カズオ・イシグロのNHK白熱教室

これについては長く書こうかと思ったけれど、時間が経ったので簡潔に。ノーベル文学賞から10日が過ぎ、この話題も既に落ち着いていることでしょう。受賞コメントが日本でも報道されていたが、実にリップサービスの上手い人だと感じた。言葉を選び、当たり障りがなく、誰も傷つけない。聞いた人は誰もがいい気分になる。これは外国人特有の作法で、人付き合いの下手な日本人がよく真に受ける。

インタビュー記事

カズオ・イシグロのコメントを初めて読んだのは、以下のインタビューだった。

カズオ・イシグロ 「『わたしを離さないで』 そして村上春樹のこと」 月刊文学界 2006年8月号 by 国際ジャーナリスト 大野和基

このときは『わたしを離さないで』が出たばかりで、本人が思っていたのとは違うとらえかたをされてベストセラーになったことに、居心地の悪さのようなものを感じていることが伺える。

小説の醍醐味

NHKの白熱教室では、自身の歩みと自分がなぜ小説を書くのか、なぜフィクションなのか、フィクションだからこそ、小説だからこそできることについて質疑を混じえ語っていた。もともとは自分の記憶にある感情を書き留めておくために小説という形式をとった。しかし読み返してみると、セリフと動作ばかりで台本みたいに感じたと言う。

その後プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいるときに、邂逅のシーンに差し掛かりコレだっ!と思ったそうな(小説の大半はつまらなかったそうだ)。それ以降のカズオ・イシグロは、語り手が過去を振り返るという手法に取り憑かれている。この手法は映画や劇における回想シーンでうまく再現できておらず、小説ならではの強味だと言っていた。

小説の書き方

カズオ・イシグロの小説の書き方は、3つか4つのセンテンスでまとめ、そこから肉付けをして話を膨らませていく。『日の名残り』は「ある執事の男がいた。仕事一筋で生きてきて、疲れている」とかそういう短文から一冊の本に膨らませた。また、メタファーの組み込み方もはっきりと口にしていた。執事は世の中に付き従うだけで意思決定のできない存在の比喩だとか。こういう書き方を聞くと真似しようとする人はいるだろうなー。

小説を書く理由

最後にフィクションでしかできないこと、小説を書く理由として、事実ではなく真実を伝えるためと言っていた。ルポルタージュやノンフィクションを読んで、客観的な事実を知ることはできる。それは他人の情報でしかない。しかし小説を読むという行為は主観的な疑似体験であり、物語を通して生まれた感情は自らのものであると認識する。フィクションは、客観的な事実ではなく、主観的な感情をよりダイレクトに伝えることができる。カズオ・イシグロにとっての真実とは人間の感情であり、小説を書くという行為は、共感を訴えかける行為に近い。

だから同時に、カズオ・イシグロ本人は舞台設定や世界観なんてどうでもいいようなことも言っていた。感情を伝えるに適していれば、装置そのものはあまり重要でないとか。

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カズオ・イシグロ作品の感想