続「生きづらさ」の本質について

最近「生きづらさってあった?」みたいなことを訊かれて、まあそりゃああったわなーと思うが、自分にとっての生きづらさとはなんだったのかと、ふと思い返してみた。人生の不安要素は健康(病気)、お金(食糧)、人間関係(パートナー含む)の3つだと言う。僕にとっての生きづらさは、ほぼお金の問題だった。人間関係でも、健康問題でもない。

「お金さえあれば、僕の生きづらさは解決する」と言ってしまえば、実に陳腐な人間のようだ。それが例えば、解決のしようがない病気や人間関係に比べると、実に安っぽい問題のようだ。僕にとっての生きづらさが、お金の問題、お金さえあれば解決する問題とは、どいうことか。それはつまり「お金さえあれば、やりたくないことをやらなくていい」という意味だ。お金がないから、食い扶持を稼ぐためにやりたくないことをやり続けてきた。

当たり前だろ、と思うかもしれない。みんなそうだ、甘えんな、と。言い換えれば、僕の場合、お金さえあれば隠遁生活を送る。山奥へ引きこもったり。良好な人間関係なんて全く望まない。僕から言わせれば「人間関係?どうでもいいだろ、甘えんな」である。僕がいかに人間関係をどうでもいいと思っているか、その事例として軽いエピソードを挙げる。僕がかつて集団生活をしていたときに、一人の男性と相部屋だった。彼は周りの全員から嫌われており、僕がその集団を抜けたあと、全員が彼との相部屋を拒否したそうだ。僕はその彼が嫌われていたことにも気づかなかった。同じ部屋でずっと寝起きしていた。それぐらい人間関係どうでもいい。

寂しさもあまり感じてこなかった。それよりなにより、やりたくないことをやることのほうがつらい。就職面接なんかで「本当はやりたくないけどお金のためにしかたなく」って言いたい。志望動機とか全部ウソ。大学生の頃「やりたいことがなければ、消去法で就職先を決めたらいい」と言われて決めた。僕は本当にやりたいことがなかったから、いろんな業種・業界を受けた。ことごとく落ちた。候補の共通点は、年間休日とかそういうのだったと思う。

世の中には、宝くじが当たっても仕事は辞めないっていう人がそこそこいると思う。もしくは、十分な蓄えがあってもなお仕事を続けている人は多い。それにひきかえ、僕なんかほとんど蓄えなくても辞めた。嫌すぎて辞めた。仕事の全部が全部嫌だったかというと、そういうわけではない。でもこのまま続けたら病むなーと思ってリタイアした。

冒頭で「生きづらさはお金の問題」と言ったが、給料に不満はなかった。お金の問題ではあるが、お金さえあればなんでもいいという意味ではない。仮に、倍の給料をもらっていても辞めたと思う。問題の本質は「やりたくないことをやる」という部分にあった。つまり僕にとっての生きづらさは「やりたくないことを、いやいやながらも前向きな顔して、やらなければいけないこと」である。やりたくないことをやらなくても、餓死しないだけのお金があったら、生きづらさから解放される。

「いやまあ、死んだら死んだでいいでしょ?」と割り切れたら、そもそも生きづらさなんて思うこともなかったんだろうな。現実的に死と向き合うと、それまでの過程がなかなか大変だ。その日暮らしで、ホームレスに行き着いて、食うに困って餓死、行き倒れ、寒さに耐えれず、病気になっても治療を受けられず、そういう最後が待っている。「生きづらさ」と天秤にかけるに値するだろうか。僕にとって、この世界を生きるということは、病むか、ホームレス、その二者択一だったように思う。そんなのどっちもどっちだろ。

だからまあ、まだ体が動くうちに、健康を害する前に好き勝手やっている。会社員を辞めたのが2013年で、それから8年経った。その間、半年とか1年とか、短い期間だけどやりたいわけではないことをあれこれやって、食いつないできた。それぐらいだとギリギリ耐えられたのかな。今生きづらいかっていうと、まだ差し迫ってないから、今のところは平気です。

僕から見れば、やりたくないことをやらなくても生きていけたり、何事もそこまでやりたくないと思わない人は、それだけで結構人生勝ち組だと思う。勝ち組って古い言葉だな。昔流行った。