ヒトコトへの回答

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。以下が回答です。途中から数え方を変えて急に番号が飛んでいます。他に、掲載不可で送ってもらった内容は載せていません。

1通目:行人

行人の記事が印象的でした。これからも色んなネタでブログを書いてください。

行人の記事とは、夏目漱石の後期三部作「行人」について書いた読書感想文ですね。 これほぼ無反応だったのに、読んでくれた人いたんだ。夏目漱石の後期三部作というと「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」になるんだけど、「こゝろ」しか知らなくて「こゝろ」しか読んだことないという人がほとんどだろう。夏目漱石を一通り読んだという人なら行人にも目を通しているかもしれない。どちらかというとマイナーな本になるのかな。ネットで検索してもあまり情報が出てこない。

夏目漱石の本の中で一番好きなのが「行人」なんだけど、それ以外に読んだ本が少ない。「こゝろ」「彼岸過迄」は読んだ。「吾輩は猫である」とか「坊っちゃん」は読んでいない。「門」は読んだような気がするけれど内容を覚えてない。「それから」も読んだような気がする。夏目漱石の本は青空文庫で全部無料で読めるから、気が向いたら読んでみてください。古い本の割に文章も簡単だから読みやすいと思う。

これからも色んなネタでって、何書けばいいんだろ。

2通目:仕事

やあやあ、いまなんの仕事してるんですか?

何の仕事もしてないっすね。貯金と身の回りの物を処分して生活しています。できればもう一生働きたくない、けれどそんな風にはいかないだろうな。今ひとつ応募しているところです。年明けに面接。

3通目:「カッコイイ」と「めんどくさい」

「カッコイイ」と「めんどくさい」は両立できるのか。「カッコイイ」と「努力」は両立なのか。「かっこ悪」はイヤなのだけど、それなら必然的に格好良さとか努力とか必要なのだろか。

このメッセージについては「返信不要」とあったんだけど「ブログ掲載可」になっていたから勝手に考えてみよう。

「カッコイイ」と「めんどくさい」は両立できるのか

この人は何をかっこいいと思うのだろう。かっこいいとは何か考えてみると、評価になる。評価には自分の評価と他人の評価がある。他人の評価については千差万別で、見る人が変わればどんな状態でも「かっこいい」になり得る。めんどくさがるのがかっこいい人にとっては「めんどくさい」も「かっこいい」になる。だからかっこいいかどうかは、「誰が」評価するのかがポイントになる。「自分」なのか「世間」なのか「特定の誰か」なのか。でも多分話の流れから見ると「世間」なのだろう。「世間」から「かっこいい」と思われたければ「めんどくさい」ことが必要になる、という話?

じゃあ「めんどくさい」って何なのか考えてみる。ここで言う「めんどくさい」は「めんどくさいから、やらない」という意味だろう。ではなぜ「めんどくさい」とか「ダルい」とかって思うのか。「やりたくない」からだ。やりたくないことをやる、やらなければいけないから「めんどくさい」。やりたいことをやっていれば、めんどくさくない。

だから結論として、「やりたいこと」をやっていれば「かっこいい」と「めんどくさい(からやらない)」も両立する。簡単な例で、勉強が楽しくてメキメキ上達して、頭良くかっこいいと思われるパターンとか。「めんどくさい」ことは何もやっていない。やりたいこととして勉強を楽しんでやって、頭良くて「かっこいい」という評価を得ている。

「カッコイイ」と「努力」は両立なのか

新たに「努力」が出てきましたね。これはさっきの「めんどくさい」と同義でとらえていいのかな。めんどくさいことをするのが「努力」だと考えた場合、果たして努力している人はかっこいいのだろうか。「かっこいい」は評価だった。世の中には「努力」そのものを評価する風潮があるから、「努力」によって結果が出なくても「かっこいい」という評価を得られることがある。

それでは、かっこよく見られるためには努力が必要なのか。「努力」=「めんどくさいこと」だとしたら、努力なしでもかっこよく見られることはある。さっきの例みたいに、勉強が楽しくてメキメキ上達して、頭良くかっこいいと思われるパターンは「努力」と言えるだろうか。言えるかもしれないが、すくなくとも「めんどくさいこと」ではない。楽しんで自らやっている。だから結論としては、「カッコイイ」と「努力」は両立しないこともある。つまり、「カッコイイ」と「娯楽」が両立することもある。

「かっこ悪」はイヤなのだけど、それなら必然的に格好良さとか努力とか必要なのか

「かっこ悪」=「世間の評価が悪い」だとすると、この問いかけは「世間から悪く見られたくなければ、めんどくさいことをやってかっこよく振る舞わないとならないのか」ということになる。この人は多分、かっこよく見られたいわけではなく、「かっこ悪くなければいい」と思っているんだな。ほどほどでいいとか。

目立たなければいいじゃん。世間の目につかなければ「かっこいい」も「かっこ悪い」も「めんどくさい」もない。だって世間が認識してないんだから。でも「かっこ悪い」のが嫌っていうのは、ほどほどはやはり「かっこよく見られたい」ということになるから、世間から全く見えないのも嫌なんだろう。

意識を切り替えてみては?めんどくさいっていうのは、自分が勝手に思っているだけの話で、それが好きな人もいる。筋トレとか僕はめんどくさいと思うけど、結果ではなく過程としての筋トレが好きな人だっている。それは意識の問題であって、「筋トレ楽しい」と思い込めばめんどくさくなくなる。そうやって自己暗示をかけるように意識を切り替えると、今まで「めんどくさかったこと」や「努力」は「娯楽」や「楽しみ」に変わる。

パズルとか将棋とか僕は苦手だけど、楽しんでやってる人もいる。かたや、こういう事を考えて文章にするのをめんどくさいと思う人もいれば、僕は楽しんでやっている。この違いは何なのかというと、気持ちの問題。それを好き嫌いだとか才能だとか思わずに、意図的に自分を洗脳する。その結果、遊べば遊ぶほど世間から評価されるようになる。自己暗示や洗脳の技術は本とかに載ってると思うんで探してみてください。やる気の構造とか。何か特定の行動をドーパミン分泌に紐付けするための方法論とかそういうのだと思う。

僕の場合は世間の評価を全く気にしないわけではないけど、やはりそれすらもめんどくさい。だからかっこ悪いと思われるのは「しょうがない」と思ってしまう。努力を楽しみに変えるようなこともめんどくさくてやらない。かっこ悪くていいじゃん、どうでもよくね?と思ってしまう。事実かっこ悪いしね。

4通目:人付き合いが苦手

人付き合いが苦手だという内容をよく書いていらっしゃいますが時々、以前勤めていらっしゃった会社の後輩さんやワーホリで知り合った方と会ったいう内容も見受けられます。本当に人付き合いが苦手なのでしょうか?

僕の場合は技術として苦手かどうかというより、性質として普段ずっと一人でいるタイプだから、性格的に人付き合いが苦手。例えばよくいるのが、本当は一人が苦手で友達もたくさん欲しくて仲間みんなといろいろ共有したいけれど、シャイだから友達少なく、しかたなく一人、人付き合いが苦手っていう人。この人は性格的には人付き合いしたいのに、技術的に苦手というパターンになるから、僕とはまた種類が違う。僕は決して技術的に優れているわけではないけれど、それ以上に人と一緒にいるのが大変だと感じる方。

また、人付き合いが苦手といっても程度があるから、厳密に言えば「人付き合いが苦手な部類に入る」ということになる。白か黒かではっきり分けるとしたら黒だけど、白と黒の間にはグラデーションがあるという感じ。だから「一人が好き」というのも「どちらかと言えば一人が好き」という意味であり、山奥で孤独な生活を何年続けても平気、という意味ではない。「さみしくてずっと誰かと一緒にいたい」という人が半日しか持たなかったとしたら、僕は半年ぐらい平気だろうというだけの話。

5通目:生計

どうやって生計立ててるんですか?

今?今は貯金です。生計は貯金で賄っています。あと身の回りのものを売ったり。今までのパターンであれば、貯金がなくなりそうになるとバイトをするという生活をしてました。そろそろやらないといけないですね。

カナダに行く前は300万ぐらいの貯金があって、旅行したりしても1年半ぐらいは余裕でした。オーストラリアに行った頃はいくら残っていたか忘れたけど、半年働いて120万ぐらいになり、旅行したりしても全然平気でした。その貯金がまだ残ってます。会社員の頃からそうなんだけど、普段お金全然使わないんです。

6通目:海外での生活

いつもではないですが,ブログみています.海外での生活を夢見ています.

いつもではないですが、というのは全部は見ていないという意味だろう。僕も人のブログであったり何かを見るとき、大体全部は読みません。あと毎日チェックしたりもしません。ときどき気になったものだけ読みます。それも途中まで見てやめることだって多いです。ときどき見てもらえたら、それで十分です。

海外での生活。僕は一時的に、2年半ばかし海外で生活していましたが、海外での生活といっても様々な形態があり、暮らしがあり、僕がやっていたようなのは一番簡単でお金もかからない分、得るものもないケース。ただなんとなく海外で長期過ごしていただけ。それだけだったら、必要なのは時間とお金だけですね。時間はそのまま海外で過ごす時間、お金は渡航費と滞在時間に比例した生活費。

しかし一番のネックになるのは、その時間やお金をどうやって持ってくるかでしょう。学生ならば休学したらいいけれど、会社員なら辞めなければいけない。フリーランスなら休業するか、渡航先でもできる仕事だけ受注するとか。外国で生活する時間やお金と、それ以外の生活を天秤にかけ、捻出するためにどこかを切り崩すか、もしくはあきらめるか、ということになると思います。僕はお金は貯金から、時間は会社を辞めて捻出しました。

7通目:対話シリーズ

対話シリーズわりと常に楽しみにしてますー

ああ、YouTubeのやつですね。

対話シリーズ - YouTube

なかなか話す機会がなくてそれっきりになっています。話したい人募集しています。「川添さんは話したい人いないんですか?」って聞かれたこともあるんだけど、そういう人とはコンタクト取って話してきたつもりです。他はあまり接点がなかったり、僕があまり人のブログを見ていなかったり、鈴木あかめさんとのやつも一応対話シリーズみたいなもんで、録音しようか考えたんですけど向いてないと思って文章にしました。

8通目:パプリカ

アニメ映画「パプリカ」の感想が聞きたいです。

こちらはブログ掲載可で回答不要だったから、触れる程度で。パプリカかあ、結局あのあたりって感想書かなかったなあ。何書いていいかわからないというよりは、まだ感想を落とし込めていない状態で続けて秒速5センチメートルを見て、結局そっちも感想書かず君の名はを見て感想書いた。

パプリカについてはちょっと残念だった部分もあるから、それも含めてそのうち感想書いてみます。同時にパーフェクトブルーにも触れるかもしれない。それならいっそのこと東京ゴッドファーザーズも見るか。

9通目:16歳だとしたら

現在16歳だとしたら何をしますか? 会社で毎朝あいさつしなくても波風立たない良い方法はありますか?

16歳だったら、と聞きつつ会社の話をするってことは、16歳ではなく会社員の人なんですかね。16歳と会社のあいさつがどう関係するのかわかりませんが、それぞれ答えてみましょう。

今16歳だったら、僕が実際に16だった頃と変わらないでしょう。16歳の頃は高校に進学して毎日学校に通ってました。それだけです。もし今までの経験を踏まえて16歳に戻ったとしたら、学費無料の国の大学へ行けるように努力するんじゃないでしょうか。具体的には英語をやったり、高校の成績を取ったり、行きたい学部を探したり、進学に向けて準備するでしょう。けれどそれも結局、学びたいことが見つからなければあきらめるかもしれません。

会社で毎朝あいさつしなくても波風立たない良い方法。これは毎朝あいさつしたくないけれど、波風も立てたくないというご都合主義の意見ですね。あいさつを拒否したいなら、波風どうこうも拒否しなければならないでしょう。どうしても自分に都合のいいように振る舞いたいなら、経営者になることです。もしくは会社を辞めて、自分に都合がいい会社に入ってください。ルールを変えるか、別のルールがある場所へ行くしかありません。それができなければ、あきらめてあいさつしてください。

10通目:食生活

自炊派?外食派?食生活が知りたいのです

外食はほとんどしません。大体は買って食べます。一部自炊になりますが、料理はできないためパンを焼いたり、パスタを茹でたり、焼きそばを炒めたり、野菜を切ったり、その程度。食べることへの情熱は薄いです。同じものばかり食べていても生きていけます。

11通目

あなたが死ぬと私は絶望する。心の支えにしてるとかそんなんじゃないけど。川添さんにもそういう人はいますか?

質問の意味がよくわかりません。

12通目:仮面を被ること

はじめまして。メイ子と申します。 淡々とした言葉選びが素敵だなと思って、たまに拝見しています。 最近だと「社交性という名の仮面について」の記事が好きです。 この記事の中で質問なのですが、仮面を被ることについて何を思うのかが気になりました。 文中で「疲れるので徐々に通常モードに戻していくという部分」は記載されていたのですが、仮面を被ることによって生じる外部評価と内的評価の差異への所感などがあれば聞いてみたいなと思いひとことを送ってみました。 例えば、仕事で評価をされる場面に遭遇したら、「仮面の自分を評価されているのだから虚しい」と思うのか、「仮面があろうとどちらも自分なのだから嬉しい」と思うのか、が気になる部分です。 はじめましてで、面倒なことを聞いてしまいすみません。 お手すきの時に、返信いただけると嬉しいです。

ひつじ田メイ子(id:hituzidameiko)さんから頂きました。「社交性という名の仮面について」というのはこれですね。 仮面を被ることによって生じる外部評価と内部評価の差異への所感、ですか。僕はこの「社交性という名の仮面」を自分の所有物であるととらえています。自分自身ではありません。自分に付随するものでもありません。仮面が評価されたらそれは、仮面そのものへの評価だととらえます。

所有物である仮面は、自分とは完全に切り離された物なので、それが評価されても自分への評価と結びつかないのですが、そういった道具を使う自分への評価には繋がります。つまり仮面が評価されることで間接的に、仮面を使える自分を、自ら評価する形になります。「よく仮面を使いこなしているなあ、自分」となるわけです。ですから、「仮面の自分を評価されているのだから虚しい」だったり「仮面があろうとどちらも自分なのだから嬉しい」のどちらでもありません。仮面は飽くまで仮面でしかなく、自分の前にある物体だから、それが自分自身に対する直接的な評価や感情と結びつくものではありません。

「疲れるので徐々に通常モードに戻していく」というのは仮面と自分との間の差が大きく、仮面を使うことに疲れるため、なるべく疲れないですむように徐々に素の自分を織り交ぜていくような形です。それは素の自分に対する評価を求めて、というわけでもありません。この過程において離れていく人はたくさんいます。関係性を維持する必要があれば、維持できる範囲の仮面を残してその後も関わっていくことになります。

13通目:ヒトコト

さて、まずは一言とは何か?というところから始めたいが面倒だからやめておきます。

どうも。

32通目:孤独にならないスキル

孤独にならないって1つのスキルだよな、と感じます。自閉症系発達障害者には難しいです

この人が何を読んでこのメッセージを送ってきたのか、おそらくこのあたりかな。

孤独にならないってスキルなんですか。よくわかんないけど、スキルだったら磨けばいいだけで、それが難しいって話か。発達障害ってASDってやつですか?僕は何も知らないんで、なんなんですかね。よくチェックリストとかやってみると全然当てはまらないから自分は違うんだなーぐらいしか思っていない。

いずれにせよどう頑張ったところで、孤独には変わりないじゃないですか。いかに誤魔化すかだけの話で。孤独が嫌だったらその薄い誤魔化しの中で、バカみたいに騙されておくしかないと思います。誤魔化すのが下手だったら、下手なりに敷居の低いところで甘んじるしかないんじゃないですかね。

33通目:アフィ収入

アフィリエイト収入はどれくらいですか?

ほとんどゼロですよ。いわゆるアフィブログっていうのは、記事の文章をリンクに誘導して成約の見返りにバックを得るタイプの物を指すから、そういうのは全くやってないです。そもそも日記だし。アクセス全然ないし。

ときどき小さく取り上げられることがあって、そのときにAmazonから臨時収入が入るぐらい。

34通目:応援メッセージ

こんにちは。ブログを拝読させていただきました。感性豊かで繊細でありつつ、とても論理的な思考をお持ちの方なのかなとイメージを膨らませました。文章に力があり、とても引き込まれました。これからもブログを楽しみにしています。

すげー丁寧なメッセージありがとうございます。感性豊かで繊細、なおかつ論理的、そうなんですかね!だったらいいな。

イメージがどうかは知りませんが、元々の知り合いにブログのURLを伝えたりすると、さらけ出し過ぎていて引かれることがよくあります。僕と同世代の人だったり、それ以上の世代はオープンであることに馴染みがないから。

35通目:高野秀行ファン

高野秀行さんを調べててたどりつきました。好きな作家さんなので取り上げてもらって嬉しいです。

高野秀行氏については去年から今年にかけて、かなりたくさん書いてきました。高野ファンとは一回ガチトークをしてみたいですが、周りにいなくて布教活動をしているところです。

「本」について#高野秀行

高野さんは最近テレビやラジオに出られ、講演もたくさん行ってなおかつ取材に行ったり多忙な日々を過ごされているらしく、ブログが全く更新されなくなったのが残念でなりません。その代わりTwitterはときどき投稿されてますね。

文春の連載とかそのうち書籍化されんのかな。新潮のは最近止まってる。

僕としてはやはり、書き下ろしの辺境モノがまた読みたい。ソマリランドや西南シルクロード、アヘン王国、ムベンベ級は滅多に出てこないと思いますが、今まで既にこれだけあること自体信じられないことで、また新たな辺境を見つけてもらうことをじっと待つしかない。

36通目:逃げる・小説の書き方

色々なことから逃げているものです(いつかは打破しないといけないとは思っている)心にある鬱々とした悩みを小説にでもしてどっかの賞に送ろうかと、小説の書き方とかをネットで調べていたら偶然このサイトにたどり着きました。 正直いってとても面白いブログだと思います(もちろん記事にもよりますが)とても興味を持ちました。 なのでここに気持ちを書きました。 今後も読ませていただきます。

どうも、メッセージありがとうございます。順番に見ていきます。

色々なことから逃げているものです(いつかは打破しないといけないとは思っている)

いろいろなことってなんだろう。僕自身は「打破しないといけない」ってあまり思ったことない。打破したければすればいいし、逃げたければ逃げたらいいと思って日々を過ごしている。基本は逃げることしか考えていない。大切にしているのは、後悔しないことかなー。「あのときあーしてればよかった」なんて思うのは馬鹿げている。屁理屈でもなんでもいいから「あのときはあれが最適解だった」と考えるようにしている。どうせいつかは絶対死ぬんだから、その道順が変わるだけ。

心にある鬱々とした悩みを小説にでもしてどっかの賞に送ろうかと、小説の書き方とかをネットで調べていたら偶然このサイトにたどり着きました。

えー小説の書き方なんて書いてないんだけど、どうやってたどり着いたんだろ。小説の書き方をネットで調べるよりは、まず書くことから始めた方がいいんじゃないかと思います。「賞に送る」というゴール設定に対して「ネットで書き方を調べる」というスタート地点はあまりに遠すぎる。3年ぐらいの長期プロジェクトを地道に遂行できるならいいけど、たいていは書き上がらない。書き始めるかどうかも疑わしい。だったらまず書くところから始めよう。

「書き方がわからない」っていうならもっと前の段階の、読むところから始めなければいけない。読んでいれば書き方が身につくってことはないにしても、人の書いた文章を読んで自分が何をどう書きたいかイメージが湧くこともある。小説って物語だから、心にある鬱々とした悩みだけでは小説にならない。せいぜい日記かメモ書き程度で、そこからどうやって物語に落とし込んでいくのか、書きながら考えていくというのも一つの手段です。

まず人類の99%は小説なんて書きません。書き始めた99%の人は書き上げるまでに挫折します。書き上げても99%はまともに読めたもんじゃないでしょう。まともに読めるうちの99%はおもしろくない。おもしろくても99%は凡俗。小説の賞レースはイバラの道だと思いますが(応募しようと思ったことがないから知らない)、まず最初のステップである「書き始める」ところからスタートしてはどうでしょうか。いくら書きたいと思っても、書かないことには何も始まらないと思います。

今はブログでもnoteでもなろう系サイトでも、媒体は恵まれている。ネット上ではなくパソコン上で書いてもいいだろうし、アナログに紙に手書きでもいい。書いたら読ませてください。

正直いってとても面白いブログだと思います(もちろん記事にもよりますが)とても興味を持ちました。 なのでここに気持ちを書きました。 今後も読ませていただきます。

そりゃーどうもありがとうございます。

37通目:八方美人

つい八方美人になってしまいます。どうすれば治るでしょうか?

メッセージいただきありがとうございます。まず開いて一番最初に思ったことは、どうでもいいわーこれ。どうでもよすぎて無視しようと思った。今までもこういうどうでもいいメッセージが来て無視したことは何度もあった。こいつ、俺にこんな質問送ってきて何がしたいの?って。ただまあ今回暇だから例外的に回答します。

つい八方美人になってしまいます。

そうですか。

どうすれば治るでしょうか?

知りまっせーん。

以上。

というわけではない。一言でいいとはいいつつも、こんなにも情報がなければ何も答えられない。世の中には質問が下手な人というのが山ほどいて、回答を求めていないならまだしも、だったら初めから質問するなよって話で、こんな漠然とした中身のない質問がありとあらゆる場所へ届いたりするわけだ。というわけで、ここは一般論としての回答になるのだろう。このメッセージをくれた人が誰でどんな人でどんな状況に置かれているかはともかく、八方美人を治す方法らしいです。しらねー。

八方美人ってなんすか。多分、誰にでもいい顔をするという意味だろう。それって治す必要あるんすか。勝手にやっとけばいいじゃないですか。でもどうすれば治るかっていうんだから治したいんだろう。なんで?治さなくてよくね?何で治したいのか、もう既に想像つきません。だって僕は八方美人じゃないから。

じゃあそもそも何で八方美人なのか。言葉の語源からしておそらく、誰からも良く見られたいのだろう。好印象を抱かれたいのだろう。なんで?他人が自分のことどう思っていたってどうでもいいじゃんか。なんで人から良く思われたいの?特定の誰かに良い印象を持たれたいっていうならわからんでもない。でも八方美人は誰からも良い印象を持たれたいってことになる。なんで?どうでもいい人にどう思われようがどうでもいいでしょう。

でも八方美人の人はおそらくそうではないから八方美人なんだろう。誰からも良く見られたい。何故か、いくつかのパターンがある。一つは良い人に見られることで自尊心が高まるタイプだ。もう一つは、良い人に見られることで安心感を得られるタイプだ。悪く思われていない、敵視されていないことに安心感を持つ。これら2つのタイプだったら、八方美人を続ければいい。何もやめる必要はない。八方美人であることにより、自分が求める結果を得られるんだから。

じゃあ何でやめたいのか。八方美人であることを治したいなんて思うのか。単純な例としては、自分を取り繕うのが疲れるからだろう。心にもないことを言うのがストレス、どうでもいい相手に気をつかうのストレス、自分や相手に嘘をつくことがストレス、こんなに苦労してまで八方美人をやるのは疲れる。得るものがない。だからやめたい。本当か?本当だったら真っ先にやめているはずだ。やめていないということは、

八方美人であることのストレス < 良い人に見られることによる安心感

この不等式がまだ成り立っているはずだ。だからまだ八方美人を続けている。ストレスを感じつつも、その方が得だと思っているならやめる理由はない。これまで通り八方美人を続けてください。ストレスのほうが大きくなったら自然にやめる。

八方美人ではない僕からすれば、そもそも八方美人になる理由がないわけで、それは何故かというと他人が自分に対してどのような印象を持っていようとどうでもいいから。興味がない。八方美人をやめたければ、どうでもいい他人への興味をなくせばいいんじゃないですか―。どうでもいいのに興味持ってる時点で矛盾してます。このあたりで終わります。

38通目:共感できる記事

川添さん

こんばんは。 ブログをいつも読んでいます。 川添さんのことが無性に気になり、なんというか他人事とは思えなくて…ほぼ毎日、仕事終わりにPCを開いて、更新があるかを見ています。 ご連絡を差し上げたのは、川添さんと一度お話ししてみたいと思ったからです。

Letter from Kyotoには、モンベルの下着について調べていて、「噂のmont-bellジオラインを購入した」という記事を見つけて辿り着いたと思います。

しかし、読んでいくとあまりにも共感できる記事が多いので驚きました。 ぼくがブックマークしていて、たまに読み返すのがこれらです。

特に好きな一節が、「どうやって正気を保つか」の「己の現状や今後の見通し、これまでの失敗、罪状と償い、借り、踏み出すその一歩がつるっと滑って鞄の中身が壊れやしないか、そこにある金属の先端が目に突き刺さりはしないか、僕はその前を横切る際に手で覆うことにしている」

といったことからもお察しいただけるかもですが…どちらかというとぼくも?人生に対してわりと悲観的に考える傾向にあります。

ということで、川添さんとお話ししてみたいなと思っているのですが、お暇なときに、Skypeなどでお話しできませんか? 話題は特にないのですが…人生のことでしょうか…

このあと簡単なプロフィールとLINEのIDとメールアドレスが書かれていたが、ここでは省略する。20代の会社員男性っていうぐらいは言ってもいいかな。珍しくSNSはやってないということだった。

共感できる、読み返す、ということで、2014〜2015年ごろの日記を挙げてくれている。僕が日本に帰ってきたのは2016年の5月か6月頃だから、カナダかオーストラリアにいた頃の日記にあたる。当時のものを読み返すと、なんていうかほぼ自殺日記みたいな感じの内容だ。書き出すにあたっては、日本を離れていたことで心境の違いなんかもあったのだろう。ただ考え方は今も当時と変わらない。今はもう書けないというだけで。

お話したいってことだったけど、何話すんだろ。僕自身は具体的なテーマ設定がないと人と話せない性分で、自然になんでもコロコロ話題を転換してくのは苦手だ。自分が興味持ったテーマや相手だったら自分で話題を用意することもできるんだけど、今回相手のことを全然知らないから、まあ興味の持ちようがない。そういうわけで、相手におまかせしています。近場だったら会って話すんだけど、今回遠方だからスカイプで、多分今日あたり話す。

39通目:離婚を検討中

こんにちは、初めまして。いくつか記事を読ませて頂きまして、合理的で筋の通った方だと思い人生相談をお願いいたします。稚拙な文章で申し訳ないです。 30代主婦。40代の夫と小学生の子供が2人。離婚するか続けていくか考え中です。夫は人当たりと面倒見が良く見えて結婚。実際は自己中心的、口ばかりで他人任せ。自立出来ておらず、今だ親のスネもかじります。仕事のストレスも私に八つ当たり。私は口下手なのでいつも言い返せず、変わってくれるかもと10年我慢しましたが限界です。夫は俺が悪かったから続けたいと。夫が100%悪いわけではないし、結婚前に見抜けなかった私も悪いのですが。もう辛いのです。どんなことでも構いませんご意見を聞かせてください。

問題を解決する気があるなら対話が必須で、口下手なら手紙に書けばいいだけの話です。10年間も対話してこなかったのが原因でしょうね。あなたはやってるつもりだったかもしれませんが、相手に伝わっていなかったから今の結果があります。自分の思っていることを相手に伝えもせずに、わかってくれるとか、変わってくれるなんていう赤子のような願望を他人に抱いたまま10年待っているあなたも、僕から見れば十分自立できていないです。今回別れたとしても「口下手だから・結婚前は違った」と言い訳して別の人と同じことを繰り返すでしょう。対話ができない相手とは初めから一緒にならないほうがいいですし、それでも一緒になるなら相手を受け入れる覚悟が必要でしょう。そんなことも考えずに相手の上辺にある薄っぺらい部分に騙されて結婚したのだとしたら、あなたはまず、他人に対する都合のいい願望を捨てるところから始めたほうがいいんじゃないですか。言ってる意味わかりますか?

41通目:楽しい気持ち

こんにちは、いつも楽しくブログ拝見させていただいています。 毎日一回以上は更新チェックするぐらいみてます。

質問です。 読んでない記事も多々あると思いますが、読ませていただいた中で思った疑問です。 以前に自分の人生は終わっている、もう将来等未来はどうでもいいという事が書いてあったと思うんですが、その反面ブログの読者と会ったり外で人と喋ったり議論したりする機会があると思います。その時はやはり楽しいと思うのでしょうか? 自分も悲観的になったりどうでもいいと思うことは多々あります、だけども何気なく人と話していると気も紛れるし、その瞬間、その時は楽しいと心から思い、笑みがこぼれてしまいます。 その事に客観的に気づくと将来を悲観してどうでもいいと思っているのに刹那喜びを感じてしまっている自分に嫌悪してしまいます。 でも楽しい気持ちは本心だし否定しきれない自分がいます。 そのようなことはありますか? また、ありましたら考えを聞かせてください。

どうも。内容は「楽しいと思うことがあるかどうか」ということでいいのでしょうか。それはあります。楽しい気持ちを否定はしません。ただそれと「どうでもよさ」はあまり関係がないと思っています。刹那的な喜びなんてものは、文字通りその瞬間だけのものであって、大枠の「人生どうでもいい」という態度と矛盾するものではないです。僕の場合、刹那的な喜びが人生に影響を与えたり何かを解決することはありません。せいぜい暇つぶし、一時しのぎ、お酒を飲むことと同じ。その程度の喜びや楽しさを感じることに対して、嫌悪感を抱いたり後ろめたくなったりはしません。

その瞬間、その時は楽しいと心から思い、笑みがこぼれてしまいます。

この部分は、僕は少し違います。顔が笑っていても、楽しいと心から思えている自信はありません。月並みな言い方をすると、笑っている自分を背後から冷めた目で見ている自分がいます。笑って楽しんでいる自分を否定はしませんが、ただそれが「心から」だと言う自信はないです。

43通目:どこにいてもしっくりこない

旅と映画、写真好きの京都住みです。「どこにいてもしっくりこない」のキーワードから流離ってこちらに辿り着きました。楽しく拝見させて頂きました。また更新楽しみにしています。

流離ってなんて読むんだろう。サスライだった。漢字使ったことねえ。旅と映画、写真好きって趣味が合いますねー、しかも京都住みですか、一緒ですねー。この一見趣味合う感じ、けっこうなかなか曲者です。よく「写真教えて」と言われることがあって、それはもちろんガチなやつではなく簡単な、被写界深度とかシャッタースピードとかいったカメラの使い方だったり、黄金比とか構図のとり方とかその段階の話なんだろうけど、僕は写真のことよくわかっていないんで人に教えられるレベルではありませんって断る。僕が撮ってる写真って多分全然よくないし、そもそも写真の善し悪しなんていまいちわからないんで。最近だと若き写真家が見る歪んだ世界 vol.15 佐伯慎亮 | VICE JAPANこれ凄い良かった。全然違うわー。

趣味についてはこの辺に書いています。

趣味が合いそうな人を無理やり遠ざけるつもりは毛頭ないんですが、合っても合わなくてもいいっていうのが持論で、合えば合ったらでもちろんよし。

「どこにいてもしっくりこない」は最近書いた日記ですね。

読みにくいなこれ。社会性ないよなーって話ですね。社会性や協調性って、我慢できることとか、他人を尊ぶとか、そういう話が結論なんだと思います。つまり余裕ないんですよ、他人を慮る余裕が。気軽に与えられる人って、やっぱ共感のハードルが低いんだと思いますね、正直。「共感する」とか「わかる」とか言ってる人は大抵なんにでも共感するしわかるって言ってるでしょ。そういうのはね、立派なスキルだと思いますよ。共感スキル。生まれ持ってたでしょ?みんなあなたみたいに恵まれていると思わないでほしいんだよなー。想像力を働かせましょう。さて、まあメッセージを送ってきてくれた人には全く関係ない話でした。

44通目:なりたい自分像

内カテゴリの記事が好きです。質問ですが、なりたい自分像のようなものはありますか? 以前のヒトコトへの回答で「逃げることしか考えていない」とありましたがそれはなりたい自分像はあるがそれに近づくための努力をしたくないから逃げているということなのでしょうか。それとも目標も理想の自分もないけどとりあえずのところ死ぬつもりはないからなるべく嫌なことをせずに生きていける方法を選んでいるということなのでしょうか。目標とか理想像が全くないとしたらそれはいつからなのでしょう。カワゾイさんに限らずみな、どこかのタイミングでそういうものを諦めたのに関わらず、元々そんなものなかったと錯覚しているだけではないのかなってたまに思います。私自身、前から根暗で人生におけるポジティブな目標など抱いたことないとずっと思っていたのですが最近「なかったことにしてるだけじゃ?」と思うことが増えたので聞いてみました。

理想の自分像は「全てを知る者」です。ファウスト博士ですね。博覧強記ってやつ。何を聞かれても答えられる、既に答えを出している、初めて聞いたことでも答えを導き出せる、そういう全知の存在。その目標に向けて努力している途中です。本を読んだり旅行したり考えたり文を書いたりするのは、全てその目標に繋がっています。科学分野は苦手なのでほぼ何もタッチしていませんが、いずれはその分野にも面白味を見いだせるかもしれない。

今回の質問はおそらく過去かどこかの段階で、あーしたいこーしたいとか、友達に声をかけられなかったとか、告白できなかったとか、勇気が出なかったとか、勉強や部活を続けられなかったとか、夢を諦めたとか、何かそういう失敗や挫折を抱えてのことだろう。

でもその失敗や挫折を認めるのはストレスだから、なかったことにしてしまっているだけなんじゃないか?という話だと思う。本気で思っていなかったとか、元々大した目標じゃなかったとか、言い訳を残しておくことでストレスから自分を守ろうとする。これ以前にまとめたセルフ・ハンディキャッピングの話ですね。

僕自身の態度はそこにも書いているように、だるいっていうことです。例えば「億万長者になりたい!」と思っても、その過程を考えるとめんどくさくてどうでもいい。世の中には本気で億万長者を目標に掲げて行動する人が山のようにいるけれど、僕が「億万長者になりたい!」と言うのは「ロックスターになりたい!」と言うのと同じ。「宇宙人になりたい!」とか。

それをもってきて「どこかのタイミングでそういうものを諦めただけ」とか言われても、いやー違うでしょ?と思う。全知の存在になりたいっていうのも、あまり公言できないささやかな目標です。具体的なアプローチも実にささやかで、全速力で勉強している人からすれば何もしていないのと同じ。人生は一度じゃないから、急がなくていい、自分のペースで歩んでいます。なりたい自分像はころころ変わっていいと思いますよ。人間の目標は最終的には神になることに行き着くので、なかなか1回目では到達できないと思います。

45通目:褒められたこと

なんか今まで生きてきて褒められた能力とか性格の良い点はありますか?

なんでこんなことを聞くのだろう。そしてこんなことを聞いてどうしたいのか、全然わからん。今まで生きてきて褒められたことは、そりゃあっただろうけど、そんなことはいちいち覚えていない。能力とか性格の良い点、褒めるっていう行為はよくやったとか、努力や成果に対して褒めるものじゃないだろうか。能力や性格の良い点って初めから備わっているもので、それ褒めるって言うのかな。優しい人に優しいって言うのは、黒色を黒色って言うだけのことで、当たり前のことだと思う。

人に評価された能力、性格っていう意味で言っているのだったら、そりゃあいくらでもある。他の人にはない特別な何かっていう意味なら、多分ない。あっても覚えていない。人からの評価なんて、もらっても嬉しいだけで大した意味はないから。

これを最近書いたけど、ここで言う褒めるは挨拶みたいなもんだから、社交スキルぐらいに考えよう。本気で褒めるのとはまた違う。

49通目:雄大その後

テラスハウスの雄大くん考察続編読みたいです

この内容ですね。

その後すぐに雄大くんはテラスハウス卒業しちゃって、それからどうなってるかわからない。だからその後の考察というものは存在しない。しようもない。twitterやInstagramがあるそうだから、頑張って追っかけることはできるかもしれないが、そんなに興味もなく、収穫もないだろう。相変わらずなんじゃないだろうか。

個人的には雄大以降のテラスハウスに全く面白味を感じられなくて、惰性で見ている感じ。普通の番組になってしまった。彼の卒業は非常に残念であった。でもそれが本来のテラスハウスの姿であり、僕みたいな人間は元から視聴者層として対象じゃなかったのだろう。

50通目:自意識過剰のやつ

これを読んだ人から長めの感想頂きました。転載不可になっていたんで概要だけ。

曰く、自意識過剰の人は、自分が自意識過剰であることに対しても自意識過剰になっているそうだ。他人の自意識過剰が痛くて見ていられなくて、自分がそうなっていないか過剰に気にするという。堂々巡りだな。

僕自身はどうだろう、ネタにしてしまうな。他人の自意識過剰も、自分の反応も全部「めっちゃおもろいやん」で片付けてしまう。そういうことをすると「真剣なのに!」「一生懸命なのに笑うな!」と怒られる。だからこそおもしろいのに。

あと、劣等感という言葉が出てきた。バカにされると傷つくから、防衛的な反応に出てしまうそうだ。自分の劣ると思われる部分を過剰に気にして、過剰に防衛、まさに自意識過剰。

僕が劣等感を持っていないかというと、言うまでもなく劣等感だらけだ。劣等感しかない。それは人と比べてというより、根源的に劣っている感覚のような気がする。人と比べる土台にまで立てていない、人に非ざることへの劣等感みたいなやつ。

僕自身は劣等感とどう向き合っているだろう。基本的には落ち込んでいるか、ネタにしている。それは人に「そんなことないよ」と慰められたいからではなく、ましてや人に傷つけられる前に先手を打って傷を浅くするためでもなく、ネタにしたほうがおもしろいかと思ってやっている。

実際におもしろいかというと、受け手による。劣っている姿を見せびらかして笑ってくれる人も多い。でも「自分はこんなに劣ってるんですよヒェッヒェッヒェ」と曝していったときに人が本気で引いていると、それはそれで僕が楽しかったりする。人を驚かせるのが楽しいのだろう。屈折してるな。でもそれがコミュニケーションの入り口だから。

人のことをバカにしているつもりはないんだけど、よく上から目線だとかバカにしていると怒られる。ネタにしているからか。自分がそうだから、人もネタにされたらおもしろいと勘違いしているのかもしれない。

そもそもバカにされて傷つくという感覚がよくわからない。バカにされたって見下されたって、あまり興味がない。バカにされることってそんなにつらいの?なぜ?自尊心が傷つけられるから?自尊心って自分がどう思うかであって、他人が自分をどう言おうが関係なくない?

52通目

ブログ結構面白かったです😆文才あると思います

こういうシンプルなのも実は意外と受け取っています。ありがとうございます。

53通目:シゾイド

はじめまして ふらっとこのブログに辿りついて何気なくいくつかのページを読みましたが、生き方だったり考えてることがめちゃくちゃ似てて、こんなこと考えながら生きてるの自分だけじゃないのだと、なんだかほっとしました笑。

なぜかホッとされる案件。

主さんも私と同じく現代文得意ピープルなのですね。少ない材料からですが、もしかすると、私達が持っているような生きづらい思考パターンには後天的な性格だけではなく、先天的な要因(脳)も関係しているのかもしれませんね。

現代文得意うんぬんはこの話。

こうなってくると、人間の個性って所詮仕組みに左右されるだけのパターンでしかないようで、ちょっと切ないです。我々の悩んだことや感情、痛みなんかも、プログラムのバグと大差ないと思うと。

最近知った心理系の言葉にスキゾイドというものがあり、その特徴がかなり自分に合致していたので、主さんもそれかも?(違うかも)

ご明答。このブログではシゾイドについて何度も取り上げています。

こんな風に自分の人格を考察してみたりカテゴライズしたところで、生きることのしんどさに変わりはありませんが、そうやって自分の思考を理解したり、主さんのような自分と似た方を見るとちょこっとだけ前向きになれる気がします。 なのでこれからもたまーにこちらのブログを覗きにこようと思います。 人生、長いっすよね、、お互い頑張りましょー

A.Y

前向きになれるようなことを書いているつもりではないけれど、それで前向きになれるんだったらいいですね。人生が長いとは、僕は思ってません。気楽に構えていればすぐ終わりますよ。

54通目:どこにいてもしっくりこない

どこにいてもしっくりこないの文章が自分の言いたいことすぎて、それだけなんですけど、なんだかスッキリしました。ありがとうございます。

スッキリされているようです。「どこにいてもしっくりこないの文章」とはこれですね。

これはコミュニティとか共同作業について考えていたときの上手くいかなさ具合について嘆いたやつ。コンセプトとか賛同とか、はあなにそれくえんの??っていう残念感、あきらめ。世の中で人の集まるコンテンツに見向きもできない、あの違和感。あんなくだらないものの何がおもしろいんじゃーっていうやつをマイルドに書いた。人と人が関わろうとすると、自然にマイルドにならざるを得なくて、偏れば結局一人だけのものになってしまいがち。

55通目:掲載不可

内容は掲載不可だが、2018年にいただいたメッセージで、彼女ができた話についての感想だった。

その後春に結婚しました。

56通目:何をや

頑張れー。

何をやろ。

57通目:どれを読んで送ってくれたのだろう?

人と違うことで家族からも排除の対象にされて生きてきました。その自分の本質を自分で守ることを覚えて今は絶対に最後まで守り続ける決心をしたところです。このブログを目にできる現代に生まれたこと、そして発信した人の存在に助けられて今生きていると思います。

人と違うことに関して書いたことって、どれだろう。このあたりか。すごく前に書いたやつだな。

人と違うとかどうとか、今ほど気にしなくてよくなった時代はないだろう。現代は情報が行き届いてきたから、過去に比べてあまり干渉を受けなくなった。理解も広まった。ただこういうのは元々気にしなければいいだけの話で、仮に何かを言われようがされようが、無視しておけばよい。自分には関係ないと。犬が吠えているとか、虫が鳴いていると思えばいい。そんなことに怒ったり傷ついたりするのは不毛だ。なるべく害を被らないように逃げることは大切です。

僕はあまり、人に受け入れられたいとか認められたいとか思わなくなったので、そういう気持ちがなければ快適だと思います。だいたいのことは、もうどうでもいいんです。

59通目:今の仕事について

いつもブログ楽しみにしております。一つ質問なのですが、目標なくやってきたとの事ですが、今やられているお店は割と今までのスキルがいかせる仕事をされてるのでしょうか??

「目標なくやってきた」は、ここに書いた話。

今の仕事に、今までつちかったスキルが活かされているかという質問。まず、僕にはスキルがないから活かせるようなものはない。今までにスキルが身につくようなことは何一つ行ってこなかったと思う。なんだろう、強いて言えば、外国人が買いに来たときに英語で2,3時間会話しても平気、というぐらい。でもこれは仕事のスキルには程遠い。自分が今まで学んだことって全部サワリの部分だから、仕事になるレベルではない。

だいたい自分は、全く新しいことをしたいと思うことが多い。今までの経験を活かしたり、スキルを積み上げていったりすることに興味がない。同じことばかりやっていると飽きるから、今まで全然知らなかったようなこと、やらなかった分野に足を踏み入れて遊ぶ感覚。もはや仕事ではないなー、やっぱり本質的に仕事嫌いなんですよ。勉強も嫌い。ダメな言い草。

そして今までやらなかったこと、その最前線が今はレコード。僕は楽器できないし、音楽もくわしくない。レコードなんて当然聴いたことも触ったこともなかった。たまたま手に入るルートがあり、今の店で売っている。自分でも聴いてみようと思い、メルカリでプレーヤーを買った。30年以上前の製品を5,000円ほどで。レコードを集めている友人がいて、開店祝いにミキサーをもらった。音楽はいまだによくわからないけれど、なんとなく触れてみるとおもしろいですよ。そんな感じで最近は毎日レコードばかり聴いています。

61通目:婚活の話

婚活のブログ、ここまできちんとマッチングが言語化されているのを初めて読みました。悩んでたことがわかりやすく整理されていてとても感動しました。婚活するときに何度も読み返そうと思います。

婚活のブログと言われてしまった。これのことです。

奥さんに聞いた話だと、婚活がうまくいかない系の相談って大体僕が書いたような「選ばれる人間になるために、自分の市場価値を上げろ」っていう結論に収束するらしい。ここのポイントは、「自分から見て結婚したい自分」になるのではなく「相手が結婚したい自分」になること。よく「私だったら絶対自分を選ぶのに」といった自信満々の声を見かけると思うけれど、あなたを選ぶのはあなたではない、という点が肝心だと思います。「他者から見て」、は「自分から見て」と全然違うから、他人が評価する点をしっかり把握しましょう。努力してまで結婚したくないっていう人はあきらめましょう。

62通目:前の仕事について

59通目かなんかで仕事について質問したものです。またまた質問なんですが以前、建設関係?かなんかの営業をされていたとの事ですがもし海外にいかなかったら続けていましたか?また興味のない仕事でも割りきって仕事できていましたか??

59通目の内容はこちら。参考までに。

で、僕の前職についてはかなり前にまとめてある。

もし海外に行かなかったら続けていたかどうか。海外云々よりも、とにかく辞めたかったという気持ちが先行していたから、転職していたか、もしくは異動願いを出していたと思う。その先何年続いたかはわからない。

僕が辞めてだいぶ経ってから、電通案件以降だったかな、働き方改革などというものが始まり、会社のパソコンは8時に強制終了されるようなったそうだ。僕が働いていた頃は、2時3時まで残業して(残業代はない)終電がなくなりタクシーで帰る日もめずらしくなかったから、会社は大きく変わったんだと思う。

それでも辞めてよかったと思う。辞めてなくてもそれなりの人生はあったかもしれないが、今のほうがいいと断言できる。

興味のない仕事でも割りきって仕事できていたか。興味のある仕事なんてないから、やっている限りはそうなんじゃないかな。遊びでやることしか興味持てないです。仕事観についても、前に何度か書いた気がする。

64通目:自己肯定感とか

こんにちは、毎回興味深く読ませていただいています。一言ではなく三つ質問です

過去の記事を見返したりしますか

かなり多くの記事を長い期間投稿していますが、見返したりする事はあるんでしょうか?
ああ、あの時はこんな事していたなとか、こんな気持ちだったんだなとか
どうでしょうか?また逆に消したくなるような恥ずかしくなった記事とかありますか?
教えてください

過去の内容は、ときどき読み返します。「この話前に書いたっけ?」と思って検索することが多いです。一度書いたことを忘れてしまうから。消したくなるような恥ずかしい内容は覚えていないけれど、表現が過激だとか警告が来て消したものはあります。消したくなると思うことは、多々あったようです。

ブログを消そうと思うこと - Letter from Kyoto

自己肯定感について

最近自己肯定感について考えています。
川添さんは幼い時から周りと比べると変わっていたという風に記事を書かれていますよね?
他者と自分を比較しての差異が嫌になる事はなかったんでしょうか?
ブログから伝わってくるのは肯定も否定もないただただ冷静に周りを見ているドライな人間像です。もし考えた事や悩んだ事があるなら聞きたいです。
どうやって自分を肯定しているのかもしくはそういうのは考えた事はない、どうでしょうか?

他者と自分を比較して差異が嫌になる事、あったかな?幼い頃は、差異が嫌というより、相手を理解できないこと、自分が理解されないことが嫌だった。誰ともわかりあえないと、自分がこの世でたった一人である感覚が強く、それがつらかった。外国で自分一人だけ言葉が通じないことを想像してもらうとわかりやすい。だから周りを理解しようとしたし、自分をうまく説明しようとした。でもそのうちあきらめた。

自己肯定感について、僕の意見はまず、自己肯定感ってなんなのかよくわからない、意識したことがないというのが最初の意見です。一度臨床心理士の知り合いに「自己肯定感ってなんなの?」と聞いたことがあって「自信とか自己評価のこと」と返ってきた。「あつかましい人は大丈夫」とも言われた。

自己肯定感の話でよく言うのが、「自己肯定感って必要なの?」という疑問。僕は自分に自信なんてなく、肯定もしていない。どちらかというと自己否定側。自己肯定感なんていうフワフワしたものが、なんで重要視されるのかがわからない。誰か教えて下さい。あったらなんか役に立つの?自己肯定感という言葉に囚われているだけでは?

毎日繰り返し積み重ねている事

毎日欠かさずしている事はありますか。
一つ前の質問の肯定感に関わってくるのですが、最近自分は毎日積み上げているものがあればそれは強力に自分を支えてくれる自信になるのではという考えが浮かんでいます。
筋トレだったり走る事だったりレコードを磨くことだったり、最初は意識していてけれど気づくと毎日行っている習慣やそれをすることでの心境や生活の変化を教えてください

ないですね。習慣について、長々と書いたことがあるから興味があったら読んでみてください。

習慣について - Letter from Kyoto

自分はそもそも、日々を生きていくのに肯定感や自信は必要ないと思っている、という話はさっき書いた通りです。肯定感や自信って、あったらなんか意味あるんですか?

また日本人に生まれるとどうしても大多数の人は周りとの比較で自分を測ってしまいがちだと思っているのですが。そういった比較するヒエラルキーから抜け出すにはどうすれば自分を確立して貫き通した生き方ができると思いますか? すいません質問が4つになってしまいました。

あまり参考にならないかもしれないけれど、僕が幼い頃からやってきたのは、自分と向き合うこと。自分は何が好きで何が嫌いか、何がしたいのか、何をしたくないのか、どういう性格なのか、どういう人物なのか。自分を俯瞰的に見る。自分を観察して、考察する。人からの評価や判断、基準ではなく、自分で自分と向き合い、理解する。自分以上に自分を理解できる人はいないと思っています。自分が自分の秘書になるような感じ。

どうやるか。僕がやってきたことの一つは、こうやって文字に起こすこと。それを自ら読み返す。正直に書くのがコツです。あとは人に話すこと。自分語りの壁役になってもらう。相手が許せば。

この自己検証は、他者を理解することにも応用できるから、人を知る上でも使ってみるといいと思います。ただ他者は自分ではないから、自分と根本的に違うため形式として理解できる程度にとどまります。

65通目:承認欲求は何故生まれた

なぜ人は承認を求めるのか、という2016年の記事を読み、感心しました。自分は、「承認欲求は何故生まれた」を調べていたのですが、その答えと更なる知識をあなたの記事から得ました。感謝します。Osaka 30歳女性

2016年の記事とはこちら。

「何故生まれた」というのはそういう欲求がどこから発生するのかということだろう。答えかどうかわからないけれど、僕はそうじゃないかという説を調べただけ。それにしても、5年前か。さすがに内容が古い。当時流行していた「嫌われる勇気」とアドラー心理学どうこうに釣られてこういう話題が盛り上がっていた。「嫌われる勇気」は結局読んでいない。承認欲求の話とは、実はあまり関係ないかもしれない。

この話とは直接関係ないけれど、最近「性と愛の脳科学」についての話を読んで、人が暮らす上ではつくづくホルモンとの付き合い方が大事だなーと思った。

ホルモン、なんていうの?脳内物質?神経伝達物質だって。この話は、欲とか愛とかってのはだいたい神経伝達物質の作用ですというやつ。人間の本能とか、愛情とか、感情と呼べるものは、化学物質によってもたらされる脳の信号に過ぎない。

だから、人が快適な生活を送るためには、自らの理性でもって、いかにホルモンの作用を導くか、コントロールするかにかかっている。分泌のおもむくままに行動する人は、それはそれでいいのかもしれない。けれど、悩んだり苦しんだりするんだったら、そういう道がある。仏教とかがずっとやってきたのがそれじゃないのかな。

こういうことは割と、子供の頃から意識していたほうが楽に生きられるかもしれない。例えば欲求だったり不安だったりがあれば、その原因を探る。自分はどういうときに、どういうホルモンが分泌されて、何を望んでいるのか。何が足りないのか。抑制するためには、どこにどう流していけばいいのか、満たすためには何が必要なのか。自らと向き合っていくことで、平穏な日常が保たれる、そんな気がする。

66通目:寂しさとか、

寂しさとか、外に対して自分を発信していくことについて質問です。
いつも更新楽しみにブログ読ませてもらっています。 生きてきて寂しさを感じる事はありましたか?また寂しさについてどう思うか聞きたいです。 よくブログを拝見すると外に写真を撮りに行ったり、旅行を一人でしています。 自分はインドア派で一人で外出てもつまらないしなとか感じて、基本一人で外出してもうまく時間を潰せません。隣に誰かいたり複数人だったら感想を共有できたり、話相手がいればどんどん外で遊んでも大丈夫です。 でもその反動で一人で外に出ると寂しさとか何も無さを感じてしまいます。奇麗な景色や風景を見つけてもすぐに伝えられないし、分かち合えません。
でも逆にだからこそ一人で外に飛び出し知らない所、人と交わるのかなとも考えたりします。そんな風なこと考えたことありますか?
また上に続くのですが一人だからこそ外に情報を伝えるためにブログとか書いたりできるのでしょうか? 実は自分は何度かブログを始めたりしているのですが長く続いた試しがありません。始めると公開されているものだから定期的に更新しなきゃとか、観念に囚われて最初の気持ちが冷めてしまいます。
もう長い期間ブログをやっているのでライフワークのひとつだと思うのですが何か意見や考えがあれば書いて欲しいです。これからも更新楽しみにしています。

まず、僕の「寂しさ」について2015年に書いているから貼っておきます。

今これを読むと、どうなんだろう。とりあえず置いときます。

一人で行動することについて。例えば旅行は、僕は一人で行くことも数人で行くこともあり、それぞれ楽しみ方が異なる。インドア派と書かれているけれど、もし家で一人で過ごす楽しさを知っているのだとしたら、それを外に持っていくのが一人旅行だったり、一人の外出。それだけ。家と外の違いは、やることが違うだけで、楽しみ方は変わらない。一人で行動するときは、共有したり分かち合うのが目的ではないから。

ブログに書いたりしているのは、記録ですね。書き残しておきたいという気持ち。また自分の感想や思いをどこかで消化したいという気持ちもある。だからブログに書く。手帖でも日記帳でもいいんだけど、オープンな場所でないとちゃんとした言葉で書かないからブログに書く。一人とか数人とかは関係ない。例えば、人と行った旅行の話も書いている。

結婚してからは奥さんに話すことによって、消化して満足することが多くなった。書き残すまでもないや、と思って書かなくなったことも多い。これは僕が体験や考え方を一方的に話すだけで、人との共有や分かち合うこととは違う。一方的な消化。相手は体験も同意もしておらず、興味なかったり聞き流してくれる。それで構わない。壁打ちというよりも、灯籠を川に流すような感じに近い。

ブログが続かないのは単純に、書きたいことがないからじゃないのかな?もしくは書くことが大変で、そのハードルを超えてまで書くに至らないとか。

ここまで書いて、冒頭の寂しさの話に戻ります。寂しさを感じる事はあるか、という質問について。子供の頃は結構あったと思う。それ以降はあまりないんじゃないかなー。退屈とか暇な状態を「寂しい」と言うんだったら当てはまるかもしれないけれど、それはどうやら違うらしい。

僕が思うに、「寂しい」というのは感情や状態ではなく、人なんですよね。寂しい人。寂しい人だから、寂しいと感じる。寂しい人だから、一人でいる他人を見ても、寂しいと感じる。僕は寂しい人じゃないから、一人でいても寂しいと感じないんだと思う。「寂しい」は状態ではなく「人」に付属する要素。

「寂しい人」は一人であろうと、誰かと一緒に居ようと、本質的に寂しいんですよ。ただ人と居るとその瞬間は寂しさが紛れるというだけで、本質的に「寂しい人間」であることには変わりない。

じゃあその「寂しい人」「寂しい人間」ってなんなんだろうって話ですよね。「寂しい人」は、外から見ると要するに「一人じゃ不安な人」「常に誰かと居たい人」ということになる。なぜ「一人じゃ不安」なのか。わかんねー自信がないとかそういうの?寄る辺ないとか。でも僕だって、無人島で半年暮せば寂しいです。退屈で、人恋しくなるだろうな。だから結局僕もそのときは寂しい人。でも一週間も人と居れば、あと半年は一人で平気となるかもしれない。所詮程度の問題じゃないですか?

67通目:遺伝、ブログを見た人と話す

先週、寂しさについて質問したものです。
すぐに回答の記事を書いていただけたのが嬉しかったのでまた気になったことを質問します。質問魔ですいません。記事を読んでると聞きたいことが浮かんできちゃいます。

親と自分の共通項とか性格の遺伝について

2ちゃんねるを作ったひろゆきさんが子供が出来ると良いことの一つとして。自分の性格や気質が遺伝かどうか見分けられるという話をしていました。ひろゆきさん自身は頻繁に遅刻する体質らしく、もし自分の子供も同じように遅刻を繰り返すようであればそれは自分が悪いのではなく遺伝で血の問題だという旨の話をしていました。
質問している自分も年を重ねるに連れて全然仲が良くもなく接点もほどんどなかったのに趣味嗜好が父親とそっくりになっているなとふと思ったりします。
ひろゆきさんの例では遺伝のせいに出来る事柄もあるという文脈ですが、 ブログで自分の考えを書かれていますが、自分の考え方や嗜好が親と似ているなとか遺伝で似ていると思ったことはありますか?

ひろゆきのYouTubeかなんかを見てるんですね。僕は最近は見ていないけれど、4,5年前はよく見ていた。子供を作ると遅刻の言い訳ができるって、そこまでしなくていいかなーと思う。

自分の考え方や嗜好は、遺伝よりも習慣だったり、環境要因で親と似ているところはあります。外見とか、身体的な特徴や能力は遺伝だけど、趣味嗜好は遺伝というより単純に影響を受けた。うちは父親がマルキシストで本を読むし、母親が映画好きで旅行も好き。僕の趣味嗜好とは、中身は全然違うけれど、大枠で影響を受けたと思う。当然全く影響を受けていないところもある。そもそも遺伝がどうとかって、あまり考えたことないなー。

自分の内面を見られた上で人と接することについて

自分は所属するコミュニティによって自分の振る舞いを変えています。 それはワザとというよりも、例えば学校で先生への態度と同級生の態度は大きく異なるように対する人に合わせてという感じです。
ブログで内面や考えを具体的に書いていますが、このブログを読んだ前提で人と接するのは恥ずかしかったりむず痒くなったり感じたことはありますか?
また周りの友人や知り合いはブログを書いていることを知っているのか、またプライベートでもブログを知っている知り合いとの間でブログで取り上げたトピックについて話題が出たりするのかとかも知りたいです。
長文失礼しました。

相手によって態度を変えるというのは、この話に近いのかな?全然違うかもしれないけど、外面の話。

ブログを読んだ人と話すのは、気が楽です。あれこれ説明する手間が省けるから。でもそういう相手と話すことって滅多にない。周りで知っている人はいるけれど、ほとんどの人は知らないか、知っていても興味ないし読んでいない。ごく一部の人だけが、ごくまれに気になった内容だけ目を通すぐらい。話題になることはほとんどない。

これを教えるときって、だいたい自分が知っていることだったりまとめたことを口頭で説明するのがめんどくさくて、ここに書いたよって伝えることが多い。だからそれっきりで終わることがほとんど。

たまにブログ経由で知り合ったり、偶然知り合った人がブログを読んでいたということがあって、そのときは恥ずかしいと言うより「で、どう思った?」ということが気になる。何を考えたのか。僕はこの場で問題提起っていうわけではないけれど、議論を投げかけたり意見を伺っているつもり。だから、理想としてはバコンとクリーンヒット打ち返してほしい。自分はどう思う、あなたの意見は間違っている、というように議論が深まれば、問を投げかけた意味があったなーと一番思う。

68通目:「まじめな会社員」を読んで

こんにちは。いつも興味深く拝読させていただいております。突然ですが、冬野梅子さんという方の漫画を読んで(無料の範囲内でいいので)どう思われるのか、感想をお聞きしてみたいです。よろしくお願いします。

冬野梅子さんの漫画とは、これのことだろう。

読んでどう思ったか、感想を聞きたいそうだ。

そうだなーまず、この主人公は人からどう見られるか気にし過ぎだなー。女社会にはそういうのあるのかな?人からどう見られるか気にしないといけない、村社会的な何か。自分にはあまりそういうのがよくわからない。というか人の顔色伺うのめんどくさいから、どうでもいいと思ってしまう。それについて結構がんばっているこの漫画の主人公は、忙しいなーと思う。

テンプレのコピペで会話するのは、僕のメルカリの使い方と同じだな。事務作業。

1話の終わり方は、陰険だなー。なんでわざわざこういう話作りたがるんだろ。こういうの全然おもしろいと思わない。こういう愚か者をあざ笑う話とか、優越感に浸ってバカにするような下劣な話、好きな人いるよな。

既視感あると思ったら、「普通の人でいいのに!」の人なのね。

これは当時読んだ。性格悪いなーとしか思わなかった。なんだろう、人を見下して喜ぶ質の悪さ?根底にあるのは差別意識かな?頭悪い人とかブサイクをこき下ろすメンタル。芸能ニュースとかワイドショーとか、女性週刊誌とか好きな人は好きかもしれない。僕の感想としては、不健全、猥褻。

70通目:同性

同性を恋愛対象としてみれますか?

恋愛対象として見れるのかはわからないけど、見たことはないです。そういう話をかつて人としたことがあって、恋愛うんぬん以前にまず男性に性的魅力を感じたことがなく、恋愛関係になるのは難しいのかなと思っています。

72通目:大人になってからの友人

歳を重ねるにつれて虚しさを感じたり、孤独を感じる事が増えてきた。
何度かこの「ひとことどうぞ」に投稿しているのですが、また投稿しちゃいます。

24歳男です。社会に出て、仕事柄多くの人と会ったり知り合ったりするのですが、学生の時とは違い誰とも腹を割って話して仲良くなれていないような気がしています。
その気持ちって年々強くなっていて、例えば小学生の時は無垢に他人と積極的に関わり遊ぶことが心から楽しく充足感を感じていたと思うのですが、成長するにつれ進学するにつれ新しく仲を深める友人というのはどんどん少なくなり、社会人になってからは親しくなれたと思う人は誰もいません。

職場の人の「名前」「最寄り駅」ぐらいは知っていますが、それ以外に何も知らずただ一緒に仕事を進めている”だけ”という関係性なんです。
ここ数年ずっと話す人たち皆んな、名前は知っていますがそれ以外何も知りません。 本当に人っていうのがただの「記号」であり「情報」になってるんです。

違う目線で見ると、自分も誰にも心を開いていないんですよね。 進んで自分から情報を開示したりしませんし、積極的に他人と関わろうともしていません。
もう近代化が進んで合理的になっている現代で、みんな同じようだとも思うのですが、そうやって生活していると自分がプラスチックであるような非常に無機質な存在に感じます。

幼い時はそんなことありませんでした。新鮮なフルーツのような果汁をたくさん秘めていていつも新鮮で目が輝いていたように思います。
その時の記憶や感覚が残っているからこそ、成長してしまってこの現状がとてつもなくキツく不自然に感じています。
それを寂しさや孤独と書いたのですが、川添さんは大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?

私の性格上、どっちかというと1人で本読んだり物思いに耽ってるのが好きなんですけど、それでもこの感じている他人との関わり合いのギャップに酷く寂しさを感じ、年々酷くなっているように思います。まだ20代なのでこの先人生まだまだ長い、これはキツイなと思い、勢いで書かせてもらいました。

何度かもらってるそうです。どの投稿でしょうね。

今回の内容は「大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?」という質問だった。子供の頃とは違う、醒めた人間関係に物足りなさを感じている様子。なるほど、確かに仕事を通じて知り合ったり関わったりする人は、どうしてもビジネスフィルターがかかる。僕も仕事を通じて知り合った人と、プライベートな友人になるってことはほとんどなかった。同じ職場の人だって、同期入社だった人も、今は全く連絡取っていない。

僕がわからないのは、大人になってからの人間関係が無味乾燥としていて寂しいと言いつつ、なぜ自らその状況を維持しているのか。「心を開かず積極的に人と関わらないから、かつてのような人間関係を築けない」という原因が分かりきっているなら、打開すればいいのに、それをやらない。なんでだろう?

職場の人間関係がめんどくさくなるなら、遊びや趣味の場、交流の場に参加するでもいい。スポーツでも音楽でも芸術でも習い事でも、なんなら読書会のような社会人サークルでもいいし英会話スクールみたいなのもある。休日のうち何時間でもそういう時間に割り当てれば、その孤独や寂しさは解消できるように思うんだけど。

僕の周りでは、社会人になってからフットサルをやっている人が多かった。バーに通って店の人や客同士で交流している人もいた。トークイベントや映画館、舞台に通って共通の趣味の人を見つけている人もいた。キャバクラなんかに行ってる人もいた。今だったらツイッターやアプリを通じても交流相手を見つけやすい。

そういう何らかの活動に参加したり、関わる相手を見つけたりしたくなければ、現状に甘んじるしかない。寂しかろうと孤独であろうと、それが「行動しないという」自分の選択の結果なのだから、納得行くはず。

僕自身の話。僕は学生時代の友人とも、ほとんど連絡をとっていない。数少ない人と、連絡するとしても年に一回かそのぐらい。だから「大人になってからの人付き合い」という変化はあまりないと思う。かつての友人との縁は、それぞれのタイミングで接点がなくなり途切れた。

大学を卒業して社会人になってからも、以前とあまり変わらなかった。大人になったことがきっかけで、人間関係が無味乾燥になっていった覚えはない。腹を割って話すとか、自己開示とか、普段から平気でやっているほうだと思う。だだ自分の場合はどちらかというと、他人と関わるためではなく普段からそうなだけで、何事も一人でやることが多い。

自分がやりたいことはだいたい一人でやる。一緒にやる人がいたら声をかける。けっこう気軽に声をかける。

人はいてもいなくてもいい、人付き合いそのものが楽しいってことはそもそもあまりない、大人になる前後で大した変化もない、寂しいとか孤独とか思わないというのが僕の回答になります。

73通目:名前をつけて保存、上書き保存

私は最近恋をしてあまり上手くいっていないのですが、好きな人のことが忘れられません。 筆者さんにも今まで知り合った人で忘れられずふとあの人今何をしているかなと思いを馳せる人はいますか? また私は男なのですが、男は出会った人を新規保存するのに対し、女性は上書き保存をする。と友人に話されなるほどと思いました。 筆者さんは恋愛に対してどのようなタイプですか?

なんというか、この話は段階によって全然違う話になってくるなー。「恋をして」「上手くいってない」「好きな人」とあるけれど、これは相手と付き合えたのか、それとも一方的なのかで話は全く異なってくる。

よく聞くのは「出会った人を新規保存」ではなく、「付き合った人との思い出を名前をつけて保存」するのが男性、「新しい彼氏との思い出で上書き保存するのが女性」という話。出会った人、知り合った人ではなく、付き合った人じゃないかな。

メッセージを送ってくれた人は、付き合った人の話をしているのだろうか?それとも一方的に恋心をいだいてるだけなのか?文面からは読み取れない。僕は付き合った人なら、別れた後も連絡取ったり遊んだりしていた。ふと今何をしているかな?と思うことは、ほとんどないかなー。あったら「最近どうしてる?」って聞く。でもそれは付き合っていた人に限らず、長く連絡を取ってない友人も同じ。

知り合った、出会っただけの人は、まず全く覚えてない。友人ぐらいまでいけば覚えている。男性であれ女性であれ、友人であれ恋愛であれ、ある程度の関係を築いた相手なら、思いを馳せることもある。そうでない相手、付き合ってもなければ友人でもないよく知らない人のことは、全然記憶に残っていない。

あと名前をつけて保存、上書き保存についても、男女はあまり関係ないと思う。常に「彼氏・彼女」がいて、「彼氏・彼女」という器が大事で、中身は何でもいい、代替可能、一定の条件を満たしてそばに居てくれる人なら誰でもいいっていう人が、上書き保存になるんじゃないかなー。相手が好きというより、ただ恋愛がしたいだけの人。

友人にしても恋人にしても、その時その場だけの都合のいい関係ではなく、相手個人と向き合っていれば、一人ひとりは全く別人なんだから上書き保存はできない気がする。誰でもよかった相手のことは必然的に上書き保存になるのだろう。

74通目:「好き」ってなんなのか

こないだ恋の相談で男と女は思い出の保存方法が違うって送ったものです 笑 少しあの質問を詳しく書くと、元々仲の良い友達で自分が好きになりました。向こうは友達以上とは思ってくれていなくて、結局フラれてしまいもう2人きりでは会わない方がいいとも言われてしまいました。

まあショックだったんですが、これまでの自分のそういう恋愛を振り返った時に告白されて、ごめんなさいと返事をした子もいたんですね。自分がフラれて傷ついて初めて、自分も相手を傷つけたことがあるんだなと言うふうに自覚しました。そしてその反面誰かから「好き」という気持ちを抱いてもらえていたんだなということもはっきり理解したんです。

最近フラれた子にはかなり思い入れがあって、結構胸にキテたんですが自分も誰かにそう思ってもらえていたんだなと思ったら凄く恵まれていて、幸せだったなと感じました。なんか両思いになるって凄く難しくて、そして両思いになることってすごいことなんだなと思いました。お互い相手の事が好きなんですよ、凄くないですか。すごい確率じゃないですか。素敵ですね。

質問しようと思ってたんですけど「ヒトコト」なので徒然なるままに書きます。もうその子以上に親しい異性とか良いなと思う異性いなくて、誰かイイ人いないかなって思うんですけど、自分のタイプって全然共通点とかないんですよ。顔とかではなく、なんか人と知り合っていくとなんか「煌めき」みたいなものが見える瞬間があるんです。それがキュンとする仕草とかそういう事だと思うんですけど、自分の場合は話す内容だったり、その子の考え方とかかな、そういう一瞬があって好きになっちゃんですよね。

その「煌めき」を見つけたいです。なので一目惚れとかないんですよ、少し話してある程度お互いのことを知っていく中でキラって見える瞬間があります。そんな人と出会えるようにもっと積極的に人と関わっていこうと思いました。おわり

掲載可になっていたので全文載せています。「こないだ恋の相談」というのは前回です。

こういう形での告白というのは、したことないですね。僕はだいたいいつも、事前にある程度当たりをつけていくというか。プロポーズとかもそうだけど、断られるかもしれない段階で踏み切ることをしないです。

「好き」とか「付き合う」とか「告白」って、僕は全然ピンとこなくて、好意の度合いがあるだけで、明確な段階はないんじゃないかと思っています。互いに好意を持っているだけなら、よくあるでしょう。そのお互いの好意の度合いがどこまで上がるかによって、親密度が変わっていきます。自分もしくは相手が「ここまでかな」「これ以上は親しくなれないな」と思ったらそれ以上関係は進まなくなる。

人によっては、初めから「友達以上は無理と」線引することもあると思います。見極めが肝心かなと思います。僕の中にも割と明確な基準があって、「この人おもしろいな」と思う相手に惹かれます。同時に相手が自分のことを面白がってくれる人でないと、成り立たないと思っています。自分が面白がってもらえないな、この人には通用しないな、と思ったらさっさとあきらめます。もしくは相手をおもしろいと思ったけれど、そんなでもなかったなとわかったら気持ちは冷めます。おもしろくないと思った人とは何も起こらない。

「胸に来る」とか「キラメキ」と書かれてますが、その基準というか、正体は何なのだろう。好きになる相手の「話す内容」や「考え方」に一定の枠はあるのか。言うなればストライクゾーンですが、その枠組みがはっきりしていると、相手は見つけやすいですね。

相手が見つかれば、あとは自分が好かれる対象かどうか。無理だったり違うと思ったら、僕はさっさとあきらめます。はてなやTwitterでも「告ハラ」という言葉を目にしましたが、そうならないためにも自分が相手に好かれる対象かどうかの見極めは、けっこう大事にしてますね。一方的な好意は、かえって迷惑なことのほうが多いから。

75通目:先延ばし癖

僕は夏休みの宿題とかを最後の最後までやらない系男子です。筆者さんは夏休みの宿題って計画的に進められてましたか?今は社会人になったのですが、相変わらずやるべき事を先延ばしにする癖が抜けず自分で自分の首を絞めて苦しんでいます。その事を一般的に「先延ばし癖」というそうです。筆者さんはどんなタイプですか?

夏休みの宿題は、そのときどきで違ったかなー。中盤で全部やってしまったこともあり、夏休みが終わってからやったこともあった。最後の日に残った分をやったこともあったと思う。最後までやらずに出さないこともあった。計画は立てないです。先延ばしでもない。夏休みの宿題なんて本当にどうでもいいと思っていた。

先延ばしにする癖はないですね。大事なことはどちらかというと早めに手を付けて、手離れさせてしまう。手元にあると鬱陶しいから片付けてしまう。もしくはその存在を完全に忘れてしまうから、忘れる前に終わらせる。

夏休みの宿題みたいにどうでもいいことは、そのときそのときでてきとうに処理してます。

77通目:旅行の宿泊先について

タイ旅行時は渡航前に宿の予約とっていますか?それとも現地でも予約していますか? 旅行期間や同行者の有無によっても違うと思いますがよかったら教えてください。

自分も来月半ばに一週間ほど一人でタイ旅行するつもりですが、まだ宿の予約を全くしていません。さすがに到着日は予約していくつもりですが、以降の日程分の予約を事前とるべきか迷っています。 事前にスケジュールを立てるのが好きでなく、国内をぶらぶら一人で旅行するときは基本当日にブッキングドットコムとかで予約を取っています。だいたい安いビシホかゲストハウスです。 子供の頃に家族で海外旅行したことはありますが、自分で飛行機なり宿なり手配して海外に行くのは今回が初めてなので参考にできればと思い、質問した次第です。

ちなみに向こうでやることは、屋台のご飯食べてマッサージ受けて、いい感じの海があれば行きたいなくらいしかまだ考えていないです。

旅行の際、基本的には事前に泊まるところを予約して行きます。例外的に、予約して行かなかったことも何度かあります。例えば、滞在日数が定まっていなかったとき、滞在地域を決めていないとき、事前予約ができないときなどです。長期旅行や周遊旅行をしているときは、宿泊先を決めずに移動することが多かったです。

短期旅行だと、旅行中に宿を探したり予約したり移動するのがめんどくさいと感じてしまいます。 モロッコのケニトラというところを訪れたときは、夜の9時頃から道端でホテルがあるエリアを聞き、ホテルに入っては値段を聞き、もっと安いホテルの場所を聞き、右往左往していました。アラビア語とフランス語が公用語で、英語がほとんど通じず大変でした。泊まった部屋も今までで最も粗末な部屋で、ベッドのみ、トイレ共用、シャワー無し、他に泊まっている人はいませんでした。そういう経験は印象に残るけれど、できれば避けたいです。そういうのを含めて楽しみたいのなら、事前予約はしない方がいいですね。

タイはいろんなところに宿があるので、予約まではしなくても候補ぐらい用意しておけば安心かもしれません。

マッサージや屋台もどこにでもあると思います。海はバンコクから近場だとパタヤか、あとは離島が行きやすいでしょうか。

78通目:ブログについての基本的な質問

ブログを始めたキッカケって何ですか?
人に読んでもらえるように気をつけてることとかありますか?
ブログを書くモチベーションは?

珍しくテンプレっぽい質問が来た。はてなブログはβテストからで、はてなダイアリーなら2006年とかそれぐらいになる。MovableTypeを使っていたのも2006年とかそれぐらいか。はてなダイアリーを始めたのは、当時ウェブ進化論を読んだことがきっかけで、ブログそのものを始めたのは、当時新しいものとして注目されていたから使ってみたくなった。「ウェブログで始める簡単スペシャルWebサイト」という本が大学の図書館に置いてあり、借りて読みながら設定したことを覚えている。

人に読んでもらえるように気をつけていることか。Twitterに放流するぐらいしかやってないんじゃないか。ブックマークが2個以上ついたらセルフブックマークするとか、いまだにやってるけどそもそも2個以上つくことが滅多にない。

ブログを書くモチベーションは、頭の中を整理したいとか、今書いておかないと忘れるとか、そういうやつ。あとは単純に人の日記なり文を読むと、自分なら何を書くかとか、自分はどう思ったなど、思ったことを書きたくなる。その2つかなー。自分と向き合うために活用している。

紙の日記帳だと、人が読むという前提がなくなるため、どうしても走り書きになってしまって後で読み返したときに何書いているのかわからない。もしくはめんどくさくてわざわざ書かない。ウェブは一応公開する体があるから、文面を整えてちゃんと書こうとする。

79通目:思い出しムカつき

ふとしたときに、昔あった嫌なこと(人前で理不尽に怒鳴られた等)思い出し、怒りがフラッシュバックしてしまいます。過去のことを思い出してムカついても不快になるだけで生産性がないのでやめたいです。どうすれば思い出しムカつきしなくなるでしょうか。

あーありますね、そういうこと。僕も全然あります。ムカつく以外にも、単に嫌な思い出やショックだったことをたびたび思い出したり夢に見て、嫌な気持ちになります。ある程度はしょうがないというか、なくならないと思います。だから僕はあきらめています。どうにかしょうとかしていません。来たらじっと耐える。

具体的にどうにかしようと思うなら、過去にムカついたことを今からでも解消しに行けばいいんじゃないですか?例えば怒鳴られたやつに、今からでも怒鳴り返しに行くとか。もしくは反対に、そういう存在を徐々に受け入れていくとか。今思えば、大したことないな、ただどうでもいいやつが喚いていただけだな、という風に自分の中の認識を変えていくと、ムカつかなくなるとかないですか。昔腹立っていたことも、今思い出すとなんであんなくだらないことで怒っていたんだろ、っていうことはあると思います。そういう対象に持っていく。自分を成長させる。他に、単純に音楽を聞いたりお笑いを見たり他のことをして、ムカつくことを無視するという手もあります。

80通目:情熱、夢中

情熱を持っている事・物はありますか?
夢中になっている事があったら教えてください

ないなー、情熱も夢中も。ただこういうのは程度問題で、人形を集めるのも立派な趣味だし、コレクションで博物館を作る人もいて、そういうのは情熱とか夢中とか呼べるだろう。僕はせいぜい趣味、遊び半分でやるのが好きだから、あまり情熱を持ったり夢中になったりしない。

今は、強いて言えば家庭生活が一番優先順位高い。パートナーといかにより良く過ごすか。それ以外のことはだいたい全部二番手三番手になってくる。それはただそうしようと決めてやっているだけで、強いられているわけではない。

もともと何かに情熱を注いでいたわけではなく、やりたいこともなかった。だから今家庭を中心に生きるのは、一番真っ当だと思ったし、理にかなっており、効率的でもあり、ただ他にやることがないだけとも言える。結婚するまでは、長い間全く無軌道だった。そういう形に落ち着いたとも言える。

81通目:この先

この先なんのために生きていくのだと思いますか?

これは僕に聞いているから、僕がっていうことなんだろうけど、この先もこれまでも、何のために生きるとかってあまり意識していない。だから、なんのために生きるとかないです。ただ生きているうちは生きているだけ。

なんのために生きるというからには、生きる意味とかそういう話なのかな。でも実際は意味とか理由とかなんのためとか関係なく、死ぬときは死ぬ。そうでなければ生きている。働いた後のビールの一杯のために生きている人は、それがなくなったら本当に死ぬのか?きっと死なないだろう。本当に死んだら、その人は本当に働いた後のビールのために生きていたんだな。僕にはそんなものはないです。

82通目:薬物

薬物に興味はありますか?

薬物に興味!ディーラーか何かの人かな。能動的興味はないです。受動的にはあったかな。それでもハードドラッグには手を出したことない。日本で違法薬物に手を出したことないし、大麻解禁も反対です。以前に議員か何かの人がパクられたとき、理由をまとめたことがあった。

依存性薬物という意味では、酒もタバコも該当する。お酒は普段から飲みます。弱いからたくさんは飲めないけど、だいたい毎日飲んでいる。タバコは15年ぐらい吸っていた。今禁煙中。酒もタバコも、一度習慣になってしまうと抜け出すのが難しい。適量で嗜めたらいいんだけど、タバコなんかはすぐに身体的依存に陥ってしまうから、手を出さないのが最適だと思う。一度ハマると一生続く。呪いのようだ。

お酒も最近は飲まない人が増えてきたらしい。やめる人も増えた。酒もタバコもやらずにすめばそれが一番いい。代わりにジョギングとか筋トレでストレス解消できれば、健康にも良さそう。ただ実際はジョギングにも筋トレにも依存する人がいて、やりすぎて体を壊す人がいるらしい。なんかの本で読んだ。「僕らはそれに抵抗できない」だったかな。

84通目:後悔について

これまでの人生で後悔してることは何ですか?

これはきっと今日のツイートを見たのだろう。

これまで生きてきたなかで後悔していること、もしやり直せるとしたら、何をどうしたいか。「あのときああしていれば…」というのが僕の場合、具体的には何も思い浮かばない。何も、これまで生きてきた全ての選択で、ベストチョイスのみを選べてきた自信があるわけではない。そうではなく、他の選択をする自分というのが想像できない。

あんなツイートをしておきながら、僕は何も後悔していない、後悔のしようがない。かつての自分には他に選択肢がなかった。

そういう話を以前にまとめたことがあった。

85通目:占い

占いを信じますか?

信じるか信じないかで言うと、ほとんど信じていない。特に未来のことをどうこう言うやつは、当たった試しがない。性格診断的な占いは、ときどきかする。

今まで占い師に見てもらったことはないけど、友人にタロット占いと手相占いをやってもらったことがある。いずれもピンとこなかった。こないだ奥さんに言われてしいたけ占いを見てみたけど、何書いてあるのか全然わからない。試しに今年の分を見てみたら、全く当てはまっていなかった(獅子座)。基本的には、占い興味ないです。おみくじも引かない。

86通目:村上春樹のまとめについて

はじめまして。

数えたんですね?
数えちゃったんですね?!

もう、そんなことしてくれちゃってありがとうございます。
久々にブログを読んで声を出して笑いました🤣
そして村上さんの小説の本質をきちんと書いてくださってありがとうございます。
80年代終わりからずっと読んでいる1ファンとして感謝します。

このメッセージは、こちらのまとめを読んだ感想だと思います。

5年前に書いたものだけど、ここでこの数年一番見られているのがこのまとめで、あまりにもふざけた内容だから、胸を張って誇れるわけでも なく、人に勧めることもできない。

今手元にねじまき鳥があるから、再読して追加しようと思っていた。上巻を読んだところで数ヶ月止まっている。

87通目:どうすればいいか

話し合うことが解決に繋がらないのだとしたら、どうすればよいのでしょうか?

この質問は、僕がこのツイートを見て

以下の内容でツイートしていたものに対する質問のようだ。

まあ、話し合いで意思疎通できれば理想だなー。世の中には言語化だったり、意思疎通が得意というわけではない人が、けっこうな数いる。だからコミュニケーションによる意思疎通を根拠にやりとりすると、不公平が起こりやすい。言ったよね、言ってない、そんな意味じゃない、うまく言えない、そういう会話に陥りがち。

話し合うことで解決できなければ、どうすればいいのか。それを解決と呼べるのかどうかわからないけれど、僕個人が試みている方法としては、徹底的に相手に歩み寄る。相手が言葉で言い現せないことは、こちらからなんとか汲み取ろうとする。それは相手のことを知らないとできない上に、その気がないとやらない。

前提として、相手との友好関係を維持したい、もしくはさらに向上させたいという気持ちがお互いにないと成り立たない。さらに、相手も自分の苦手なフィールドでは、僕のことを汲み取ろうとしたり歩み寄ろうと努力してないと成り立たない。どちらか一方のわがまま、不公平な関係性であれば、いずれ成り立たなくなる。相手を大切に思えるからこそ、相手の意見を聞き、相手が言わんとしていることに目を向け、なんとか相手の言わんとしていること、気持ちを理解しようと思う。

話し合いが万能でないなら、それぞれがお互い得意なフィールドで補完し合うしかないんじゃないだろうか。そのためには、お互いの特性を理解し合うことが重要になってくる。得意じゃないことを相手に求めるのは、もはや愛がない。

88通目:㊳の感想

mm(id:mirumiru200)です。ヒトコトへの回答38を読みました。自分が少しモヤモヤしていた部分を言語化してくださっていて、かなりスッキリしました。言語化や意思疎通を元にした話し合いって面倒で大変ですよね。話し合いはもちろん大切だけど、それを言ってくれる人って少なかったと思います。 書いてある内容がいつも面白く、また自分のブログで引用させていただくことがあるかと思いますがご容赦いただけたらと思います。 機会があれば対談などできたら楽しそうだなと思うのですが、何を話すのか……という感じになると思うので、何か具体的にお話したいことがあればまたご連絡させていただきます。

僕自身は前回の内容にあまり納得いってなくて、もっと芯を打つ言葉があるだろうと思いながら、なかなかそれが思いつかない。僕自身も決して話すのが得意、コミュニケーションが得意というわけではなく、まだ書くほうがまし、それでも的確なことが書けなくて、言葉を探している状態です。

前回の話を延長すれば、僕はどちらかというと具体的な話しかできず、抽象的な話は苦手。抽象的なことを言われても全然わからない。だから「具体的にどういうこと?」とすぐ聞いてしまう。でも抽象的な話が得意な人からすれば、それは具体的な話のフィールドに引き込まれているわけで、不利・不得意な状況に陥る。これは自分が理解するためとは言え、相手には優しくない。だから、なるべく相手のフィールドで話を聞いたり合わせようとしたり汲み取ろうとするのが、人としての愛情なのではないかと最近は考えている。抽象、具体を論理、感情に置き換えても同じことが言える。「わからない」ことはわからないんだけど、わかろうとする、するだけ。「わからない」というあきらめの姿勢から脱却するように心がけている。

それは相手も同じで、なんとか僕に具体的に、論理的に、苦手なフィールドで相手しようと努力してくれているのが伝わってくる。だから僕は、なるべく問い詰めないような努力がいる。具体的、論理的というのはプロセスの話だから、どこまでも突き詰めていける。逆に抽象的、感情的な表現に対して僕はどういう理解を示していけばいいのか、まだ検討がついていない。倣うことなのかな、とぼんやり考えている。おそらくそこに理解なんて概念はないんだろうな、と。倣うだけ。

意思疎通は、僕は希望だと思っていたんだけど、完全な意思疎通は無理だし、お互いの特性に合わしていく方がいいんだなと思うようになりました。僕らは同じ日本語を話しておらず、互いに言葉が通じていないことを忘れないようにしたい。話し合いが面倒で疲れるのはそこでしょうね。何かあれば、またどうぞお気軽に。

89通目:宇宙

宇宙に行きたいですか?

宇宙に行きたいとは思わないなー。宇宙に行きたいと思うだけの何かが、僕には何もないから。行った先に興味が湧くものでもあれば行きたいと思うけど、宇宙にはそれがない。

宇宙に行っても宇宙空間があるだけで、あとはせいぜい星とか地球が見えるぐらい。天体とかそういうのが好きな人は、行ってもおもしろいんじゃないか。もしくは専門家が研究のためとか。僕はそのどちらでもない。

もともとなんとなく旅行したり、行く宛や目的がなく行動するのが苦手で、旅行するときはだいたい目的地とやることを決めてから行く。それが見つからないところは、旅行先の候補に入らない。観光にしても、自然の景色とかよりどちらかと言えば文化的なことが好きで、宇宙にはそれがないから候補に挙がらないかなー。

90通目:子供

子供を欲しいと思ったことはありますか?

子供を欲しいと思ったことはないです。子供を欲しいと思う人は、どういう理由で思うのだろう?僕はその理由だったりきっかけが無いというだけで。欲しいとか欲しくないというより、興味がないと言ったほうが的確かな。どうでもいい。「子供が好きか?」と聞かれても同じ答えになる。自分の体感だと、男性の5割近くは僕と同じ意見なんじゃないかな。

91通目:エルピスに感じた歪さ

エルピスを観た感想が知りたいです。

エルピスは2話しか見ていないんだけど、今日その2話を見ているときに、変な感じがした。タイトルにあるように、いびつだなーと思う部分があった。ドラマ自体はシンプルなストーリーで、テレビ局に勤めるキャスターとアシスタントが冤罪事件を調査し、真相を暴こうとする話。

違和感を覚えたのは、2話の中の回想シーンだった。長澤まさみ演じる役が、若きニュースキャスター時代に報道したニュースを思い返している。その内容とは、東北地震直後の「福島第一原発は直ちに問題はない」というシーンと、2020東京オリンピックを喜ぶシーン。これは現実にあった報道内容を、番組内でオマージュというかアレンジしている。

このドラマでは、長澤まさみ演じる役が、過去に自身が加担していた偏向報道に嫌気が差し、局でなんとか正しい報道?ジャーナリズム?を取り戻そうと奮闘するような話の流れ?になっている。最後まで見ていないからわからないが。

少なくともこの回想シーンからは、福島第一原発が問題ないと報道していたのに、実際はその後大変なことになった、東京オリンピックについて華々しく報道していたが、現実は真っ黒で汚職にまみれ後に逮捕者まで出た、それをあたかも問題ないように報道していた、それらの偏向報道に自分が加担したことを、長澤まさみの役が悔やんでいる、そう読み取れる。

この2話の回想シーンで僕が感じた違和感は、このドラマは何がしたいの?という違和感だった。現実にあったニュースが、あたかも偏向報道であったかのようにドラマ内で演出する。それを思い出す長澤まさみは、嫌な顔をする。間違った報道をしていた過去の自分を塗り替えたいと思う。そういうシーンだったと思う。この演出を、現実にこういった報道を行っていた、言うならば偏向報道を行っていた当事者であるテレビ局が、ドラマのワンシーンとして描く意味はなんなのか。

もしテレビ局が、自分たちが行っていた原発なり東京オリンピックの偏向報道を反省し、見直し、今後はジャーナリズムに徹するという決意があるならば、こういった娯楽作のワンシーン演出として描かないだろう。メディアが本気で偏向報道に問題意識を持ち、省みる気があるならば、公に間違いを認め、謝罪会見でも開き、責任者は責任をとって経営陣を総入れ替えなどし、今後はジャーナリズムに徹する決意表明でもして、局を立て直すのが筋だと思う。

しかし実際にやっているのは、フィクションのドラマの中で、キャスターが悔いているワンシーンを描くだけ。局員が、メディアが反省するという姿さえも、ドラマという商品の中で消費物として描いている。テレビ局は、このシーンを描くことが商業的にプラスだと判断して、GOを出した。

つまり、テレビ局は偏向報道を反省するつもりなど全く無く、反省する姿さえも売り物、金儲けの手段にしてしまっている。なぜわざわざこんなことをするのか?それが、今、視聴者に求められている、つまり商業的にプラスになると判断した結果だろう。ドラマはフィクションであり、エンタメ作品である。有名な俳優を起用し、視聴者を喜ばせることが目的で、このドラマは報道でもジャーナリズムでもドキュメンタリーでもない。架空の娯楽である。お金のために、自社の過去の失敗、間違いを正す架空の物語を商品として売り出す様子を、このドラマで見せている。

僕にはこのドラマが、「ジャーナリズムを取り戻せ!」という主張さえ、金儲けの道具にします!それぐらい商業主義に走ってます!というテレビ局のアピールに見えた。そんなことに、なんの意味があるのか?この「自己否定を売り物にしてますアピール」が、僕がイビツと感じ、破綻していると思った部分だった。自虐なのか?

ロシアでは、プーチンに暗殺されようともジャーナリズムに徹するジャーナリストの姿がたくさん報じられてきた。暗殺されることがいいことだとは思わないが、ロシアのジャーナリストがジャーナリズムに殉じている一方で、日本のメディアは自らジャーナリズムを、その間違い、失敗を認めつつもパロディーにして売り出している。めちゃくちゃ歪んでいる。行き過ぎた商業主義に、狂気すら感じる。

僕はこのエルピスの歪さを感じたとき、太宰治のいびつさを思い出した。太宰治の後期は、原稿料を家に入れずに飲み歩いてばかりいた。奥さんと子供が貧困に苦しんでいる中、太宰治はその姿がつらいと言いいながら不倫をしたり、飲み歩いたりして散財していた。そして、その様子を小説に書いていた。「桜桃」などが有名だ。これって一体どういうこと?と、読んだ当時僕は思っていた。わけがわからない。

太宰治は家にお金を入れ、家族をまともに養えば、つらい思いをしなくて済む。不倫も散財もしない。でもそれでは小説が書けなかったのだろうか?生活が破綻している。挙句の果てに太宰治は、不倫相手と心中した。遺書には

「美知様(奥さん) お前を誰よりも愛してゐました 」

と遺している。わけがわからん。これを受け取った奥さんは、どんな気持ちだっただろう。わざわざ自分の家庭を犠牲にして苦悩し、それをネタに小説を書く太宰治の姿は、芸術家にはよくある姿かもしれない。かたやエルピスは、劇中でテレビ局を批判しており、局がそれを採用してエンタメとして商品にすることで、自己批判さえも金儲けの道具にする自分たち、をアピールしている。企業がそんな狂ったピエロみたいなことをして、一体何の意味があるのだろうか。

92通目:加齢に伴う体調の変化

30代以降の体の変化、不調などがあれば教えてください。

30代以降っていうと、正直あまりない。31歳頃が人生で一番痩せていて、体力もあった。もちろん老けていってはいるが、加齢に伴う衰えと言うよりは、生活習慣の影響のほうが大きい。痩せていて体力があった31歳頃は、毎日ほどよい肉体労働をしていた。

男性は女性に比べて、ホルモンバランス的な著しい変化がない。内臓が違うから、生物としての仕組みが根本的に違う。体調という意味で言えば、十代の頃はアンバランスで困っていた。30代以降の変化は、むしろ落ち着いてきたと言える。とはいえ、病気やケガなどもしていないから、なってみれば前より大変かもしれない。

93通目:未来志向

自分の未来に関することで、5つまで答えてもらえるとしたら、何を聞きたいですか?

あー僕は未来志向ではないので、聞きたことは何もないですね。この先どうなっていようとどうでもいい。今にしか興味がない。今の自分とっては、今しか存在しない。

自分以外のことなら興味あります。未来でどういう技術が発展しているのか、とか、文化がどうなっているか、地球環境がどうなっているか、世界の未来には興味がある。例えば50年前、1973年にChatGPTなり暗号資産なりテスラのEVなどを見ていたら驚いていただろう。そういう驚きは味わいたい。1973年を調べてみると、まだベトナム戦争が終わっておらず、日本赤軍が活躍しており、第四次中東戦争でオイルショックがあった。

1973年 - Wikipedia

94通目:何者問題

はじめまして。 「何者かになりたい」ってなんぞやと探していたらここに辿り着きました。 30歳を目前に学友と集まったのですが、私はどうやら彼らの言う「何者か」になれる(?)らしく、彼らはもうなれないと嘆くのです。訳がわからない。 有名人でもプロでもなくSNSも興味がなければ仕事も今や辞めてしまって、他人との差異はやりたい放題生きてることでしょうか。しかしそれもレールに「乗れない身体」だからと開き直っている些細な事ばかりな上、経済的には身を削る一方です。
ふと「でもいつだってできることだよ」と返した時の「何者にもなれなかった俺には無理なんだよ」と言ったあんなに頼もしかった友人の顔が忘れられません。病気を差し引いても私に対して彼は充分に立派な働くお父さんです。何が不満なのか。彼はその健康な体と社会人として培った信頼、金銭を持ってしていつでももっと大きなパイに噛み付ける。
どうしたら自分の足元は意外と道があると気づいてもらえるのだろう。外れても大丈夫とわかってもらえるのだろう。様々なサイトに記載された単純な上昇志向や憧れでは足りない何かを求めているのかとウンウン唸っていた最中、散々例を挙げ検証した上で「わからん」と投げ捨てたこのエントリーに救われました。

多分、これを読んだのかな。

その学友は、可能性が閉じたという話をしたかったのだろう。実際に「何者か」になれるかどうかは別として、可能性が開かれているか閉じているか。彼はレールに乗ってしまい、レールの外に憧れをいだきつつも、現状維持のほうが気持ちとしては勝っている。

例えば、既婚の人が未婚の人に対して「若い彼女がいてうらやましい」とか「俺も遊びたい、遊べてうらやましい」とか口では言ったとしても、普通はやらない。本心で思っていてもやらない。本当にそれをやってしまうと不倫になって家庭崩壊だ。でも願望はある、という状態かな。本心では現状を肯定している、もしくは肯定せざるを得ない何かがある。

レールに乗れなかった人は、そういう守るものがない。不確かであるということが、可能性がある、すなわち「何者か」になれる(かもしれない)と言っているのだろう。

本題から逸れましたが、「何者か問題」の答えは今も変わらずでしょうか。 いつかまたここに訪れた時に今どう思っているか教えて頂けたらとても嬉しいです。

「何者か問題」の答え?なんだっけ。「何者問題」は誇大妄想かな。「何者かにならないといけない」という強迫観念に囚われているだけ。僕は今が良ければそれでいいと思う。先のことも含めて、今が大事。何者かどうかよりも。

p.s.奥様のお話、海外の行方知らずな友人のお話の2つはなんだかきらきらとした記事で、読んでいて楽しかったです。

どれのことだろう。

96通目:カメラ持ち歩き

カメラっていつも持ち歩きますか? 今日カメラ持っていこうかな〜と出かけるたびに一瞬悩むのを辞めたいです。

カメラは全然持ち歩かない。重いし邪魔だし、持っていても撮らないことが多い。すぐ撮れるようにしておかないと、持っていても撮れない。写真を撮る機会はあまりない。昔ほど撮らなくなったというのもある。

出かける際にカメラ持っていくか悩むときは、どっちでもいいんじゃないか。今日は撮ると決めていたら迷わない。迷うならどっちでもいい。例えば旅行にカメラ持っていくかなんて、迷うことない。出かけてから「カメラ持ってくればよかった」って一瞬思うことがあっても、撮る気で待ち構えていないと、持っていてもどうせ撮れない。撮る気があるなら、持っていくかどうか迷うこともない。

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