自分を正当化しない

自分を正当化しないように、気をつけている。こう言うとまるで、頑固にならないように、意地を張らないように、他人の意見にも耳を傾けるように心がけているかのようだ。でもそれともまたちょっと違ってくる。大体同じだけど。

自己正当化とは、「私は正しい、私は悪くない」という意識のもとで自信を持つというか、傲慢になるというか、錦の旗を掲げるようなときに使われるかもしれない。例えば世の中に向けての主義主張だったり、他者からの意見に対してであったり、人との関係性の中や世の中での立ち位置、何か出来事があったときなどに、自分の身を守るためや、自分の意志を貫くために、自己正当化が行われる。俺は正しい、間違っていないと。

僕はもっと個人的な領域で、気をつけている。まず、正しくあろうとしないように気をつけている。正当化とはまさに、正しさの上に乗っかろうとする行為だけど、自分はまずその正しさを疑う。本当に正当でなくてはいけないのか。正しくある必要はあるのか。抽象的すぎてわかりにくいな。

正当化とは、正しさの上にあぐらをかく行為だと思っている。正しければいいと思っている。正しければ安心。だから自信の根拠になる。でもそれは本当に意味のある行為なのか。正しい認定に意味はあるのか。正しさに意味はあるのか。正しければ何をしてもいいのか。正しければ許されるのか。その自信は必要なのか?なんのために?

正しさに固執することで、本質を見失わないだろうか。正しさをゴールとしてしまうことで、その先にたどり着けないような気がする。間違い、誤りの内にも本質や答えはあるだろう。それが正しさを目指すことで蔑ろにならないか、正しさの方ばかり目を向けていると、その過程にあるものを素通りしてしまわないか心配になる。

だから僕はなるべく「これでいいんだ」とか「自分は間違っていない」とか思わないようにしている。「いいかどうかは別として」という前置きは、物事を考えるうえで重要なんじゃないか。正しさ、間違いのところで足を止めてしまわずその先のことを考えるために。問題は「正しさ」ではないということがよくある。そのとき正しさにこだわってしまうと、問題の本質にたどり着けないまま、強引に正しさを振りかざすことになる。「正しいか間違ってるかはどうでもよくて」という意識を大切にしたい。

それは同時に、間違い、誤り、悪さを正すということに固執しないことでもある。「間違い」「誤り」「悪行」を肯定するわけではない。それをそれとして、そのまま考えていく。なぜ間違うのか、その間違いにどういう効果があるのか、間違いをどう捉えているか、正せるのか、正したいのか。すぐに「間違いを正すにはどうすれば?」という思考にならないように、気をつけている。それはそれできっと何らかの意味のあることだと思う。悪いこと、間違いにも理由がある。

「間違い」「誤り」「悪意」に対して「それでいいんだよ」と投げかけるわけではない。それは肯定であり、正当化であって真逆になる。肯定も否定もなく、もしくは否定するなら否定したままで、正当化せずに考える。その間違い、誤り、悪はどういうことなのか。どうなっているのか。なぜ起こるのか。どこから来ているのか。どうしたいのか。そこに何があるのか。すぐに目をそらして正しさに向かおうとせず、人間の誤りを見つめたい。