ヒトコトへの回答㉑:寂しさとか、

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

66通目:寂しさとか、

寂しさとか、外に対して自分を発信していくことについて質問です。
いつも更新楽しみにブログ読ませてもらっています。 生きてきて寂しさを感じる事はありましたか?また寂しさについてどう思うか聞きたいです。 よくブログを拝見すると外に写真を撮りに行ったり、旅行を一人でしています。 自分はインドア派で一人で外出てもつまらないしなとか感じて、基本一人で外出してもうまく時間を潰せません。隣に誰かいたり複数人だったら感想を共有できたり、話相手がいればどんどん外で遊んでも大丈夫です。 でもその反動で一人で外に出ると寂しさとか何も無さを感じてしまいます。奇麗な景色や風景を見つけてもすぐに伝えられないし、分かち合えません。
でも逆にだからこそ一人で外に飛び出し知らない所、人と交わるのかなとも考えたりします。そんな風なこと考えたことありますか?
また上に続くのですが一人だからこそ外に情報を伝えるためにブログとか書いたりできるのでしょうか? 実は自分は何度かブログを始めたりしているのですが長く続いた試しがありません。始めると公開されているものだから定期的に更新しなきゃとか、観念に囚われて最初の気持ちが冷めてしまいます。
もう長い期間ブログをやっているのでライフワークのひとつだと思うのですが何か意見や考えがあれば書いて欲しいです。これからも更新楽しみにしています。

まず、僕の「寂しさ」について2015年に書いているから貼っておきます。

今これを読むと、どうなんだろう。とりあえず置いときます。

一人で行動することについて。例えば旅行は、僕は一人で行くことも数人で行くこともあり、それぞれ楽しみ方が異なる。インドア派と書かれているけれど、もし家で一人で過ごす楽しさを知っているのだとしたら、それを外に持っていくのが一人旅行だったり、一人の外出。それだけ。家と外の違いは、やることが違うだけで、楽しみ方は変わらない。一人で行動するときは、共有したり分かち合うのが目的ではないから。

ブログに書いたりしているのは、記録ですね。書き残しておきたいという気持ち。また自分の感想や思いをどこかで消化したいという気持ちもある。だからブログに書く。手帖でも日記帳でもいいんだけど、オープンな場所でないとちゃんとした言葉で書かないからブログに書く。一人とか数人とかは関係ない。例えば、人と行った旅行の話も書いている。

結婚してからは奥さんに話すことによって、消化して満足することが多くなった。書き残すまでもないや、と思って書かなくなったことも多い。これは僕が体験や考え方を一方的に話すだけで、人との共有や分かち合うこととは違う。一方的な消化。相手は体験も同意もしておらず、興味なかったり聞き流してくれる。それで構わない。壁打ちというよりも、灯籠を川に流すような感じに近い。

ブログが続かないのは単純に、書きたいことがないからじゃないのかな?もしくは書くことが大変で、そのハードルを超えてまで書くに至らないとか。

ここまで書いて、冒頭の寂しさの話に戻ります。寂しさを感じる事はあるか、という質問について。子供の頃は結構あったと思う。それ以降はあまりないんじゃないかなー。退屈とか暇な状態を「寂しい」と言うんだったら当てはまるかもしれないけれど、それはどうやら違うらしい。

僕が思うに、「寂しい」というのは感情や状態ではなく、人なんですよね。寂しい人。寂しい人だから、寂しいと感じる。寂しい人だから、一人でいる他人を見ても、寂しいと感じる。僕は寂しい人じゃないから、一人でいても寂しいと感じないんだと思う。「寂しい」は状態ではなく「人」に付属する要素。

「寂しい人」は一人であろうと、誰かと一緒に居ようと、本質的に寂しいんですよ。ただ人と居るとその瞬間は寂しさが紛れるというだけで、本質的に「寂しい人間」であることには変わりない。

じゃあその「寂しい人」「寂しい人間」ってなんなんだろうって話ですよね。「寂しい人」は、外から見ると要するに「一人じゃ不安な人」「常に誰かと居たい人」ということになる。なぜ「一人じゃ不安」なのか。わかんねー自信がないとかそういうの?寄る辺ないとか。でも僕だって、無人島で半年暮せば寂しいです。退屈で、人恋しくなるだろうな。だから結局僕もそのときは寂しい人。でも一週間も人と居れば、あと半年は一人で平気となるかもしれない。所詮程度の問題じゃないですか?

これまでのヒトコト、回答をまとめました。