専門家ではないので詳しくは知らない。

移植(臓器移植)|アステラス製薬|なるほど病気ガイド

組織適合性 | 京都府立医科大学 大学院 移植・一般外科

自分の親などが「お前は冷たい」等といった言葉を投げかけてくると、僕はたいていこういう話で返す。すると余計に幻滅される。内容を聞く耳は持たれない。自分は彼らが嫌いだとか、彼らに対して恩がないとか、関係がうまくいってないとかそういうことはない。ただ単に自分にとって、自分以外は親兄弟であろうと誰であろうと、皆平等に他人なのだ。信頼関係があるから許容されることはあっても、家族だからという理由だけで許されたり負わされる責任などというのは本来存在しない。