いらないのに買ってときどき役に立っているもの

レザーマンの十徳ナイフです。スイスアーミーナイフではない。僕はアウトドア人間ではないから、こういうのはいらないっちゃいらない。そんな頻繁に使う機会はない。

10年以上前に買った。もともと海外旅行用に買ったけど、最近は機内持ち込みで済ませるため、ナイフは持ち込めない。今はもっぱら家、もしくは飛行機に乗らない旅行に持参している。ついてきたカラビナはなくしてしまった。

旅行先ではハサミをよく使っていた。ハサミってまず持ち歩かないから。もしくは缶切り、栓抜き。そのあたりも個別に持ち歩くことってまずないのに、必要なことはときどきある。家ではペンチをよく使う。ペンチって単体で持っていなかったりする。ドライバーもときどき使うけど、さすがに大きさが合わないことも多い。ナイフはあまり使う機会がない。

アフリカでオレンジを頻繁に食べていたときは、毎回皮むきを使った。これはなかなかもう使う機会がない。皮むきが便利だってことを初めて知った。

2024.6.13

東京に用事があって行くんだけど、暇な時間が数時間あり、どう過ごせばいいかわからん。時間の過ごし方が下手なのだろう。

前回は電車に乗り40分かけて観光がてらflotsambooksへ行った。前はオンライン書店だったけど、実店舗ができていつか立ち寄ってみようと思っていた。でかい本を買って帰った。

映画でも見ようかと思った。東京にはたくさん映画館があることだし、IMAXレーザーもある。でも、今やっている映画で特に見たい映画がなかった。写真展なども調べてみたけれど、今特にこのタイミングで見たいものがなかった。

あとはもういつもどおり、レコード屋とか本屋に寄るぐらいしか思いつかない。でもこれ以上買い物してもなー。服とかも、今特に何がほしいとか必要ってこともない。別のタイミングであればなにかしらあっただろうに、今これといって何も思いつかない。

発言に一貫性は必要か?

昨日の日記を書いて、自分は言ってることに一貫性がないなーと思っていたけれど、一貫性って必要なのだろうか。あれこれ言うことが変わる人は信用できないけど、いつまでも同じことを言っている人だったら信用に足るのか。

著名人などはよく、過去の発言が掘り返されて「前と言ってることが違う」とか「言ってることがコロコロ変わる」「日和見主義」みたいに言われることがあるけど、中には10年前の発言もあったりして、10年も経てば意見が変わることもあるだろう、10年で変わることが日和見主義に当たるのか?という話も見かける。

人生のステージとかフェーズとか、時代の流れとかで考え方が変わることもある。それを僕は「成長」とは言いたくないんだけど、どちらかというと「流行」ぐらいのもんで、なにか絶対的な正誤だったり基準があるようなもんではない。リベラルが正義なのか、保守が正義なのか、みたいなのと同じで、若者が言ってることが、時代の最先端が正しいのか、老人が正しいのか、時間の淘汰を経て残ったものが正しいのか、そういうのは別にないと思っている。そのとき自分が何を信じるか。

発言の一貫性について、今の自分が思うのは、一貫性があったほうが人となりがぶれないから、人物像を抱きやすい。安定しているように思う。ただ大事なのは一貫している事実ではなく、その根拠とか信念の方だと思う。時間が経つことにより、昔やってきたことが今同じことをやっても信念にそぐわなくなってくることだってある。同じことを続けてりゃいいってもんでもない。

つまり、根本的な考え方だったり人格に通じるような信念が変わっていなければ、発言が変わったところでそれは方法論を変えただけだから、元々抱いていた信頼は揺るがない。

反対に、中身がない発言をしていると、そこに一貫性があろうとなかろうと、元々信頼性が備わっていない。言うことがコロコロ変わる人に、「その発言の根拠となる考え方は?信念は?」と問うて答えが出てくるだろうか。言ってることよりも、その心は?の部分に目を向けたほうがいい。

例え話を考えるのが難しいけど、例えばある会社の製品アイデアを募集したとき、AというアイデアよりもBのアイデアの方がいいという判断をするとき、大事なのは意見が変わることではなく、客に喜ばれる製品を出すことになる。ゴールが明確にあり、そのゴールに至る道を試行錯誤して、途中で道を変えようとも、重要なのは道を守ることではなくゴールに辿り着くこと。ゴールが曖昧だと、そのプロセスにこだわってしまって目指す方向を見失うことがある。

僕が言いたいのは、時間が経ってわかることや考え直すこともあり、意見が変わったことそのものは別に大したことなく、重要なのは中身ですよって話。生き方だって変わるかもしれない。では何を目指しているのか。途中のプロセスについては「そう考えていた時期が、僕にもありました」でいい。

言い方がどうとかって話

これを読んで。

誤解されるとか受け入れられないとか損するとか、けっこうどうでもいいかなあ。人からどう見られるかが気になる人は、そういうの大事にするんだろう。人からどう思われたいかって、自分には全然なくて、言葉だろうと人格だろうと好きに解釈してくれていい。

僕自身も、人に印象を押し付けてくるような人が苦手だ。本当はそうじゃないのに、人から良く見られたくて猫かぶってくるとか、ご機嫌取りや印象操作を頑張られると気分が悪くなる。無愛想でいいから正確で的確で必要な応対をしてくれる人を信頼する。上辺はどうでもいいから中身があってほしい。だから変に着飾らないで素の状態でいてほしい。

誤解されたり違う形で伝わったことについて、そりゃあ責任の一端は自分にあるだろう。だからといって、そういう印象操作をして嘘をついてまで、誰かに何かを伝えたいか?それが必要なとき、例えば接客だったり営業だったり、自分以外の何かを背負っているときは仕事としてやる。他にも大事な相手だったら、言葉選びに苦心することもある。

でも個人としての自分は、変に良い印象を持たれるよりそのまま解釈してもらったほうがありがたいなー。事実ありがたいことに、わかる人はわかってくれる。何を言わんとしてるのか、どういう人間なのか、物事の本質を。それがわからない人に、どうでもいい人に嘘ついて人気取ろうとか理解してもらおうなんて思わない。

まあこういうのも、年をとって横着になったからなのかもなー。子供の頃は確かに誤解されることを恐れていた。それは直接身の危険に繋がったから。子供の頃の制限された環境では、嫌われることによる実害が大きかった。高校以降ぐらいからは「関わらなければいいだけ」という環境になり、思想言論行動が自由になった。

世の中には表面だけの気持ちいい言葉に惑わされて、結果的にひどい目に遭っている人が大勢いる。言い方にとらわれて本質を見失ってる方が、よほど危ないんじゃないかなー。

伯父にレコード環境を見繕った話

先日、伯父がレコードプレーヤーを50年ぶりに買いたいと言った経緯があった。

今回は具体的に何を見繕ったか挙げてみたいと思う。以前にも知人へレコードプレーヤーを勧めたことがあり、その時も予算とこだわりを聞いて見繕った。それらを併記してみる。

  • 竹コース(←知人へ)
  • 松コース(←伯父へ)
  • 他、最初に揃えたいもの
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自分を甘やかすのが得意ではなくて

朝ドラ「寅に翼」を見ていたら、つらいときに贅沢してやり過ごしていた、みたいに言う部分があった。僕はそういうの、全然できないなーと思った。つらいことがあっても、美味しいものを食べて帳尻を合わせる、みたいなこと。実際に帳尻は合わないだろうけど、気休めにもならない。

何かのキャッチコピーみたいなのでよく「自分へのご褒美」があったと思うけど、それの種類違いってことだろう。あーいうの全然できない。やりたいときにやりたいことをやることはあっても、それでつらいことが帳消しになったり誤魔化せたり頑張れたりはしない。食べたいものをいくら食べようと、つらいもんはつらいし、自分の気持ちは誤魔化せない。それってやけ食いと何が違うのか。後でよけいにつらくなる。

やけ酒はよくするけれど、それで「はースッキリした、落ち着いた」なんてなることはない。余計に憂鬱になる。次の日にも響く。ストレスで服とか物とか爆買いしたこともあった。そんなものはつらいことの帳消しにならないし、そんなことをしても後悔しかない。その瞬間は気が紛れるかもしれないけど、冷静になるとただの無駄遣いで落ち込む。

多分、つらいときは何やってもつらいから、味が美味しいとか思えない。何も自分の助けにはならない。むしろ落ち着いているときでないと、自分の好きなものは楽しめない。だから、贅沢で誤魔化して自分の精神の帳尻を合わせたりできるのは、便利だなと思う。自分にはそういう調整機構が備わっていない。落ち込んだときは、ただ時間が過ぎ去るのをジリジリと耐え忍ぶしかない。

写真は2024年、中野駅北口。

2024.6.5

昨日伯父がうちに来て、「レコードをCDにコピーできるか?」と聞いてきた。自宅を整理していたら、昔聞いていたレコードが出てきたそうだ。自分はできない(機材がない)と言ったら、じゃあそのまま聞こうかということになり、伯父は50年ぶりぐらいにレコードプレーヤーを買うことにした。

うちにある使っていないレコードプレーヤーはどうかとも聞いてみたけど、もっといい音で聞きたいらしい。僕もそんなに詳しいわけじゃないけど、今使っているものとだいたい同じグレードで見積もったら、20万ぐらいになった。さすがに高いということで、中古品を混ぜて15万まで落とし込んだ。

それで行こうということになった。でも伯父は買い方がわからない。ネットは使うけど買い物はしない、設置や配線も今更できない。全部僕が代わりにやることにした。代理購入して、伯父の家まで持っていって繋ぐ。針圧調整までして「ハイどうぞ、今すぐ聞けます」という状態まで持って行く。それぐらいは簡単にできるし、すぐ終わる。

伯父は母の兄だけど、うちの親父とも仲が良かった。よく一緒に競馬をやっていた。2年前に親父が亡くなったことに、強いショックを受けていた。伯父は親父よりも年上だから。あれからうちの親族周りはみんな、残りの短い余生をいかに過ごすかばかり考えている。伯父は好きだった音楽を自宅で聞きたいそうだ。

伯父も体調を崩して、しばらく出歩けなかった。最近ようやく少し外出できるようになり、うちに遊びに来てくれた。うちまではスクーターで来た。LINEを交換して、プレーヤーとスピーカーが届いたら連絡することにした。今70いくつなんだろう。

僕が仕事を辞めて外国に行く前にも、父と伯父と3人で飲み、激励のようなことをしてもらった。あれが10年ちょっと前。子供の頃、伯父のスクーターの後ろに乗ってどこかに連れて行ってもらった記憶がある。ただ移動しただけの記憶だけど、初めてバイクの後ろに乗った記憶だった。

最近欲しい物 2024.06

今日は物欲の回です。

欲しいレコード

レコードは見始めたり欲しがり始めるときりがない。そんなに買わないようにしている。特にまとめ買いは危ない。というのも、まとめ買いしてしまうとそのうちどれかは買ってもそんなに聞かなかったりする。もったいない。

でも買っておかないとすぐに在庫切れになる。そうなったら忘れてしまおう。

haruka nakamura - grace

grace

grace

Amazon

3rdリプレスらしいです。版元にはもうない。

Little Simz - NO THANK YOU

盤の色が何種類かあったみたいだ。

Teddy Lasry - Funky Ghost 1975-1987

どこで知ったか忘れた。どこかのネット記事でおすすめされていた。

Khruangbin - A LA SALA

Khruangbinってどの界隈で有名なの?聞かれている文脈を知らないのに1枚持っている。今回のも気になる。

欲しい写真集

最近は写真集をよく買ってしまっていて、控えないといけない。海外写真集は新品でもよく値段が変動する。

Nan Goldin: The Ballad of Sexual Dependency

ナン・ゴールディンの写真集は、ドキュメンタリー映画を見てしまうと買ってしまいそうだ。だからじゃないけど、映画は見ていない。

川内倫子 - ILLUMINANCE

日本の写真集も欲しい。前の版は中古市場にしか出回っていない。新しいのはどこでも買える。

しばらくは何も買いません…。

2024.6.2

2万円台のデジカメが流行っているらしい。コダックの PIXPRO FZ55 というもので、見た目は一昔前のコンパクトデジタルっぽい。PIXPRO FZ45に至っては乾電池で動く。

売れている文脈としては、本体の見た目に加え、写真の写りも平成レトロとかネオレトロな感じがエモいから、だそうだ。ただしこれは古いモデルのレトロカメラというわけではない。発売は2022年で、ちゃんとニーズを狙って作ってヒットした商品。そういえば写ルンですとかチェキとかも、数年おきに定期的に流行るから、勝算ありと踏んだのだろう。

黒は今品切れになっており、中古市場で値上がりしている。7月にはまた再入荷すると書かれているから、もしかしたら次も一気にはけるかもしれない。

どちらかというと、防水モデルの PIXPRO WPZ2 が気になる。

レトロデジタルな写りを再現したいんだったら、いっそのこと iPhone 3GS とか iPhone 4 で写真撮ったらいいんじゃないかと思った。でもそれにはいくつか難点がある。

まず、撮った写真が取り込めない。昔の iPhone は iTunes 経由でデータをやりとりしており、iCloudなんてまだなかった。当然AirDropもない。Macに直接繋いでも写真のデータに行き着く方法がわからない。脱獄とかすればなんとかなりそうだけど、脱獄って懐かしい響き。

もう一つの難点は、バッテリー。15年前のバッテリーは、確実に死んでいるだろう。変えようにも、あるのだろうか?いまだに3GSを動かすバッテリーが?調べると、一応純正でないものがあるっぽい。ホームボタンのゴムもあったりするんだろうか。

今のところコダックのカメラを買う予定はないので、iPhone 3GSが使えたら写真を撮って載せてみます。

2024.6.1

昨日読んでいた本。80年代にタイ、バンコクを旅行するバックパッカーの小説で、なんというかけっこう腐っているというか底辺な内容だった。面白くないという意味ではなく。バンコクの売春宿に逗留する日本人の話。まだ最初の方しか読んでないけど、この先どう展開していくのか。一応小説。

デート中おばあちゃん助けたらフられた話、が話題になっていた。それに続いた話も。

女の人に限らず、自分を可愛がりたい、構ってほしい、自分が一番大事みたいな人はいるだろう。特に、人から粗末に扱われ続けたり、まともに愛されてこなかった人ほどその傾向が強い気がする。そうでもないのかな、単に欲しがる性格なのか。

コメントにもあったけど、むしろ率先して助けたり一緒に手伝ったりする女の人だっているだろう。これは倫理観の問題というよりも、余裕の差ではないかな。彼氏の人助けを、「彼氏と楽しい時間のリソースの奪い合い」と捉えてしまうなんて、きっと気持ちの余裕がない。足りてなさすぎる。時間やお金の余裕もないかもしれない。

自分一人で満ち足りている人なら、人に甘やかしてもらうことを求めたり、得られなくて不機嫌になるようなことはない。こういう人はきっと相手が人命救助をしても、自分の大事な時間を奪われたと不機嫌になる。自ら助けることができても無視するんだろうな。それぐらい余裕がない。

「そうするべき」とか正義とか人道とか、そういう問題ではない。飢餓状態だから募金ができないようなもん。災害で、難民で、近くで困っている人がいても、自分が飢餓だったらそこに気を回す余裕がない。他人を思いやる余裕がない。愛情飢餓だから奪い合ってる。奪われ続けてきて、それが当たり前で、人に分け与える余裕がない。

もしくは他人を人間と思っていないか。自分が主人公で、それ以外は舞台装置ぐらいにしか思っていない人が世の中にはけっこういて、その場合単にそういう性格だと思う。

2024.5.29

Duolingoを続けていたら、「Duolingoのテストを受けてみませんか?」というメールが来た。モニターのようなものだろう。僕が学習しているのは主にフランス語だけど、英語のテストのようだ。モニター報酬のようなものがあり、ちょっとやってみようかと思ったら、そこそこめんどくさかった。まず、受けるのに費用がかかるテストで、今回はモニターだから無料で受けられるけれど、TOEICとかIELTSの簡易的なものを目指した本気のテストだった。受けるのに1時間かかり、その間はカンニング防止のためカメラで監視される。テストの期限は明日までで、めんどくさいなー。つくづくこういう形式がしっかりした勉強が苦手だったことを思い出した。テストも苦手。45分の練習テストをやってみたけど、15分ぐらいでやめた。

エロい男論について

先日エロい男論を聞いて、よくある話だけど、目からウロコなところもあったから、整理してみたいと思った。

その人いわく「男性は根本的な願望として、興味の湧くたくさんの色んな人と手当たり次第セックスしたいもんだ。でもそんな自由にはできないから、あの手この手を駆使してそれに近いことを実現しようとする」。

一部の男性は、女性と簡単に性愛関係に持っていきやすいように努力をする。身だしなみを整えたり、話術や心理の手練手管といった、いわゆるモテの技術を磨いたり。昔一部で流行した恋愛工学なんかはわかりやすい例かもしれない。

女性相手に限らず、人の心の扉を開く手順というのはある程度型があるみたいだ。それを経験で学ぶ人もいれば、学問で学ぶ人もいる。人に好かれたり人と仲良くなることは、見た目とか性格とか相性にかかわらず、技術でなんとかなる部分が多い。

エロい男、たくさんの性愛関係を結ぶことに喜びを感じている男は、持って生まれたものに加え、そういう技術や経験を駆使して次々と積極的に性愛関係を結んでいく。その話はわかりやすい。

現実としてそういう行動は恨みを買うことも多く、若いうちはいいかもしれないが、ずっと続けているとそのうち身を滅ぼすことになりかねない。だからエロい願望があったり技術を持っていても、だんだんやらなくなる。妻子がいたり社会的な地位があれば尚更、願望のまま振る舞うことはやめて、自らのエロさを封印しているのが世の一般男性の姿かもしれない。

ここまでは普通の話。しかしここからが、先日聞いたエロい男性論の真骨頂だった。エロい男性とは、何もいろんな人と性愛関係を結んでいる人だけではない。性交渉はしていなくても、エロいもんはエロいという話だった。

そもそも性交渉の本質とは何か。言うまでもなく、子供を作ることにある。性交渉のフィジカルにおける本質は、子作りにある。では、メンタル的な本質は何か。性交渉における精神面での本質は、快楽の共有、もしくは共感による、一体感にあると思う。性交渉という性愛行為により、お互いが同時に快楽を共有するという一体感を得ることで、相手と自分をつなぐ(と錯覚する)ことが、性交渉の精神面における本質ではないだろうか。

同じ体験と感覚を共有することで、自分と相手が一つになれたと錯覚する行為。それは何も性交渉に限った話ではない。デートの時間を過ごして、お互いが楽しく満ち足りた気分になる。この時点で既に、相手と自分の心が繋がったと錯覚している。もっと直接的な話で言うと、会食などがわかりやすい。食事は食という快楽を共にするもっとも典型的な手段の一つにあたる。なぜ人は、共に食事をするという行為をこれだけ重視するのか。それは食の快楽を共有することにより、お互いの心の壁を取っ払うことができるからだ。この行為は果たして性交渉とどれだけ差があるのか。

もちろん飲酒、喫煙もそう。ダイレクトに快楽を共有することで、互いの一体感を得ている。一緒に映画を見て感動するとか、スポーツをやるとか応援するとか、音楽のライブを見て一緒に熱くなる行為も、快楽の共有による一体化という点においては性交渉と変わらない。

もっと言えば、会話自体がその行為と言える。よく知らなかった人と、ちょっと話して笑って打ち解けて、仲良くなった気がした。これは性交渉と本質的にはなんら変わりない行為だと言える。

冒頭のエロい男論に戻ると、だから、いつもいろんな女の人とたくさん話している男は、ただのエロい男だということになる。世の中の制約に則って性交渉はしていなくとも、やってることは、不特定多数の女性と致して自分の性欲を満たしている男と本質的に変わりない、ただのエロい男だ。

話し上手で、いつもいろんな人と楽しそうに会話している男はただのプレイボーイではないか!というのが先日聞いたエロい男論でした。

人が人をそういうふうに見てるっていう点において、僕にとっては目からウロコでした。

こういうのって、人はどこまで意識的というか自覚的なんだろ。似たようなことを、以前に書いたことがあった。

2024.5.14

はてブなどを見ていると、定期的に婚活話や結婚話が目に入ってくる。年齢が近いのと、結婚はしているということで、つい自分のケースと照らし合わせて考えてしまう。読んでいると、本当に人によって全然事情が違うことがよくわかる。

婚活はしたことがない。僕のプロフィールでは婚活市場に参入すらできなかっただろう。また、結婚を望んでるわけではなかった。だから相手を探すということもなかった。自分が結婚に至ったのは、ただ運というか縁というか、たまたま偶然、それだけ。いわゆる結婚に必要とされるような条件は、いまだに何一つ持ち合わせていない。

離婚せずに5年続いているから、相性は合ったんだと思う。そこは大きな理由だった。他の人とも結婚できる未来というか、今があったとは到底思えない。そういう意味ではもしかしたら、相手を選んだり選ばれたりする結婚とは、まるっきり事情が違うかもしれない。相手の選択肢はなく、するか、しないかの選択だけだった。もっと言えば、相手が結婚してもいいと言ってくれるかどうか、だけ。

そもそも自分の場合は相手有りきの結婚だったから、結婚有りきの相手探しとは根本的に違うようだ。結婚は目的ではなく、一緒にいるための手段の一つだった。だから一緒にいる相手がいなければ結婚はなかったし、結婚せずとも一緒にいられるならそれでよかった。結果的には社会的な体裁とか、親の手前を考えて結婚という手段を選んだだけで、それ以外に何か特別な意味は見いだせていない。

だから人の婚活話や結婚話を見ても、いまだに全然ピンとこない。僕自身は一生独り身だと思っていたし、どこでどんな暮らしをしているか、何歳まで生きられるか検討ついていなかった。結婚を前提とした将来のことは、まともに想像したこともなかった。自分にとっての結婚とはそういう非現実的なもので、婚活話でよく見かけるテンプレ的な結婚像とはかけ離れている。