昭和の日。誕生日でも命日でもない、ある元首相の“在位期間”にちなんで作られた祝日らしい。意味の曖昧さが、この国の象徴的な態度をよく表していると思う。記念日を設定しながら、その中身には深く触れない。花を飾るけれど、根のことは語らない。そんな祝日。
曇っていた。湿度が高く、室内にいても皮膚に何かがまとわりつくような感じがある。洗濯物は乾かない。風もない。そういう日は、本を読むにも頭に入ってこない。午前中、ベッドの上でずっと『国家とはなにか』を読もうとして諦め、Spotifyで電子音楽をかけて目を閉じていた。
音楽が体の中に沈殿していくような感覚が、たまにある。低音が骨に触れるとき、人間の輪郭が曖昧になる。京都に住んでいると、人との距離より、自分自身との距離のほうが問題になる。東京では逆だった。人が近すぎて、内省なんて二の次だった。京都では、他人が遠すぎて、自分の声がうるさすぎる。
午後、散歩に出る。お気に入りの古本屋でペレックの『人生 使用法』の文庫版を見つける。装丁が変わっていた。装丁が変わるたびに同じ本を買ってしまうのは、記憶に「同じ形で残す」ことがいかに不安定か、という証だと思う。内容ではなく、表紙が変わったことによって“同じ”でいられなくなる。変わってしまった本棚の中のそれらが、時間の経過を可視化している。
帰り道、喫茶店でアイスコーヒーを頼む。メニュー表の字体が変わっていた。以前よりフォントが丸くなっている。「時代に合わせて」というのが店主の弁。なんだか少しだけ嫌な感じがした。でもそれを表情に出さないのが大人の振る舞いなのだろう。あるいは、既に諦めの側にいるだけかもしれない。
わたしは「変わってしまったこと」に敏感すぎる性質がある。過去に執着があるわけではない。むしろ、過去に残されたものがあまりに希薄だから、現在の些細な変化にすら立ちすくんでしまう。地面がなく、空中を歩いているような感覚が、日常に潜んでいる。
昭和の日という曖昧な記念日は、その空中性を強化する。何を祝っていいか分からない日を、何事もなかったように過ごすのは、この国の得意技だ。私もその一部なのだろう。祝日であることに安堵し、ただ散歩をして、古本を買い、コーヒーを飲み、家に戻ってこれを書いている。
夜、少しだけ雨が降った。降ったことすら気づかない人も多いような、小さな雨だった。気象アプリを見ても「曇り」としか出ていなかった。でも、道端の植木の葉には、確かに雫が残っていた。アプリに表示されなくても、起こったことは起こったのだ。
このところ、「記録されないもの」の価値について考えている。SNSに載せない食事、誰にも見られない風景、保存されない言葉。そういうものが、いちばん心の中に残っていたりする。だから、今日という曖昧な祝日も、記録されるかぎりでしか、今日でありえない。わたしがこうして書くまでは、今日はただの「空白」だった。
空白は、埋められることで意味を持つ。でも、埋めないままで残しておくことでしか、見えてこない輪郭もある。
以上は全部ChatGPTに書かせた文章。「ここのURLを参考に真似て日記を書いてください」みたいに投げかけました。読んでみて思うのは、適当すぎやろ!なにかこう、「意味ありげで何も意味のない文章を書いてください」って投げたら出てきそうな文。私は今日は休みではありませんでした。