孤独感から逃れるには

なかなか恥ずかしいことが多くて、恥ずかしさを誤魔化すために婉曲的に。恥じ入ることの意味は一体なんだろうか。赤っ恥とは、公の場で間違うことだったり、醜態を晒すことを指す。つまり、オープンになることが恥のエッセンスと言える。ということはオープンになるかならないかだけの違いであり、その中身は同じだということだ。人に見られようが見られまいが実態そのものは変わらない。

裸は恥ずかしいか

例えば裸体が恥ずかしいとしよう。我々は風呂に入るときや着替えるとき、もしくは自室で裸体になる。人がいなければ恥ずかしくない。銭湯のように状況が許せば恥ずかしくない。つまり裸体そのものは恥ずかしくない。もし仮に、他人の目を気にしなければどうなるだろう。「裸体そのものは恥ずかしくない」という事実に「人の目を気にしない」という要素が加わると、「外で裸体になることも恥ずかしくない」という状況が生まれる。恥ずかしいという感覚はそれそのものではなく、人の目を気にすることと結びついている。

人との違いが恥ずかしい理由

それでは、何故人の目を気にするのか。裸で外を歩いていると、人から変な目で見られる、後ろ指さされる、もしくは非難される、攻撃される、通報される、程度は違えど、「他人からの被害に遭うため、他人の目を気にする」ということになる。人は他人からのそういった被害を避けるために、目立つ行動をとらない。外で裸体にならない。一方で、自他の違いに対して公平に向き合える社会であればあるほど、その差異は無視されることになり、恥じ入る必要性が薄まってくる。多様な価値観が入り交じった都会で、変な格好をしていても後ろ指さされることはない。ヌーディストの権利が確立された世界では、裸体で外を歩くことも特別視されないだろう。

ヌーディズム - Wikipedia

社会のルールと逸脱

社会で一体感が高まれば高まるほど、些細な違いが攻撃の引き金となる。都会と田舎を考えてみればわかりやすい。都会ではよほど派手な格好をしていても、誰も気にすることなく生活に困ることもないが、田舎の奥地ではどうだろう。コミュニティで考えてもいい。ゆるいコミュニティであれば、互いの差異は問題とされない。結束が堅ければ、些細な違いも大きく目立つ。そこには結束を堅めるためのルールがあり、ルールから逸脱すると、共同体上における死の制裁が待っている。つまり脱退だ。村だと村八分にされて、水呑み百姓になる。そうなると村という共同体においては死も同然だ。だから共同体の中にいる限り、周りの目、自分がどう見えるか、どう見られているかを気にする。ルールにそぐわないとされる行為や状態を避けるようになる。

そんな社会的規範という名のルールにそぐわない人は、社会的に恥ずかしい状態であり、故に団結できず、孤独なのだろう。孤独を解消しようと思えば社会規範、すなわちルールに則らないといけない。それが叶わなければ、孤独であり続ける。孤独であっても一人で強く生きられる人に憧れる。他人と心を通わせる事なく、ただ一人で黙々と自分の人生を歩む強さを備えた人。価値観を人と分かち合うことなく、理解を求めることなく、同調を必要とせず、ただ自分だけに寄り添って生きることのできる強い精神に惹かれる。

いつでも孤独を感じる

孤独について、ときどき耐え難い時期が来る。甘んじて受け入れていたはずなのに、そのときが来るといてもたってもいられなくなる。それは、あまり状況には関係ないような気もする。ただの周期であり、学校に通っていたとか人と一緒に過ごしていたとか働いていたとかは関係ない。どのような状況にいても変わらない。それは自分が状況に応じて、社会的規範に則っているように装っているだけであり、実際は異なっていることに起因している。何の違和感もなく溶け込んでいたり、状況に馴染むことが叶っている人、もしく同調することの苦労や違和感を乗り越えられる人とは根本的に差がある。その差異を目のあたりにするたびに、内なる孤独感が刺激される。「ああ、自分には無理だ」「自分はこの人たちのようになれない」という感情にさいなまれる。

つまり孤独感とは内面の問題であり、自らの感覚に左右される。感覚は周りからの影響を受ける。きっかけのようなものが存在する。そのきっかけを避け、人目を避け、野や山や内に篭ったところで孤独感が解消されるかというと、そうでもない。そこには自分以外誰もない、差異を感じる刺激すらない文字通りの孤独がある。どのような状況にいても孤独感はつきまとう。野や山で人里離れて暮らせる人は、意外と人に紛れても暮らせるんじゃないだろうか。

何故人は孤独を感じるか

さて、孤独感の正体とは一体なんだろう。人といること、人と分かち合うことで得られるものとは、一人でいることで欠乏するものとは何か。簡単に言ってしまえば安心感なのだろう。群れをなして暮らす生き物は、群れることができないと生命維持の危機に陥る、そこから来る不安。もしくは群れていたとしても、群れの連中から自らが同類であり味方であると判断してもらえないことによる不安、群れの中にいることが役に立たないという認識。むしろ群れの連中が自らを脅かす敵になり得るという不安。孤独の正体とはそういった、動物が生存するための危機意識に根ざした感覚ではないだろうか。

何故孤独を解消できないのか

それでは何故、群れに同化してしまわないのだろう。群れに同化できるか否かは、それは生まれ持った能力なんじゃないかと思う。能力、生まれ持った差異と言ってもいい。冒頭に裸体が恥ずかしいかどうかという例を挙げたが、どこでもどうしても裸体でいたい、裸体でしかいられないという人は、現代における社会規範の中で生きる素質を欠いて生まれたと言える。素質とか能力とか言うと、何か欠陥があるかのような言い方になってしまうが、中身はただルールにそぐわないだけ、社会規範に反するだけのことだ。動物とセックスするしきたりがある社会があったとして、ルールだから受け入れられる人もいれば、どうしても無理な人だっているだろう。

精神を守るか、肉体を守るか

ではそういった、同化への拒絶はどこから来るのだろうか。それが意図的なものであれ、生理的なものであれ、同化に対しては拒絶反応が起こる。それはもしかすると、自分が自分でなくなることへの拒絶かもしれない。自己存在の喪失、自分が自分でなくなり、それ以外の何か、共同体における取替可能な部品の一つになってしまうことを、死と同義に捉えてしまうのではないだろうか。孤独についての葛藤とは、そういった自己喪失という精神的な死と、共同体からつまはじきにされて生命の危機にさらされるという肉体的な死との葛藤ではないだろうか。

一人で十分に生きていくことのできる能力があれば、人と相容れない孤独は気にならない。ルールに反発して、共同体から抜け出すことも平気だろう。そういう強さに憧れる。逆に、共同体と同化しても自分を見失わない強さ、精神的な死に陥らない強さにも憧れる。

僕たちが孤独感から逃れるには

孤独感とは、突き詰めれば生命の危険に対する不安だということを先ほど述べた。身体が弱くなったり、年をとるとよけいに生命の危機が間近に迫り、孤独感も増す。ということは、生命の危機感から解放されれば群れる必要はなくなり、孤独にさいなまれることもなくなるだろう。何があっても一人で生きていける自信、万能感が孤独の恐怖に打ち勝つ。そのための基盤を作ることが、孤独感からの抜け道となる。

もしくは自分がいる場所、孤独であることの先に、それ以上の喜びや安心を見い出せばいい。宗教にそれを認める人もいるかもしれない。研究にそれを見出す人もいるだろう。芸術や創作に取り憑かれて、孤独なんか気にならない人もいるかもしれない。自分にとっての絶対的な何かが確立されたら、もはや孤独であるか否かは問題ではなくなる。

共同体の中での孤独感から逃れるには、共同体のルールを変えるしかない。つまり、異なる自分を周りに認めさせ、受け入れてもらうことにより、共同体への同化に伴う精神の死を回避することができる。これは同時に、自らをさらけ出すということだから、これまでのルールを守りたい人からの反発があるだろう。そのために共同体での地位、発言権を築き上げていかなければならない。マイノリティのデモや署名活動などがそれにあたる。権力を握って上から変えていくという手段もある。

どういった方向で孤独感から逃れたいかは、好みがあると思う。やっぱり人と歩み寄りたいという人もいれば、やっぱり人とは相容れないという人もいる。もしくはもっといい方法があれば教えてください。