趣味が合わない人同士

生活していく上で、人付き合いというのは切っても切り離せない。友人であったり家族であったり、彼氏彼女といったプライベートな付き合い、同僚であったり上司や部下、先輩後輩、取引先や顧客関係などの仕事上の付き合い、それ以外には趣味で付き合う同好の士なんていうのもあるかもしれないが、広義では友人に入るだろう。僕のようにシェアハウス生活が3年近く続いていれば、単なる同居人という関係もある。他にどういった形で人間関係があるだろうか?思いつくのはこれぐらいだ。

 

そんな多種多様な人間関係の中で、「趣味が合う」というのはどれぐらい重要だろうか。仕事上においてはさして重要ではないが、趣味を武器に仕事上の関係を円滑に運ぶということもできる。例えば、ゴルフといったスポーツや麻雀、音楽の趣味なんかで意気投合し、仕事以外での繋がりを深め仕事をやりやすくする、コミュニケーションを取りやすくするという手段がある。接待なんかはその典型的な例だろう。これは「趣味」が「手段」として利用され、事務的であり実利的である。それでも趣味そのものを楽しめるならこれほど楽な手段はなく、効率的で有効だと言える。時には興味がないにもかかわらずそういった趣味を始めざるを得ないこともあるが、結果的に楽しめれば仕事もうまく進んで万々歳である。

ではプライベートではどうか。プライベートにおいてはことのほか趣味が重要になってくるように感じる。活動としての趣味に限らず、センスや好み、方向性といった面で、同じ趣味の者同士が集まる傾向にあるだろう。家庭内においてさえ趣味が合う者同士の親交が深まり、それ以外は疎遠になることがある。プライベートは仕事と違い、無理して付き合う必要がないため自ずと趣味が合う、もしくは話が合う者同士だけの関係に陥りがちだ。自分の友人や仲がいい人を思い浮かべてみれば、どこかしらそういった共通の趣味、話が合う部分で繋がっていることが多いだろう。中にはもちろん親類の縁であったり、活動を共にする仲間といった縁、そういった偶然をきっかけに仲良くなっただけの関係もあると思う。趣味は合わないが、そういう縁を通じて知り合い継続できる関係というのは大切にしたいものだ。

人間関係というのはむしろ、その3つしかないのではないだろうか。

  1. 必要があって付き合う
  2. 趣味が合って(気が合って)付き合う
  3. 縁があって付き合う

これらは同時に、人間関係を築く上での順番にもなってくる。そこには2つの軸があり、

  • 簡易性
  • 親密度

この2つで測ることができる。必要があって付き合う場合、お互いの関係を築きやすい。むしろ築かざるを得ないため、相手を見て譲歩しながら距離を縮め、関係が円滑に進むよう試みる。接客などがその典型例となる。しかし同時に、親密度においては最下位となる。やりたくてやっているわけではない。業務的である。趣味が合って付き合う場合はちょうどその中間になるだろう。趣味さえ合えば、趣味という媒介をベースに関係は築きやすい。同じ趣味を分かち合う者同士ということで親密度も上がりやすい。しかしそれはそれで、趣味だけの関係に陥りやすい。縁の関係はどうだろう。たとえ縁があったとしても、なかなか親交は築きにくい。表面上の関係はできあがるかもしれないが、それはただの知り合いであり親交とは言えない。そして縁がきっかけで一度築かれた親交は、なかなか崩れないのではないか。必要性があるわけでも趣味が合うわけでもない、それでも築かれた人間関係は、敢えて疎遠になる以外に途切れる理由を持たない。これら、必要性、趣味、縁という媒介は複合的に絡み合う。先ほどの仕事上の例のように、必要性から趣味で意気投合することがあったり、縁があった人と関わる必要性も出てくる。関係を補強してくれることもあれば台無しにすることもある。「仕事で関わってなければもっと仲良くなれた」という人がいるように。このあたりは自分でコントロールできる部分もあればそうでない部分もあり、仲良くなるつもりがなかった人と腐れ縁を築く反面、もっと仲良くなりたかった人と疎遠になる。自分が望むような関係を他人と築くのはなかなか難しい。

ここからは自分の話。僕はあまり人と話が合うことがない。趣味が合うということがほぼなかった。それについて象徴的なツイートがあった。

僕の場合、自分の周りどころかネットにもツイッターにもどこにもいなかった。単に趣味というだけなら旅行が好きな人、写真を撮る人、本を読む人などいくらでもいる。それこそネットをやる人はネット上にあふれかえっている。しかし彼らと話が合うかというと、合わない。同じカテゴリでくくった相手ともやはり、趣味が合わない、話が合わないということが当たり前だった。映画好きな人と話せばお互い見たことがない映画を見ており、例え対象が重なったとしても意見が合わない。話が合わない。人はよくそんな簡単に同好の士を見つけられるなあと羨ましく思った。ツイッターに関して言えば、「この人をフォローしたい」という対象がなかなか見つからない。この人と繋がって話をして意気投合して仲良くなって、という対象がいない。人がそこまで考えてフォローしているのかどうかは知らないが、Twitterに限らず日常生活においてもそれは同じ。同好の士なんてどこにもいなかった。だから僕は、人と関わるにあたって必要性を持って関わるか、縁があって関わるしかなかった。趣味という選択がない。

趣味が合わない者同士

自分と関わり、なんらかの関係を築く相手は全員が趣味の合わない人だった。そして自分と相手の趣味が合わなくても、相手が別に趣味の合う人を見つけたらそっちに流れていってしまう。それ以前によほど強固な関係があったりしない限り、浅い段階だと人は共通の話題がある人、話が合う人と仲良くなる。残された俺、かといって自分が興味ないものに興味を示そうなどとはとても思えない。人が興味を持っていることにあまり興味を持てないから今の自分があり、関係性を築くためやりたくないことに手を出すなんていうことはちょっと考えられない。なるべくしてこうなった。だったら自分はどうやって人と関係を築けばいいのだろうか。残されたのは、必要があって関わる事務的な人たちと、ほとんど無い縁を頼りに仲良くなる人たち。彼らとの関係を趣味以上に強固に築くしかないのだろうか。もう一つあった。関わる必要がなければ趣味も合わない、ましてや縁もない人たち。それは、自分だけが好きなことを黙々と一人でやっている人。これは関係を築くというよりも、僕にとって興味の対象だった。

彼には同好の士がいない。仕事上で関わる人や、彼と縁があって仲良くしている人はいるが、彼は常に一人で、誰とも分かち合うことなく何か好きなことをやっている。彼のやっていることは理解できない。何が面白いのかさえ、さっぱりわからない。僕だって彼と何も分かち合うことができず、同好の士にはなれない。僕に限らず、彼の周りにいる誰もが彼の趣味を理解することができない。しかし、その姿勢そのものに何か通じるものを感じる。彼は何か面白いことを一人でやっている。もちろんその内容によっては彼自身に全く興味を示せない事もあるが、大抵の場合、誰にも評価されず誰とも分かち合うことのないまま一人で我が道を進んでいるその姿に惹かれる。僕は彼と同じ道を歩めない。興味の対象が違うから。でも彼のその歩む道、歩む姿というのは光り輝いて見える。僕は彼と仲良くなりたい。