生きる目的は何か

「生きる目的」というのはつまり、人間、もしくは生物は何のために生まれて何のために死ぬのか、という意味になる。それは個人にとって生きる意味とかそういう話ではなく、生命体というものの存在意義のことを指している。何故、どうやって発生して、何のために生きて死んでいくのか。自然発生なのか、何らかの意志が介在しているのか、その仕組みは一体どうなっているのか、生命は何のために生まれては死んでいくのか。何を目指しているのか。その先には何があるのか。こういうことは誰か知っていますか?その答えはなんですか?Googleで検索して出てくるのだろうか。

 

一つの答えがあった。これがどうやらこの問いかけに対する答えの定型らしい。「目的なんかない」という回答だった。強いて言えば「ただ生きる」ということを目的としているとか。生命というのは、発生したからにはただ生きている。生きるということそのものが生命にとっての宿命であると。ただ生きるために環境に適応しようとしたり、ただ生きるために物事を考え、外敵を排除したり物を食ったり休憩したり働いたりする。ただ生きるという状態を維持するためだけの機械、システムがどうも生命というものらしい。だからそこには統一性がなく、各々の意思でただ「生きる」という命令を実行している。では生殖はというと、分裂に近いみたいだ。生きるという行為を延長するために生殖を行なう。何らかの形で永遠に生きようと努めるのが生物の本質だと説かれていた。なかなか異論の挟む余地が無い。神だの第三者の意思だのという話はたんなるロマンチシズムに過ぎない。いわゆる本能というもの、生命に根源的に与えられた使命はただ生きるというだけで、それ以上もそれ以外もない。なるほど、そういうものか。

そうなってくるとやはり、自死というのは矛盾が生じる。生きるためだけに生じた生命が、自らの手で自らの生命を終わらせるのはどういうことか。これは複雑になりすぎたシステムのエラーによって起こる現象ではないだろうか。生命活動を維持できる生命体が、生命体そのもの意思で自然に機能を停止することというのはまだおそらくできない。機能を停止するには何らかの手段を用いて、生命活動という意思に反して、強制的に停止することしかできない。それはある種のエラー行動である。単純な仕組みのおもちゃや機械にも不具合はあり、複雑な生命にエラーが起こらないはずはない。エラーを起こす仕組みやパターンもあるだろう。人間の自死も、信号が狂って陸へと向かって泳ぐイルカなどの行動と同じ。

自分が生まれて死ぬ世界というのは、そういう偶発的に発生した生命体、ただ生きるという機能を持った物体で満ち溢れた世界だったということだ。そう、生きるということは機能と呼んだほうが正確かもしれない。ライトが暗闇を照らすように、ボルトが繋ぎ止めるように、生命体は、ただ自律的に生きるという機能を行使している。それ以上の意思も目的もなく、その先もない。ただ生きるのみ。例外もないだろう。どの生命体であろうと、ただ生きるという機能を保持し、行使する物体だ。我々に与えられた根源的な命令はただ単純な「生きる」というものだけだ。さて、僕はその生をどうしようか。どう扱おうか。生きることを強いられた魂は、その目的を行使するにあたり頭を悩ます。「生きる」という機能をどう処理しよう。どうできようか。意識を持つということは難儀だ。考えるという過程は存在しても、答えという結果を出せないこともある。これ以上全然思考が進まない。生きるという機能は生まれてから常にオンの状態になっている。生命を維持するには活動が必要なため、オンの状態を維持しようとするのがまたこの生きるという機能でもある。人為的に強制オフはできるだろうが、それはおそらくエラーの結果であり、今のところそういうエラーは発生していない。この、保持している生きるという機能について考えていると、身体に違和感を覚える。これ以上考えが進まない。しかし同時に、考えることをやめられない。