レズ風俗とあきらめの境地

承認欲求について調べたり考えたりしたのは、今話題の「レズ風俗」を読んだからだった。現代における承認の欠乏がよく書かれていたと思うけど、自分がこれに共感したという部分は全くないなあ。こういう人もいるよね、とは思った。ただそこに過剰に出てくる「承認欲求」という言葉が気になり、そんなに欲しいの?そもそも承認欲求ってなんだ、と思って調べたまでだった。調べた後にこのマンガを最後まで読んで、承認欲求についてはこのマンガのほうがかなり理解し易い内容になっていた。いくつかレビューも読んだ。

 

ここでは特に親との関係について、実体験も踏まえて感想を書かれている。マンガの方でもそうだったけれど、親との関係におけるいざこざに影響を受けることは多いらしい。自分にとっては親が最初の他人であり、親離れしたのは小学校2,3年の頃だったか、もうちょっと遅かったかな。親との関係であれこれ考えたことはそれ以降なかったように思う、と言うか、期待しなくなった。親自身も人並みに心配はしてくれるけれど過干渉ではなく、理解があるというより他人の意思を尊重してくれる人たちで、いい年して会社辞めて外国へ行って帰ってきてもあれこれ言うことはなく「危ない国は行かんといて」と言われる程度で恵まれている。

[書評] さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ(永田カビ): 極東ブログ

ここでは「レズ風俗」である必要はなかったんじゃね?ということが書かれている。それは自己啓発セミナーでもグループカウンセリングでもあり得たんじゃないか、むしろそちらのほうが本義に近いんじゃないかという話。その上でレズ風俗へと至った著者の、女性身体への欲求みたいなのが今後どうなるのかという部分にも触れている。実際そういったセミナーやカウンセリングで関係を持ったという話も聞いたことがあり、それはもちろん治療者としてではなく付け込まれただけなのだろう。そういう点で見れば、そして本当に肉体的接触を求めているならば仕事として割り切っている風俗のほうが安全かもしれない。

この作品はネットでも読めるけれど順番がよくわからない。書籍版を買ったほうが読みやすそうだ。

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

そう言えば今まで何度か「寂しいと思わないの?」ということを聞かれたことがあった。何人かから「単純に抱きしめたいとか思わない?」というような事も聞かれた。無い。無いでしょ?遠い昔にはあったかもしれない。それこそ物心つくまでには。そんなもんじゃないの?特に男性はそんなこと思わないんじゃないだろうか、聞いたことがない。女の人がよくそういうことを言う。

あきらめの境地

さて、承認欲求について自分なりざっと調べてみて、自分に承認欲求があるのかというと、無くはないだろう。ただちょっとそのあたり入り組んでいてややこしい。あまり他人から認められて嬉しかった覚えがない。それは一度も認められなくて、という意味ではなく、認められたところで何とも思わなかったということになる。認められたい、と思う分野も対象もごく限られており、それ以外の人から認められるのはちょっと嫌だったりする。例えば、物の価値がわからない人間が何かを認めたところでそれが正当な評価に繋がるかというと繋がらないのと同じだ。そんな誰かれ構わず認められたいという気持ちはない。権威主義なのか、そういうわけでもない。しかし物事を認めるには、やはりそれなりの技量であったり認めるにあたっての見識が必要だと思う。それが無い人に認められてもしょうがない。なんて嫌なやつなんだ、と思うかもしれないが。

世間に認められたい、世の中に認められたい、そういう気持ちは全く無い。そこには何ら価値を見いだせない。今まで自分を全否定してきたものが自分を認めるなんて、あり得ない話だ。あってたまるかと思う。そうなるともはや媚に近い。嘘である。自分はそもそもマスを認めていない。自分が認められたい対象は自分がその筋で敬意を払う相手に限られている。同時に、そういった自分が認められたい対象から認められることもあり得ない。決定的に能力が足りない。覆しようがない。アメリカ大統領選挙に立候補して勝つぐらい不可能だ。だから、仮に認められたとしてもそれは嘘になる。自分の無能さは誰よりも自覚している。よって自分にとって他者承認というのは叶うことがない。承認は永遠に得られない。それは「自分は本当はもっとすごいんだから俺を認めろ」という気持ちとは違う。自分は認められるに足りない、自分が認められる範囲はせいぜいこの程度であり、その承認を得たところで自己確認に過ぎず、頑張る気は起こらない。そうやって満たされることのない欲求を半ば諦め、放棄した。

それでは自己承認についてどうだろうか。自己承認とは自分で自分を認めることとあるが、いまいちよくわからない。自分はこれでいい、と思うことだろうか。自分頑張った、自分すごいと思うこと、みたいないことが書かれていたけれど、自分を肯定するという意味であればできているようなできていないような。自分の場合はやはり諦めに近い。程度を知っている。「仕方がない」と思うことなら十分にできているように思うが、肯定はしていない。諦めはやはり自己否定に繋がるだろう。至らない自分を諦めている、至らなさを受け入れてはいる。自分に自信はなく、意欲もない。これは自己承認にあたるのだろうか、よくわからない。自分を大切にはしていると思う。それは果たして承認なのだろうか。過保護かなと思ったが、今までを振り返ると全然そんなこともなかった。

自分は諦めの境地にいる。他者(親とかそういうのではない)から認められることは諦めており、自分で自分を認めることも諦めてしまっている。自分に欠けているもの、決して埋まることのない溝のようなものを認めてしまっている。それは他の人からすると大したことないかもしれない。簡単な努力次第で覆るように見えるかもしれない。しかし、自分の限界がここにあるということを理解してしまい、人生はそこで終了しました。努力する気なんて起きません。おつかれ!