あの時間

感情から距離を置くには、慣れるのが手っ取り早い。もしくは対象を増やして行き場を分散すること。会社員の頃よく話していた人のことを思い出した。今はもう全く、連絡先すら知らないが、当時はよくメールのやりとりをしていて、飲みに行ったりもしていた。疎遠になったのは仲が悪くなったからではなく、自分が会社を辞めて遠くへ行って、接点を失ったから。そこからはもう時間も距離も空きすぎて、もはや会うことはないがたとえ会っても話すことがない。昔のことはほとんど忘れてしまっている。

今まで関わりのあった人たちは大体このように、遠い昔に途切れて関係性が失われてしまっている。友人は、仲が悪くならずとも時間とともに失うものだ。自分に限らず、プライベートですごく仲良かった人たちが、実質的な接点がなくなり関係性を失っている場面を見かけた。仲良かったと思っていたのに、こんなにもあっさりと簡単に途切れるもんなんだと、端から見ていて思った。子供の頃に引っ越して会えなくなったクラスメイトとは違い、大人だったら余程遠くへ離れていない限り、会おうと思えば会える。会いたくないわけでもない。ただきっかけを失うだけで関係性はもろく崩れ去る。

あってもなくてもよかった関係なのだろうか。たとえば、別の人間で代替できるような。先日言われたのは「今こうやって話す友人がいるんだから、過去の友人がいなくなってもいいじゃないですか」という言葉だった。そういう間柄は、中身のない関係と呼べるだろうか。誰が相手でも良かったというわけではなく、それなりの制約はあっただろう。一緒に過ごした中で、唯一無二のものも確かにあったかもしれない。けれど、それらが時間が経つに連れて忘れ去られるものであれば、始めからなくても良かったのではないか。人生の空いたピースを埋めるだけなら、それは自分のためだけのものでしかない。連結がない。できれば相手の空白を埋めるためだけのものであってほしくない。

だからなるべく覚えておきたい。もう既に失われてしまった関係でも、二度と戻らない時間でも、相手と、そのとき分かち合ったこと、感情、伝えたこと、伝えきれなかったこと、何を言っていたか、何を言おうとしていたのか。先日話した人は「自分は二度と戻らない時間を自覚的に生きている」と言っていた。僕は最初その言葉の意味がわからなかった。何気なく過ごしている時間を後から思い返して「あの時間はよかった」と思うのではなく、事実その時間に挑むときに「この時間は今しかないから大切にしたい」と思うそうだ。おそらく「今を大切にし、後悔しない選択をする、そして過去を振り返らない」という意味だろう。

何事においても、打算的であることにすごく抵抗があって、それはやはり利益に対しての毛嫌いからくるものだろう。差し引きで利益になるなんて計算はしたくない。ゼロであってもいいし、損ばかりしていてもいい。そこに自分がいて、あなたがいる。混ざり合う時間がある。思い出せるひとときがある。関係とはそれだけで十分に感じる。