優れた女に対する男のプライドという構図

世の中にはわからない物事がたくさんあって、その中の一つがこの、優れた女に対する男のプライドという構図だ。こんなもの実在するのかどうかさえ疑わしいが、例えば、高学歴女性はそれだけで相手のプライドを傷つけるからモテないとか、カップルや夫婦において、女性のほうが学歴や年収が上だと男性のプライドが傷つくとか、そういう話をよく見かける。この、女性より優位に立ちたいという男性の願望みたいなものは本当に存在するのだろうか。プライド?それプライドなの?そんなことに固執している方が余計に器小さくて惨めじゃない?自分より学歴や年収低い人が相手ならプライド守れんの?そんなプライド守る価値あんの?よくわからない。個人的には、年収や学歴の高い女性、その他見た目でも身長でも人脈でもカリスマ性でもなんでも、自分より優れた相手なんて良いことしかないから大歓迎で、そういう意見が当たり前だと思っていた。だって、論理的に考えても自分より優れた相手が身近にいるってことは良いことしかないだろう。自分のわからないことを理解している人や自分の知らないことを知っている人であったり、自分の届かないステージで自分にはできない活躍をしている人が身近にいるということは、すなわち自分に持ち得ない世界が目の前にあるということで、刺激になるし勉強にもなる、得られるものしかない、ボーナスステージみたいなもんじゃないか。それを「プライドが傷つく」ってなんだ。本当に理解できない。そんな人が存在するのか?それでは、その人は相手に一体何を求めているのだ。もちろん「優れている」という面は、相手を選ぶ基準ではない。相手が自分より優れているから、それで得することが多いから相手を選ぶわけではない。相手にコミットメントするにあたっては、考え方や生き方など、対象の人格と自分がマッチするかどうかという部分が大きい。だから、その他の優れた面なんていうのはボーナスでしかない。そのボーナスが査定基準においてマイナスに作用するなんて、一体どういうことなんだろう。生活レベルが違いすぎるとか、価値観や世界観に大きな隔たりがあるというなら理解できなくもないが、それだったらそもそも付き合う前提にさえ入らないだろうし、それでも付き合うならお互いの歩み寄りでなんとかなるだろう。相手と同じステージに立ちたいと思って奮い立つとか、知性に対しても仕事に対しても前向きになることだってできる。そうではなく「自分より上の相手はプライドが傷つく」とか「自尊心が傷つく」って一体なんだ。本当によくわからない。どのような心理メカニズムが働いているんだ。誰かわかりやすく説明してほしい。自分より優れた相手なんて大歓迎じゃないか。

「仕事ができる」が基準の全てという人

僕は仕事ができない。それは別にいい。僕が仕事ができない人間だからといって、尊大な態度でゴミのように扱ってくる人はいるが、それもまあ仕方ないから、別に構わない。構わないけれど、ちょっともったいないと思う。仕事ができない人の中にも、優しい人だったり楽しい人だったり、仕事以外のことで頼もしかったり良いところがある人はいっぱいいる。僕はそうではないけれど、そういう人たちを、ただ「仕事ができない」というだけで見下し、見限ってしまい、価値が無いと判断してしまうのはやはり傲慢な態度であり、そういう態度で人との出会い、付き合いを活かしきれないのはもったいないと思う。

そりゃあ職場に限って、もっと言えば職務を遂行するに限って言えば、仕事ができるに越したことはない。仕事ができなければ、職業人として困る存在だろう。無能だ、役立たずだ、と言って切り捨て、仕事ができる人間を替えゴマに持ってくれば、それで全てが解決する。しかし、仕事上の関係であったとしても、人間同士の関わり合いはそれだけではないはずだ。それが例え上司部下、先輩後輩、顧客取引先の関係であったとしても、仕事を円滑に遂行するにあたってのコミュニケーションは欠かせない。コミュニケーションを通じて他人を活かすのも自分の能力であり、助けるのも育てるのも能力だ。地味なフォワードに絶妙なパスを通し得点に繋ぐミッドフィルダーもいれば、地味だったフォワードを得点王に育てるコーチもいる。他人を殺すのだって自分の能力の無さだと言える。もちろん適性はあり、どうしても活かしきれないことだってあるだろう。自分の競争に苛烈なあまり、できない他人にかまっている余裕がないというのも、自分の能力の無さを現している。使えないからといって切り捨ててしまうのは、それ自体が無能の証明でしかない。使えない人間は自分自身ではないだろうか。他人とはそういう意味において自身の鏡である。

特に残念なのは、プライベートな場においても「仕事ができないやつは何やってもダメ」という態度を一貫して崩さない人だ。それはまるで、運動できないだけのクラスメイトをバカにする小学生のようだ。人を判断する全ての基準が仕事の出来不出来になっており、逆に仕事ができる人に対しては人格からセンスから何から全て肯定的に評価する傾向がある。仕事ができる人でもプライベートや人格に問題がある人はいくらでもいる。もちろん何もかも素晴らしい人はいて、何もかもダメな人だっているだろうし、仕事はできないけど何かがすごい人もいる。何故、それぞれの項目ごとに評価できないのか。立場や関係性に応じた優先順位はあるだろう。しかし、仕事の出来不出来なんてどうでもいい状況においてまで「仕事ができる」という評価基準を持ち出し、他人を評価するにあたってそれを絶対視する人がいる。また、プライベートが杜撰だからという理由で仕事の評価まで落とす人もいる。それはやはり正確ではないだろうし、項目ごとに、当人に見合った評価を下さないと、せっかくいい仕事をしていたり、仕事以外の面でいいところがあるにも関わらず、偏った目線で他のことまで評価してしまうのはどう考えてももったいない。仕事ができてもクズだ、という人に対してやはり仕事は任せたほうがいい。仕事はできないけど良い人だ、という人とも仕事以外で良好な関係を築けるだろうに。