短編小説の集い「のべらっくす」第22回:感想編

今回第11回以来、1年ぶりぐらいに参加したのべらっくすでした。「海」っていうテーマは万人にとって馴染みと思い出があるため非常に書きやすく、ぱっと思い浮かんだ内容ですぐに書き終えることができた。さて、自分の解説はあとに置いといて、他の人の作品を見てみよう。

 

海に於ける誇張 - Almost Always

海へ向かうカップルの話。このカップルは女性の立場が強く、男性はついていくような感じだ。女性はサバサバしており、ついていく男性は細かいことをいろいろ気にしている。でも二人は決して仲が悪いわけではない。どちらかが不満を抱いているわけでもない。お互いの性格がちょうどうまい具合にバランスをとっている、それをカップルも自覚している、そういった仲睦まじい様子が描かれている。傍から見てうまくいっているのかどうかよくわからないカップルでも、実はお互いそれが自然な形であったり、よく見ればそのアンバランスさが調和していたりすることってあるよねっていう。現実にはなかなか難しいことだけど、お互いの自覚と対話がなにより重要だろうなとまじめに考えてしまう話でした。

潮焼きそば ~短編小説の集い~ - さよならドルバッキー

若さを体現するような、世間知らずの女の子が海の家に宿泊する話。物語の進行も、登場人物の心理描写も行動も非常にシンプルかつ明解でわかりやすい。そのわかりやすさこそがこれぐらいの若い女性の特徴であり、また、田舎のおばさんに現れがちな特徴であるようにも感じた。その導入から結末までに流れる古典的なスタイルは、まるで語り継がれてきた童話を踏襲しているようであり、国語の教科書に登場するような教訓めいたテイストで簡潔に仕上がっている。結末はちょっと都合が良すぎて、その後夏のシーズンが終わってからが逆に心配になる。こういう我が強いくせに状況に左右されやすい芯のない子に甘い環境を与えても、それがなくなればまたすぐ元に戻ってしまうぞ。

海つ神【第22回短編小説の集い参加作】 - nerumae

こちらも現代劇だけどさらに昔話風。田舎の漁村にある、親族の墓にまつわる、ある怪奇的な物語。似たような民間伝承はありそうで、それが自分の身内に起こった話として、親から子へ語られている。人魚の話がもちろん前提にはなっているんだろうけど、鶴の恩返しに見えたり爺さんとキツネの話に見えたり、ある意味かぐや姫的でもあり、物語そのものは近代版昔話といった風でシンプルな展開だった。昔話と現代版との違いは、昔は超えられなかった種族間の差異というものがあり、彼らはどちらかに同化するか、もしくは諦めるしかなかったんだけど、現代においてはその違いを気にせず超えられるのではないかという部分が垣間見えた。過去とは違い、種族の違いを越えた絆が結びつく過程の話という風にとらえることもできる。話はそこで終わっているが、ぜひともその先が続いてほしいと思うところでした。

「第二十二回短編小説の集い」に参加します。タイトルは「葉書き」です。 - 明日は明日の風が吹く

一通のハガキが、引きずってきた過去と現在との接点になった。子の父親から来たそれは、相変わらずな様子に一つの事実を付け加えている。それをきっかけに、母は子を連れ、とにかく男の元へと向かう。複雑だなあ。ここに表立って書かれている以外の、行動に浮き出ている感情まで含めたその複雑さがよく現れていた。特にその、割り切れない、はっきりとしないあらゆる感情が渦巻いているあたり、非常に人間らしいと思った。その人間らしさの部分が実際のところリアルなのか、それともやはり一部幻想的なのか、うまく混ざっており、あり得ないような、あり得なくもないような雰囲気に仕上がっている。ここに出てくる人の人に対する強い感情は、自分勝手で、都合よくて、泥臭くて、誰一人として物語めいた偽善的な嘘くささが一切なくて、結末も非常に良かった。

【第22回】短編小説の集い「潮騒の夢」 - なおなおのクトゥルフ神話TRPG

何よりも、怒涛の展開だった。文章そのものは主人公の日記のようであり、これまでのいきさつと現在の心情が書き連ねられている、と思っていた。この展開については主人公の「見えない」という設定も大いに功を奏している。文章だけを読み、見えない世界を渡り歩いていると、その見えない部分で何が起こっていたのか全くわからずに、それが突然現実となってつきつけられた時には「なんじゃそりゃ!」と思わずにはいられなかった。短く簡潔に書くためあらゆる要素が端折られていると思うんだけど、それにしてもぶっ飛ばしている。わからないこともたくさんある。でもそうやって、わからないまま、わからない中を突き進んでいくことそのものが、この話全体や主人公の生き方を象徴しているようにも思えた。

短編小説の集い「のべらっくす」第22回に参加 - Letter from Kyoto

自分のです。これは海というテーマを見て真っ先に「ノッキンオン・ヘブンズドア」が思い浮かんだため、それを絡めて何か書こうと思った。映画ほどドラマティックではない二人の姿が最初に浮かび、だったら海はもう日没後しかないということで日没後の海に向かう二人の姿という構図が決まった。さて、そこからどうするか。とにかく映画「ノッキンオン・ヘブンズドア」に繋げなければならない、ということで映画のタイトルが出てくるシーンを冒頭に書いた。一人が勧める、もう一人は知らない、あらすじを説明する、印象を受ける、しかし実際見てみたら思っていたような映画と全然違った、という結末を考えた。語り部は完全に第三者の視点に徹しようと決め、登場人物の名前はおろか心情さえも語らせず、情景の細かい描写からなんとなくかもしだそうと務めた。性別要素も必要ないだろうと思って省いた。

ノッキンオン・ヘブンズドアのタイトルを出したところで、導入部分を書かなければいけない。先に居たほうは地元の人間で、あとから来たほうは大学の夏休みにバイクでツーリングに来ているという設定を考えたけれど、書く必要ないなと思って省いた。とにかくその導入部分では、初対面の人間同士が「うちに映画見に来いよ」って言えるだけの距離の短縮を書かなければいけなかった。会ったその日に意気投合、するような場所でも時間でもなくタイプでもない。きっかけをどうしようかと思ったが、とりあえずなんとか喋らせるしかない。見ず知らずの人間同士が会話を始めるのに一番自然なのが、僕にとってはたばこだった。そういうことは実際にどこでもよくあったから、使わせてもらった。だからこの二人の会話というのは偶然の産物であり、この二人が話すべくして会話したというものではなかった。会話の内容に用いたトピックは、単に僕が最近気にしていたこと。意気投合ではないにしろ、どこか似た者同士、お互い様のような融和を、なるべく違和感なくじわじわ描こうと思った。

そこまでがメインだったから、結末は完全に投げっぱなしです。映画を見たという結果と、そこに自然に繋がるような過程を描きたかっただけで、それ以外の具体的な記述をできるかぎり避けた。自分で書いてて真っ先に思ったのは「この後めちゃくちゃセックスした」っていうフレーズだったけど、それをそのまま書いてしまうのはあまりに無粋というかゲスであり、全てを台無しにするから冗談でとどめた。結局映画を一人で見たのか、二人で見たのか、いつどこで見たのか触れていない。二人の会話の内容として、先読み、医療技術に触れており、なおかつ映画は病気で死ぬ話だから、この物語全体が映画へのオマージュという方向も容易に想像できる。先に居たほうは病人であることを否定しているけれど、何も病人という枠にとらわれることはない。映画より一段劣る、日常の地味なストーリー、あとは各々の想像に任せます。