考え方が変わるのは悪くない

「考え方が変わるのは悪くない」が枕詞になるとすれば、続く言葉は「でもコロコロ変わると信用できない」。

若い頃は、一貫性が大事だと思っていた。初志貫徹、道を曲げない、言葉を曲げない。一度決めたことは貫き通す。意見を変えるという行為は、裏切りに近い。Twitterなどでも有名人は過去ログを掘り返され「昔と言ってることが違う」と揚げ足を取られることがある。政治家などは特に多い。日和見主義だとか、流行かぶれだとか、自分の意志がないとか主義思想がないとか言われる。実際にそういうこともあるだろう。

特に世の中の流れが変わると、正義の中身も変わる。前に良かったことはダメになり、ダメだったことが善になる。世の時流に乗っかってしまうと、自然と自分の意見も変わってくる。考えもなしに乗っかっているだけの人は、ただの流行追いミーハーだと批判され、実際そのとおりなんだろう。逆に、世の中の流れが変わろうとも自分の意見を曲げない人がいて、例えば今日においても中絶反対派の人は少なくない。彼らは教義に忠実で、世の中の流れになど惑わされない。そういう態度がいいか悪いかっていうと、判断できない。

ロッキー4は、「自分は変えられない」と言ってリングで散るアポロと、「誰でも変われるのです」と言って観客を味方にしたロッキーを対照的に描いていた。ロッキーも「俺はファイターだ」と言って戦うことに固執し、一時はアポロの態度を受け入れていた。しかし結果として、戦うことで変われることを示すことになった。復讐のためではなく、答えを出すために戦うことを選んだ。ロッキー1からして、勝つためではなく自分を変えるためにリングに立つことを選んだと言える。

今だから話せること」。若い自分に、今だから話せることは、「変わる」ことを否定しなくていいこと。変わろうとして変わっていくこともあれば、意図せず変わってしまうこともある。必然的に変わることもある。「変わらないことが正義」ではない。「あいつは変わった」などと批判しなくていい。より大切なのは、立ち位置を把握することではないか。ロードマップを描けること。何故変わったのか、どこからどう変化したのか、何がきっかけなのか、その経緯経過が把握できていれば、説明することも難しくない。日和見ではなくなる。

自分は若い頃、保守愛国だった。伝統も天皇も尊重していた。今は違うかと言えば、少し違う。日本というルーツのアイデンティティは、今もなくはない。けれどあまり外に向けて主張するものではなくなった。海外にいるとき、事あるごとに「日本人だから」と答えていた。「日本人はこうだ」というような、自分と日本人像を重ねていた。それは日本人のイメージアップをしたかったからかもしれないが、結果的には自分を失くす行為だったように思う。枠組みに則った行動には、自分の意志が感じられない。今思うことは、日本人の評判なんてどうでもいい。自分がどうあるか。

「日本人だから」ではなく、「自分がなぜそうしたいか」に自覚的になりたかった。誰かの意見に賛同するのはいいと思うけど、流れに乗って盲目的に従うなら、そこには自分がいない。主義思想は、仮想敵に対抗するために固めるのではなく、自分の意見を持ちたいと思った。日本人はもはや共同体ではない。ルーツのアイデンティティに固執することは、滑稽にすら思える。日本人は結果的に日本人なだけであって、「日本人はこうすべき」といった思想や行動を制限する枠組みではない。

僕が若い頃には、ネトウヨという言葉はなかった。クソリベという言葉もなかった。徒党を組んで一直線に祭りを盛り上げるだけの行為は、新興宗教となんら変わりない、感情に訴えるだけの煽動。これまでにも多く見てきた。中身は何でもよくて、お祭りに騒ぎたいだけの人たち。そういう人たちから、いかに冷静に距離を置くか。理想は感情で、現実が理屈だとすれば、どちらかに偏らないように、両方を大切にしましょう。

特別お題「今だから話せること