日々のこと

日本に帰ってきて、日本に帰ってきてと決まり文句のように繰り返し用いているが、今月で日本に帰ってきて2年になる。2016年、ニッポンよ、私は帰ってきた!そして2年後の今、転機と言うほどではないが、また別のことが始まろうとしている。つまりスタートラインにいる。転機と言うほどでもないのは、新たに湧き起こったものではなく、もともとそうするつもりだったからで、やっとその時が来たという感じ。そういうわけで、一年続けてきた今やっているバイトも今月一杯で辞めることになり、今年の秋頃からはまた外国へ短い渡航となる。

先のことは全然わからないし、まだ何も考えていない。何がしたいとか、どうしたいとか、成り行き任せなところがある。だからとりあえず今必要な勉強だったりをしているだけ。それよりも、今の自分に充満しているのは、今のことだ。これからではなく、これまでのこと。日本に帰ってきてからの短い2年間が終わりに差し掛かっている。この短い間で知り合った人ととは、おそらくもうほとんどが二度と会うことはないだろう。会ったとしても、そのときにはお互いが変わっている。今生の別れである。会社でもカナダでもオーストラリアでもそうだった。今の関係は今だけのもので、それが今まさに終わろうとしている。つらい。

時間は連続しているが、場所や人との関係は連続しておらず、生きていると我々は幾度とない終りを迎え、同時にまた新たなスタートを切る。死と再生のようなものだ。諸行無常である。諸行無常に侘しさを感じるのは日本の伝統と言えるだろう。とりわけ私は出会いよりも別れにショックを受けるほうで、なるべくなら致命傷の機会を避けてきた。全ての別れは惜別であり、その後何年経とうと思い出す。この2年、もともとの知り合いや、知り合った人たち。中には結婚したり子供を産んだり東京へ異動になった人がいたり、状況は絶えず変化している。

私だけが置いて行かれて何も変わっていないように見えるが、私自身も年老いて、人に影響を受け、考え方や価値観は変わり、思い抱くことも変わっている。体力、感性、記憶、思い、あらゆるもの日々を失っている。喪失感である。哀しい。失うのは哀しいのだ。それらは僕にとって唯一無二であり、そのときその場所だけの限られたものだから、どうしても惜しい。しかし失わずにはいられない。その嘆き、哀しみ。子供の頃は、まさか失うと思っていなかった。知らず知らずのうちに、大切なものを次々と失っていた。大人になり、失うことを前もって自覚できるようになり、今は喪失感を胸いっぱいに抱きながら、明日へ向けてコマを進めている。

#わたしの転機

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オーストラリアを離れるときは無常観と言っていた。あのときと今の違いは、環境か。