自意識過剰ってなんなの?

先日若林の本を読んでいて、何度も出てきた言葉が「自意識過剰」だった。「自意識過剰」という言葉が流行ったのは少し前の時代だと思うが、それがどういう意味なのかはいまだによくわかっていない。自意識過剰って何なんだろう?自意識が過剰って、じゃあ自意識ってなんだ。自意識、自我のことだろうか?自我が過剰っていうのはよくわからない。

調べてみたら、自分自身について意識することが自意識だそうだ。自分自身を意識するってどういうことだろう。自分のことを考えるのとは違うのか?どうも意識するっていうのは思考ではなく感覚を指すようだ。「あの人を意識している」とか言うように、感覚的に気になっていることが意識すること。そして「自分を気にする」ことが自意識で、自分を過剰に意識しているのが自意識過剰らしい。

このあたり正直なところまだ全然ピンとこなくて、自分を意識するということがどういう状態なのかわからない。ましてや過剰に意識するとは。そんなことを言ってたら話が進まないから、一般的に言われる自意識過剰とはどいう状態を指すのか調べてみると、「他人からどう見えるか、過剰に気にする」「他人に良く見られたい願望が強すぎて、過剰に努力したり自分を偽ったりする」そういうのを自意識過剰と呼ぶらしい。

あれ、自意識と言いながら他人のことばかりじゃないか。自分自身のことではなく、結局は他人のことが気になるらしい。他人を気にするあまり、他人の目に映る自分を意識するのが自意識過剰、ということなのだろうか。ではなぜ他人に良く見られたいのだろうか?この他人とは特定の対象なのか、それとも一般なのか、または両方なのか。いずれにせよ他人に良く見られたい理由とはなんだろう。目的は?なんのために?他人と仲良くなりたいからか、好かれたいからか、便宜を図ってほしいからだろうか。

調べた限りでは、どうやら自意識過剰の人はただ良く見られたいらしい。良く見られることそのものが嬉しくて、満たされるようだ。だからそのために人からどう見られるか過剰に意識して取り繕う。その先になんらかの目的があるわけではなく、よく見られることがゴール。その先に目的がある場合も自意識過剰に該当するのだろうか?他者との共感や調和、関係性を構築するために自分を良く見せようとする。これも自意識過剰なんだろうか?

とりあえず先に進む。他人に良く見られるためにはどうすればいいのだろう?人が良く思う身なりをしたり、発言や行動をすればいい。では、人は何をどう見て良いと判断するのだろうか?その基準は、世の中の常識であったりルールであったり、慣習であったり、流行であったりするのだろう。もしくはそう思い込んでいる自分自身の意識かもしれない。対象として特定の個人がいる場合は、その人の好みだろう。とにかくそういう基準に沿った見た目や言動をとれば、きっと人から良く見られる。そう信じて自意識過剰な人は、自分がその基準に則っているか過剰に気にする、ということなのだろう。

自分のことを振り返ってみる。果たして僕は自意識過剰だろうか?まず、他人が自分のことをどう思うかわからない。何か行動を起こしてみて、反応を見れば多少はわかる。ではその次は、それ以外のことは、やはりやってみないとわからない。パターンと傾向はある程度掴めるかもしれないが、対象が変われば基準も変わる。世の一般的な基準なんて、広すぎてわからない。そんなことをいちいち試していればキリがない。だから過剰になるのだろうか?何のためにそんな面倒なことを?人から良く見られるためだ。

じゃあ自分は人から良く見られたいのか?あまりそういう風に思ったことがない。良く見られる必要があり、そのために良く見られようと振る舞うことはある。それはただの演技であって、演技している自分を良く見られたところでそこに自分自身はいない。本心ではない。自分の本心に従わず自分を偽るのは疲れるから、必要の範囲外ではどうでもよくなる。誰が誰をどう見ようとその人の勝手であり、自分には関係ない。どうでもいい。自意識過剰の人は必要の範囲が広すぎるのだろうか。

僕は人がどう思うかよりも、自分がどう思うかに従ってしまう。人から良く見られる演技した自分よりも、自分自身が何を感じてどう思うか。それが人と違って、嫌われたとしても自分の感覚を捨てたりはできない。自分に嘘はつけない。だから結局、他人の目を気にしすぎるという自意識過剰にはなりようがない。

自分の感覚は生まれ持ったものなんで、どうしようもない。それを人が良いと言おうが悪いと言おうが仕方がない。よく他人に興味がないとか、自分が好きだとか言われるが、好きとか嫌いとかそういうもんでもない。好きでやってるわけじゃないし、ただ自分の感覚だけが唯一自分にとっての基準だから、それ以外のものには従いようがないというだけの話。