何故、人は承認を求めるのか

承認欲求という言葉が独り歩きしており、いたるところで見かけるがいまだにその意味がよくわからない。「承認が欲しい」という文字通りの意味はもちろん理解できるけれど、それは一体何のためか、考えたことあるだろうか。生理的な欲求かもしれない。しかし、その生理的な欲求にさえ、原理が存在する。欲求が生まれ、満たされることによって生じる何かがある。それは一体何なのか、その感情的な部分を説明する理屈を探してみることで、承認欲求の正体をつかむことができるんじゃないかと思った。

 

Google先生に聞いてみた

Google先生に聞いてみたと言うが、実際はGoogleが答えを教えてくれるわけではなく、ただ検索して情報へ導いてくれるだけ、サーチエンジンオーガなんとか。

一番目に出てきたページによると、承認欲求には他者承認と自己承認の二つがあるとか。これらは要するに他人から認められたいという気持ちと、自分の理想に近づきたいという気持ちの二つあるという意味らしい。この二つって全然違くね?世に言う承認欲求は前者に該当するんじゃないだろうか。

それでは何故他者からの承認を求めるのかというと、進化の過程で生まれた生存に必要なシステム、だそうだ。人類が集団生活を営むようになり、他者から承認を得ることで生存可能性を上げる仕組み、らしい。

もっと噛み砕いて言えば、家族やご近所、友人グループ、村、職場といった社会的な集団がある。人間は古来からそういった社会集団の中で生活している。多くの動物は、個体の能力不足を補うために群れを作る。群れに所属することにより、生存確率を上げている。人間の場合でも同じことだ。人間はその群れが、家族やご近所、村、職場、地域、民族、国家といった社会集団であり、集団が個々の能力不足を支えいている。そういった集団に所属するためには、一定の要件を満たさなければならない。それぞれの集団がその水準を保つため、集団ごとに違った要件が科せられている。例えば血縁であるとか、国籍であるとか、言語であるとか、近所付き合いとか、人格者であるとか、学力であるとか、仕事のスキルとか、そういった集団ごとの様々な要件を満たすことにより、社会的な承認を得て、集団に所属することが可能になる。他者、すなわち社会集団に認められることで集団への帰属が実感され、自身の生存確率の上昇を感じることができる。これが他者承認のメカニズムだ。承認欲求の強さは生存欲求の強さと置き換えることができる。一般的に科せられる要件の難易度が上がれば上がるほど、水準の高い集団ということになり、より水準の高い集団に所属することで生存確率の上昇も期待できる。

自己承認に関しても仕組みは違うけれど、より高みを目指して生存確率を上げるという目的は同じだろう。そしてお馴染みマズローの仮説が紹介されている。さらに承認欲求を人類普遍のものという前提のもとに、妨げることの弊害が書かれている。

その上で現代において承認欲求が注目される理由と、その解決のルートまでがこの記事の一通りの流れだ。解決策としては他人が自分を認めなくても自己承認し続けていればいいなんていうすげえ変な内容になっている。「自分すごい」と脳内で唱え続けていれば脳が騙されてくれるとか。これは何の解決になるんだ一体。自分に自信を持てない人が自信を持てるようになる方法ってことか。なんだかよくわかんないなあ、なんかすごく危険な香りがする。

ここでは他者承認を得られない悩みを自己承認することで解決しようと言っているが、それはちょっと無茶な話ではないか。自己承認で自信がつけば他人も認めてくれるだろうって、それはあまりにも投げっぱなし過ぎる結論だと思う。ここは通常だと切り分けて考えるべきではないだろうか。つまり、自己と向き合うことと、他者と向き合うことを混ぜこぜにしてはいけない。自分と他人との距離をあまり感じない人であればそれでもいいのかもしれない。そういう人は自己承認が他者承認に繋がるのかもしれない。しかし、どうだろう、少なくとも自分はそうではないからこの話にはものすごく違和感ある。

自分と他人は別物だ、という認識があればこのようなごちゃ混ぜは起こらない。自分のことは自分のこととして、他人のことは他人のこととして考えることができる。そのあたり混ぜて考えたり繋げてしまう人は、人間同士が意識の何処かでつながっているとか、人はどこかで必ず分かり合えるとか、常識や価値観を共有しているとかそういった自己と他者が同一の者であるような勘違いがあるのではないだろうか。自己承認によって自信を持つのは勝手だが、それを他者承認に繋げてしまうのは非常に危うい考えだと思う。

承認欲求 - Wikipedia

検索結果の二番目に出てきたのは我らがWikipedia先生である。こちらではより短い文章で大雑把な定義や分類、参考文献などが記載されている。文章が短く学術的な引用であるため、くわしくはわからない。文献読めってところだろう。

三つ目、承認欲求うぜえって話です。ネットのそこかしこで見かける承認欲求の話題も大抵がこの承認欲求うぜえという話。ここでも承認欲求は自らを高いステージに上げるため必要だけど、過剰だとうざいよねっていう人間心理に基づき、過剰な承認欲求の特徴を羅列している。正直どうでもいい話だった。気にすんなよ、で終わり。

認められたい..。承認欲求ってなんだ?|モチベーション向上の法則

四つ目、だんだん考察が雑になってきた。最初の方はだいたい同じことが書かれている。ここで新たに出てくるのは「承認欲求を否定するアドラー心理学」と「自己実現欲求」という言葉。アドラー心理学は「嫌われる勇気」のベースになっている理論であり、自己実現欲求とは承認欲求の次の段階にある欲求だそうだ。それを紹介しているまではいいんだけど、そこから先は本を読めという内容になっており特別なことは書かれていない。とりあえず、承認欲求の先にある自己実現欲求とは何なのか。またまたWikipediaによると「自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求」だそうだ。自己承認欲求とどう違うのか、欠乏欲求と存在欲求だそうだ。よくわからない。本を読めということか。さらにその上には自己実現を果たしたものに自己超越欲求というものが生まれ、それも果たした自己超越者が存在するとか、もう全然わけがわからない。このあたり古い心理学の話になるので、勉強した人はよく知っているかもしれない。興味ある人は変な自己啓発本読むよりも専門書で勉強してみればいいんじゃないだろうか。

五つ目、こちらでは承認欲求を満たすためにどういった行動を取ればいいのか、という解説の序盤。その先には大体において「社会への順応の仕方」が書かれている。これについてはやや宗教じみていて自分には関係ないというか興味ないというか、読む気にならなかったから飛ばした。読む人は「作法」程度に考え、あまり真に受けないほうがいいと思う。当たり前のことが書いてあると思うかもしれないが、何故それが当たり前なのか、当たり前を疑うところから考えたほうがいい。

【ほとんどの人間は、自分の意思よりも他人の評価を尊重する】承認欲求という拠り所を失った今、私は何を頼りに生きればいいのか《川代ノート》 - 天狼院書店

他者承認と自己承認について主に書かれている。他者承認の欲求が自己承認へのハードルを上げているとか。つまり、他者が認める自分でないと、自分も認められないということ。それってつまり他者承認の問題じゃない?違うの?おそらくこの辺りで自他の混同が見受けられる。だって、自分が望むものと他人が望むものは違うはずでしょ?他人に認められる自分が好きっていうことは、つまりはそこに自分が無いということになる。自分を自分で判断できていない、他人任せの自分しかいない。他人に認められない自分が好きじゃないんだったら、自分の判断基準は無いのか?無いのだろう。これを自己承認だと呼ぶなら、自分は今まで自己承認の意味を取り違えていたことになる。だってそこに自己は無いでしょう。というかこの記事は一体何だ。本屋のブログみたいだけど構成がどうなっているのかいまいちよくわからない。

承認欲求であったり自己承認うんぬんは心理学の言葉みたいで、それを知らずに語るのはただの個人の感想の域を超えない。この分野についてまじめに考えたい人は、一度マズローからも離れ学問として心理学を真面目に勉強してみたほうがいいかもしれない。よくわからない自己啓発本は捨てて。

「承認欲求うぜえ」は自分の鏡

検索していろいろ読んでみるとやはり「承認欲求うぜえ問題」をよく見かける。その度に、気にし過ぎじゃないかなあと思う。何をそんなに承認欲求承認欲求と騒ぎ立てるんだろう。何がそんなにうざいんだろう。日常生活において「俺すげえだろ!俺を認めて」と問い詰められるとうざいのは理解できる。それは受け身の立場であり、そのノイズを拒まなければ被害を受けるからだ。しかし、ネットにおいては異なる。アクセスしなければいいだけの話。いくら承認欲求がのさばっていようと目にしなければいい。読まなければいい。あらゆるところにチラついて邪魔、読んでみたら結局承認欲求かよ!ってオチがうざい、というのはまあ、スルー力を高めろとか気づけよとしか言い様がない。しかし「承認欲求うぜえ」と声を上げる者は大抵自らその承認欲求を見つけ出して食って掛かる。ほっとけばいいじゃんと思うんだけど、そうはならない。それどころか全然違うものに対しても「はいはい承認欲求」と自ら承認欲求断定をしてくる。いや、違うって見たらわかるでしょ。そういう人は大抵承認欲求に取り憑かれてるあまり、他人の承認欲求が気になってしょうがない。まさに他人は自らの鏡、他人の承認欲求を気にしている暇があったら自分と向き合ってください。

承認欲求は必要

承認欲求は必要であり、健全なことなんだなっていうのが大体わかった。それを努力や成功によって満たすことで、もう承認にはこだわらなくなり、もしくは自然に得られるようになり、次の段階なりなんなりに進んでいくのだろう。しかし、過剰な欲求が空回りすることで返って承認が得られなくなり、悪循環に陥る例が後を絶たない。自分の承認欲求としっかり向き合うことが大切、みたいな話で大体世の中の議論は終わっている。その手段を示したり承認欲求との向き合い方を導くことで、過剰な欲求と空回りの行動を抑え、上手く満たすことで解決していこうとしている。では、向き合えなかった人間はどうすればいいだろうか。向き合う努力をしてください。まあ、もちろんそうなる。

(他者から承認を得るっていうことは、自分とは違う生き物である他人に判断を委ねることであり、どう頑張っても最終的に自分で左右できないことだから実現が難しい。その段階を超えるということがよくわからず、やっぱり多くの人がそこで挫折している。他者承認の実現方法なんて実証されてるの?)

承認のその先に何があるのか

マズローやらアドラーやらはよく知らないけど、承認欲求を乗り越えたいという人は「嫌われる勇気」でも買って読んでみたらいいんじゃないだろうか。5段階目の自己実現者になれるのかもね。とにかく本題に入ろう。ここでは承認を求める理由として、生存のために培われてきた生理的なシステムである、というような仮説があった。村社会で生き抜くためには共同体に認められる必要がある。元をたどれば、生存が理由となってくる。認められたい願望は、認められることによって共同体における地位向上を目指す。地位が向上すると生活が楽になる。生存確率が上がる。承認欲求は一見ただの満たされたい願望ようだが、元をたどればただ自分が楽をしたいだけという実に小癪であり打算的な願望だ。そして過剰な願望がかえって生存を脅かしているという皮肉な話である。

人類の生きる目的はただの生存にある、というようなことを以前見聞きした。もし承認欲求を取っ払おうと思えば、その前提を覆すしかないということになる。

承認を求めないために

他者承認においては、共同体における生存が欲求を生み出す原点になる。ではそれを否定してみよう。この現代ニッポンにおいて、共同体における生存の否定がすぐさま死に直結するわけではない。生存確率は著しく低下するだろうが、自給自足も古代よりは簡単になっている。また、文化や文明により共同体の承認というプロセスを省くこともできる。植物の種を得るために信用はいらず、貨幣さえあれば事足りる。栽培の知識を得るために承認はいらず、ネットでも書籍でも調べれば必要以上に手にすることができる。承認不要の立場に立つことで、承認欲求から逃れることができるのではないか。共同体における生存を否定することで、他者承認は無用の長物となる。自己実現欲求などというものにステップアップする必要もない。

自己承認においてはどうか、それを否定することはすわなち、自己生存の否定に繋がる。何のために生きているのか、それは生きるために生きている。生物とは生きる者であり、生きるために生きているから生物なのだ。それを否定するということは、生物をやめるということになる。それが果たして死に直結するかというと、そうとも限らない。例えば、いわゆる生ける屍だ。生ける屍と呼ばれる人は、実際に死体かどうかは別としてあらゆる場面において遭遇する。他にも自己承認が必要ない人なんてめずらしくないだろう。欲求段階説に則るとすれば、承認欲求の段階にまで来ていない人が皆そうなる。生きていればそれでいいじゃないか、それで幸せだと思えれば承認なんか必要ないだろう。自分のやっていることが楽しければ、他者からの承認や自分で自分を認める必要などない。承認欲求とはある意味で向上心だと言える。皆が皆向上心を持っているかと言えばそうではない。現状維持で良いなんて思うことは何ら不思議ではない。

向上心を否定するということは、生命における進化を否定することになる。それがすなわち自己生存の否定に繋がる。「進化だと?そんなものはこちらから願い下げだ」と思う人は承認欲求を否定するもよし、もっと上の段階を目指して自己実現したいという人は向上心を持ち、とにかく前を見て歩み続けるだろう。頑張れ承認欲求!

どうしたら幸福になれるか〈上〉 (1960年) (岩波新書)

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