ユダヤの足跡を辿る、プロローグ

先日からこのブログにおいてちょくちょく話題に挙げていた旅行が始まっている。今回のテーマは「ユダヤ人の足跡を辿る」。旅行の初日、始まりの地はスペイン、アンダルシア州、グラナダ。グラナダはレコンキスタ完了の地として有名だ。ヨーロッパでありながらもイスラム教の様相が多く残り、文化の混在が観光客を集めている。中でもアルハンブラ宮殿は歴史の教科書でも名前を見たことがあるような場所で、15世紀頃のナスル朝というイスラム王朝によって大きく拡大された宮殿が現在まで残っている。

アルハンブラ宮殿 - Wikipedia

 

この土地と今回のテーマであるユダヤ人に何の関係があるかと言うと、このアンダルシア地方はレコンキスタが完了した後に異端審問が行われ、多くのユダヤ人が犠牲となった地でもある。そもそも何故この土地に多くのユダヤ人がいたか。それは紀元66年から74年までのユダヤ戦争、132年から135年のバル・コクバの乱に遡る。

ユダヤ戦争 - Wikipedia

バル・コクバの乱 - Wikipedia

ローマ帝国によってエルサレムが陥落し、2世紀のバル・コクバの乱からイスラエルを追放されたユダヤ人は各地に離散することとなった。その行き先の一つとしてこのアンダルシアがある。この地は祖国を失った多くのユダヤ人が逃げてきていた場所だった。レコンキスタ後、アンダルシア地方ではキリスト教徒によって異端審問という名の異教徒締め出しが始まった。もともとはアラブ人を対象にした異端審問であったが、迫害の対象はユダヤ人へと移り虐殺まで起こった。カラマーゾフに出てくる有名な「大審問官」は異端審問の話だと言われている。アンダルシアでは他にもコルドバという場所に寄り、メスキータを見てくる。これはついで。

スペイン異端審問 - Wikipedia

我々が次に向かうのはアンダルシアからジブラルタル海峡を越えた先にある国、モロッコ。海路からタンジェに入国し、モロッコに来たんだからここには一応寄っておこうということでシャウエンへ向かう。その後、夜行列車を利用して遠くマラケシュまで足を伸ばし、モロッコの旅はそこまでとなる。モロッコの旅と言えばフェズやサハラ砂漠へ向かうツアーなどが有名だけど、あまり日数がなくてそのどちらも行けないだろう。モロッコは思ったより広く、行く場所も意外と沢山ありオーストラリアで出会ったモロッコを旅行をしてきた人いわく「モロッコだけで2ヶ月は必要」とのことだった。今回はスペイン、モロッコ以外に4ヶ国回ってトータル1ヶ月の日程だから行き先の多くを削ることになった。

さて、このモロッコの地がユダヤ人とどう関係するのかというと時系列になる。異端審問によってアンダルシアを逃れてきたユダヤ人の行き先がモロッコだった。モロッコ以外にもあったがアンダルシアから一番近く、多く逃れてきた地がモロッコとなる。ユダヤ人と言えばアシュケナージ、スファラディというこの2系統に多くの人が分類されており、アシュケナージとはヘブライ語でドイツ人という意味でスファラディはスペイン人という意味になる。ディアスポラの際にドイツからヨーロッパに広まったユダヤ人が一般的にアシュケナージと呼ばれ、スペインからその地を終われモロッコを初めとしたアラブ諸国に離散したユダヤ人がスファラディと呼ばれている。つまり、僕らはアンダルシアからモロッコへとスファラディの順路を辿っていることになる(元からモロッコに移住していたユダヤ教徒もいると思うけれどそのあたり詳しいことはよく知らない)。

セファルディム - Wikipedia

その次に向かうのは、ユダヤ人が最後に帰ってくる土地、の前に近くを寄り道してヨルダンへと向かう。ヨルダンではペトラ遺跡を訪れるだけ。ペトラ遺跡はユダヤ人にもイスラム教にも何の関係もなく、実は僕は以前に行ったことがあるんだけどその時はあまりに疲れていてじっくり回れなかったため近くを通るからついでに寄ることになった。ペトラは2泊だけしておしまい。

そして最後に、ユダヤ人が最終的に向かう土地、ディアスポラの地においても毎年の決まり文句となった「来年の過越祭はエルサレムで」、そう、イスラエルに向かう。ヨルダンの首都アンマンからバスに乗り、陸路で国境を越えたすぐ先にエルサレムがある。イスラエルについては2015年の10月頃から再びあまり良くない情勢が続いており、もしかすると足を踏み入れないかもしれない。イスラエルの情勢悪化を知らせるニュースはこの日までに何度も目にしてきた。エルサレムから近いパレスチナにあたるベツレヘム、ヘブロンはさらに状況が悪いそうでこちらの方こそ本当に訪れられないかもしれない。

イスラエルと言ってもやはり日程の関係上エルサレムに滞在するだけ。パレスチナやテルアビブには日帰りで寄る程度になり、ガリラヤ湖やそのあたりのキブツに寄ったりはできない。エルサレムの見どころは言うまでもないと思うが、一つはイエス・キリストが処刑されたゴルゴダの丘とそれに至るまでの道ヴィアドロローサ。二つ目はヘロデ王時代のイスラエル神殿、第二神殿の唯一残った部分であるユダヤ教の聖地、嘆きの壁こと西壁。三つ目は中にこそ入れないものの、ムハンマドが遠いメッカの地からミウラージュしたと言われる場所、岩のドーム。これら3つの異なる宗教の3つともの聖地がこのエルサレムであり、数々の歴史の舞台、争いの中心となったこのエルサレムの地をこの目で確かめるというのが今回の旅行の一番の目的でもある。歴史の中でガルートはどういった経緯で否定されてきたのか。何故いまだに第二神殿の崩れた壁が聖地扱いのままで、第三神殿が建設されないのか。契約の箱は今一体どこにあるのか。キリスト教シオニストは現代においても有力なのか。そういった疑問の答えをこの地で見つけられるとは思っていないが、それらに繋がるなんらかの空気を感じることはできるだろう。

最後の目的地と言いつつも、本当の最後にもう一ヵ所寄り道する。イスラエルから近くて安く行ける場所がどこかあるかなと思って候補を挙げ、結局ギリシャになった。ギリシャも本当は夏に訪れ、日数をかけて離島を回ったりするべきなんだろうけど今回は冬のアテネに寄るだけとなる。じっくり回るのはまたの機会に。他の候補としてトルコなんかがあったけれど、それまであまりにもイスラム圏ばかり回るからモスクとかさすがに見飽きるだろうと思って外した先がパルテノン神殿となった。だからここもやはりユダヤ人もイスラム教も何も関係はない。

今回の旅先を予習するとこういう感じになる。こんな説明をしていると「何て楽しくなさそうな旅行なんだ!」と思うんじゃないだろうか。そこにはレジャーもヴァカンスもアクティビティも食べ歩きもなく、あるのは歴史、民族、文化、宗教、勉強、勉強だ。しかしこういう楽しくない旅行こそが我々の意思であり目的である。旅行にあたり購入して持参した本はアイザック・ドイッチャーの「非ユダヤ的ユダヤ人」(この人は名前の通りアシュケナージだから旅行とは直接関係ないけれど)。 

非ユダヤ的ユダヤ人 (岩波新書 青版 752)

非ユダヤ的ユダヤ人 (岩波新書 青版 752)

 

ちなみに我々とか僕らとか書いている通り、今回の旅行には連れ添いがいる。以前に会話した内容をyoutubeに載せたから、お聞きになられた方はご存知かもしれないが2015年の8月頃にこの旅行の話は既に出ていた。

これが実現したような形になった。なんでこんなことになったかというと、お互い行きたかった場所が一致したからなんとなく同行することになったというだけ。なんててきとうなんだろう。それにしても去年はキューバやポーランド、ボスニア・ヘルツェゴビナとその近隣を訪れ、今年もどっか行きたいとは思っていたからいい機会だった思う。そういう目的でもなければオーストラリアの農場生活も耐えられなかっただろうし、僕が前々から行きたかった国リストも2つ消化されることになる。この旅行を終えれば今年はもうどこにも行かないだろう(オーストラリアにはまた滞在するが)。来年もまた何らかの形でどこかに行ければいいなともう次の旅行の事を考えている。

2016.2.22. モスクワ行きアエロフロートの機内にて

https://www.instagram.com/p/BCHJYcGhvN-/