生活のメモ

自分のことしか見えていないとか、周りのことまで考えているとか、そういった意識の距離に差がある。周りの人、外の世界、世の中を中心に生きている人は意識の距離が広い。遠くまで範囲に含まれており、自分の一部となっている。生きる世界が広く、構成要員も多く、情報量も時間の流れも早い。キャパシティとも言える。その分個々の要素は薄まる。あなたの意識はどこまで広がっているだろうか。家庭内、親戚、地域、会社、学校、もしくはなんらかのグループ、国家かもしれない。自分の意識はどの距離まで作用しているかというと、ちょうど自分の皮膚の内側ぐらい。自分の見ている範囲はすごく狭くて、ローカルでマイナーだ。なるべくなら外は見たくない。自分の内側以外のことに意識を煩わされたくない。

昔はよく映画の雑誌とかパンフレットとか読んでいたなー。20年以上前

子供の頃はよく映画館に行っていた。名作から駄作まで、数多くの映画を母と一緒に見ていた。そして毎回パンフレットを買っていた。自宅にはレトロ映画のパンフレットがたくさんあったはずだ。引っ越したときに全部捨ててしまった。

パンフレットは映画を見る前や映画を見た後に、隅から隅まで読んでいた。映画は2時間経ってしまうともうビデオになるまで見ることができないため、パンフレットだけが唯一手元に残る映画の名残りだった。映画好きだったなあ。80年代のハリウッドエンタメ映画ばかり見ていた。小学生になり、友達と遊ぶようになってから映画館に行かなくなった。映画を見る小学生なんて周りには一人もいなかったから。

マンブルコアってのが2010年に流行ってたんだね

正確にはゼロ年代になるのか、映画のトレンドにマンブルコアってのがあったらしい。先日見た映画「20センチュリーウーマン」に出ていたグレタ・ガーウィグがマンブルコアで有名だったらしい。

遠い昔に書いたことからまだ先に進んでいない

遠い昔に書いたっていうのは2010年に書いた増田。それから7年経つが脱していない。

目先の物事などではなく

ずっと答えを探している気がする

比喩で書けたらよい

根源的な話

これ、うまく言葉で表せないんだけど、生涯の目的みたいなもの。最近あまり意識していなくて見失いがちだった。僕の生涯の目的は幸せになることでも金持ちになることでも承認を得ることでも安心することでも安定することでも子孫を残すことでもなく、答えを見つけること。欲を言えば見つけてはっきりとした形にすること。

答えって一体なんなのか、それは見つかっていないからわからない。それを真理とか「確かなるもの」とか勝手に呼んでいた。厨二病みたいだ。悟りと呼ぶ人もいるかもしれない。愛と呼ぶ人もいるかもしれない。物や芸術や別の概念に見出す人もいるかもしれない。見つけると言うと、既に存在するものを探し当てるみたいで「そんなものねーよ」って言われたら終わりなんだけど、そうじゃなくて少しずつ形作っていくものなのかもしれない。なにせその片鱗さえ見えない。どう探せばいいのかもわからない。それが答えだということしかわかっていない。全ての先に辿り着く答え。僕が夏目漱石の「行人」を好きなのも、似たようなことが書かれていたから。

夢幻の如くなり

寝ている間に考えていたことを全部思い出せたらいいのに

ときどき夢の中でその答えに辿り着くヒントを見ているような気がする。でも朝目が覚めると何も覚えていない。

「真理は見つかったかい?」とピーターに訊かれたのを思い出した。

極稀にこういう話を人にすることがあって、たいてい何言ってるのかわからないって反応をされる。カナダにいたとき、カナダ人の英語教師であるピーターにどんな経緯か忘れたけど「真理を探しているんだ」みたいなことを言ったことがあって、それから「真理は見つかったかい?」と聞かれることがあった。バカにされているわけではなく、ピーターは京都に住んでいたこともあり日本通だったから、よくわからないことを気兼ねなく話せた。日本語は僕の英語と同じぐらいひどかったが。

とにかく、金とか人間関係とか日常の些末な出来事に煩わされて、現実の生活というどうでもいい副次的なことばかりにとらわれている。最近はずっと、生きる上での本意を見失っている。

自分の答えは自分のものでしかない。多分、他の人にとっては無意味で、「秘密の金魚」のようなもの。

『秘密の金魚』っていうすごい短編集があるよ。その中で一番いいのは、「秘密の金魚」っていう奴だ。自分の金魚をどうしても他人に見せたがらない子供のことを書いたものなんだ。どうして人に見せたがらないかというと、自分の金で買ったからだっていうんだな。これには参ったね。

― 『ライ麦畑でつかまえて』