強迫観念が追いかけ回してくる

強迫観念と共に生きているなあと思う。強迫観念とは、言わば追い込みであり、追い込まれないとやらない人(自分)に対しての戒めであり、それが有効に作用しているのかどうか。ただのストレスになっていないか。強迫観念がストレスへと転化してしまう原因は、脅迫だけして行動していないから。行動していれば強迫観念は消化できる。例えば「英語忘れてしまうからやらないと」というプレッシャーだけ自分の中にあって、実際には英語に触れていないから気持ちだけどんどん追い込まれてしまう。実際に英語が必要な場面なんてなく、ただ勝手に自分で自分を追い込んでいるだけだから何の得にもならない。これでもし、しっかり英語を使っていれば強迫観念を薄めることができるだろう。行動していないことが原因なのだ。めんどくさくてやらない。やったところで意味はなし。

他にも本読めていないとか、映画見れていないとか、そんな些細な娯楽まで強迫観念と化してしまっており、もったいないばかりだ。遊びにまで追い込まれる始末。しかも誰が強制するわけでもなく自分で自分を。暇なのか。じゃあ脅迫しておきながらソレをやらない間、その間一体何をしているのかというと、日がな一日ボーッと過ごしている。やることがない入院患者のように。一体何がしたいのだろう。追い込んでやらない、そのことに恐れおののいている。本当にそうなのか、自分でそう思い込んでいるだけなのか、何もしていないという思いのまま毎日が過ぎているだけで、実際は何かしているのか。その疑念を払うためにこうやって記録をつけているのかもしれない。振り返ればいろいろやってたみたいだ。でも今この瞬間に思うのは、なんもしてねえなってこと。事実がどうかではない。

それはつまり、過ぎてしまったことがカウントされていない実態にある。やらないといけない強迫→やってしまう→なかったことに→また別の強迫というふうにやったことはなかったことにされ、また別の強迫だけが永遠に追加され残り続ける。いつまでたっても気持ちは休まらない。心の平穏が訪れない原因はそこにある。なぜ、やったことはなかったことになるのか。成果なんて、自分には感じることができないどうでもいいことなんだ。追い詰められる不安だけのために生きている。それはいつまでもどこまでも解消されず、生涯自分を追い回すのだろう。

今日は雨が強いから、外には出ないでおこう。結局出た。

雨降りのなか水無月買いに行った。昨日茅の輪を箕輪って書いてしまって、指摘されて直した。箕輪だったら美濃輪育久だなーと思い、調べてみるとリングネーム変わっていた。

ミノワマン - Wikipedia

パンクラスは終了したと思っていたのにまだ存在した。僕の知っているパンクラスは鈴木みのるが真面目だった頃。

パンクラス・オフィシャルサイト | PANCRASE

今週のお題「2019年上半期」