お彼岸って何の日?

お彼岸については何も知らない。彼岸があの世を指すこととか、春分秋分の日であるとか、その日に墓参りに行くことぐらい。彼岸花はこの季節に咲くのだろうか。この手のことを僕は人生で一度も気にかけたことがなかった。よってお彼岸の思い出もない。一度Wikipediaを覗いてみよう。

浄土思想でいう「極楽浄土」(阿弥陀如来が治める浄土の一種、西方浄土)は西方にあり、1年の内で2度、昼と夜との長さが同じになる春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。昼夜・東西が平行になるお彼岸の時期には、「あの世」へのゲートが開くといわれてきた。現在ではこのように仏教行事として説明される場合が多い。それがやがて、祖先供養の行事へと趣旨が変わって定着した。"

そうなのか。春分秋分の日だと真西に日が沈むから、真西にある極楽浄土へのゲートが開き、先祖の供養になると…?そしてWikipediaによればインドにも中国にも彼岸はなく、日本独自のものらしいです。つまり習慣ですね。806年に初めての彼岸会が行われたらしいです。

彼岸 - Wikipedia

僕は自分が仏教徒であるつもりはない。坊さんに親しみもない。また、仏教がもともと経典になかった先祖供養とどのように折り合いをつけて、こんにちに至っているのかも知らない。仏教は大衆に乞われてか、本来あるはずのなかった役割を担うようになったのだろう。

今後自分が葬式を挙げる際には、例に倣って仏式で挙げる。それは自分のためというより親戚のためにそうするだけで、自分は多分この先も「彼岸がどうの」と言うことはないだろう。これまで何もしてこなかったように、今後も何もしないと思う。僕の葬式についても、誰かが必要だと思ったら必要な形でやってくれたらいい。

行事や習慣は、人が必要だと思うから成り立つだけであって、例えば僕が不要だと思えば僕にとってはなくていい。感情をコントロールするために形式がある。自分がそういう形式を必要だと思う日は来るだろうか?形式は、人をまとめるために有効かもしれない。形式により、人同士の連帯と、協調が生まれる。

そういうのに頼らず、自分の感情をコントロールする手段や強さがあれば一番いいのだろうけど。

温泉は行きたい

最後に温泉に行ったのは2年前の今頃になるが、そんな本気の温泉でなくてもいい。ドーミーインの最上階にある温泉でもうれしい。ドーミーインは年末に泊まり、夜遅かったため小さいながらほぼ貸切状態だった。だったら銭湯でいいじゃないか、ともなるが、銭湯やスーパー銭湯のように、狭い場所に人がたくさん入っている風呂は落ち着かない。空いていればまだいいと思う。最悪それでもいい。理想はだだっぴろい温泉、屋外の温泉などに一人で浸かること。すぐ寝られる環境にあること。そういうわけで、自分は温泉のほうがいいと思ってしまうわけです。

一般的には、そこで食べる料理なんかを求める傾向にあると思う。僕はそういうの全然どうでもいい。基本的に、温泉旅館で食べる飯は量が多すぎて、食べ終えたあとに必ず苦しさが残る。もしくは飲みすぎて頭痛とか。だったら僕は、スーパー銭湯の定食でもいいし、近所の中華料理屋で十分だ。なんなら家で食べる普通の食事でいい。温泉旅館の食事は特に求めない。

温泉にしろ銭湯にしろ、入るのはせいぜい長くても1時間かそこらなので、なるべく何度も入る機会があることが望ましい。ということで連泊したい。1泊、1時間かそこらの風呂ために大移動して宿泊費払って泊まるのはさすがにもったいない。長風呂はできないから、一回の風呂では物足りない。できれば朝晩入りたいところだ。健康ランド的なところは今でもあるのだろうか。昔は奈良健康ランドのCMが繰り返し放送されていたが、特にそういう場所に行きたいと思ったことはない。

温泉も、物心ついてからは数えるほどしか行ったことがない。どこがどうとか何がいいとかよくわからない。ドーミーインでいいと言ってるぐらいだからその程度なのだ。温泉良いねと言ってるのはせいぜい、いい風呂に入りたいだけ。ベタな温泉街に行くのもいいとは思うが、今のタイミングだとあまりウロウロしないような、たくさんの人と触れ合わないような旅行が望ましいのかな。だとしたら滞在型のリゾート施設か。

温泉なんて、選択肢がありすぎてみんなどうやって選ぶんだろう。なかなか一人で行くことはないから、結局一緒に行く人の希望に沿って決めるような形になる。

2年前の

爪の話

爪切ってねーなー切らないといけない。爪を切らないといけないと思うときは、重いものを運ぶときだったりする。今は月に2回アルバイトで重いものを運ぶ機会があるから、定期的に思い出す。爪が長いといろいろ不便で、わりと短く保っている。キーボードはうちにくいし、頭を洗っていると頭皮を傷つけそうになる。顔をかくと痛い。そして重いもの。重いものを持つときに爪が長いと持ちにくい。爪が長くていいことは、僕にとってはなにもない。

猫の爪も、放っておくと鋭利になる。普段猫の爪を触っても刺さったりすることはなく、多少爪を立てられても傷はつかない。しかし鋭利な状態のときは容易に凶器と化すから、猫の爪も定期的に切らないといけない。猫の爪を切ろうとすると暴れる。もしくはじっとしていない。猫の爪を切るという世話はめちゃくちゃ苦手だ。

自分の爪の手入れは、切って断面をヤスリにかけるだけ。大学生のときに見た「働くおっさん劇場」に出ていた野見隆明(おじさん)は、「男も最近はやってるんだよね」と言って水色かなにかのマニキュアを塗っていた。自分の周りでは、いまだにそいう流行りに気づいたことがない。自分も爪に何かを塗ったことはない。塗りたいとも思わない。

ネイルアートという言葉は、いつ頃から言われだしたのだろう。ネイルアーティストって今もいるのだろうか?去年いたからいるだろう。装飾の一つ、化粧の一つ、ヘアスタイルなどと同じ。男性がやっていたところで特段不思議ではない。だから野見さんも否定しない。今もやっているのかな?

僕自身は、どうでもいい自慢になるが、爪はきれいだと言われる方だ。ピンク色で、付け根に白い半月がくっきりと浮かび、ツヤもいい。「塗ってる?」と聞かれることもときどきある。最初何を聞かれているのかわからず「はぁ?」と聞き返したあと「塗ってるわけないやん」と答える。今後塗ることもないだろう。

子供の頃から手がきれいだと言われてきたが、そのことで得したこと(儲かったとか人から好かれたとか)は一度もなかった。

停滞中

気分が停滞しているのは、脳内ホルモンのバランスの問題で、脳内ホルモンのバランスが乱れていれば理由もなく盛り上がっていたり落ち込んだりする。今は特別そういうことはない。どちらかというと落ち着いている。やる気が無いのは平常運転で、その平常運転における脳内ホルモンのバランスあたりが個性だったりするのだろう。自分はあんまりそんなにアクティブな方ではない。「人生楽しまなきゃソン!!」とか言われた日には「損でいいです」と言ってしまう方。

ただまあしかし、気分の浮き沈みは体力、体調の影響も大きい。体育会系が元気なのは、鍛えているからだ。エネルギーを回転させているから、脳内ホルモンも活性化されるのか。その点においても自分はやはり停滞している。夜はなかなか寝られなくて、夜中に起きてしまい、昼や夕方は眠くてしょうがない。それは関係ないか。規則正しい生活でホルモンバランスも整うと言うではないか。

食事と運動と睡眠をほどよく行いましょう。食事だけやっていれば太ります。太ったな。本当によく太った。脳内ホルモンのバランスも乱れるわけだ。元気がない。人と会ったりすると、自分はもっと持て囃すことができたはずだ、なんて思う。その気概を失っている。酒でも飲まないと無理です。今日無理だなーとか、この頃ちょっと無理だなーってときは、もうなるべく人に会わないようにしてしまう。そうやって付き合いも交流も途絶えていく。

人との交流は前のめりすぎてもダメで、放ったらかしすぎてもダメ。程よい距離間で関われる相手を見つけるのが肝心。あと、社交辞令いらない。本当に全然いらない。社交辞令は害悪だから本当になんとかしてほしい。

時間が有限だというのは、カウントするからだ。時間は無限にある。一つずつ順番にこなしていけばいい。時間が無限にあったら何をするか?手元にある音楽を片っ端から聴く、映画を見る、本を読む、せいぜいそのへん。今だったら国内旅行を視野に入れつつ、ラジオを聞いたり、こうやって日記に落とし込んだり。ひとりでやることだったら、時間は無限に使えた。焦らなくていいや。漫画読みたい。酒飲みたい。

芦田愛菜の「信じる」うんぬんかんぬん

すごく普通のこと言っていて何の感想もない。強いて言えば、芦田愛菜のすごいところは、こういう考え方ができることじゃなくて、それがイベントの登壇でとっさに出てきて話せたことだと思う。考えている内容そのものは凡庸。

僕はあまり人を信じたりすることがないから、「信じる」とか「裏切られた」とか言う人の気持ちが全然わからない。そういうことを言う人は、そのときたまたま頭が悪かったからしょうがない、としか思わない。

だいたい「信じる」というのは無責任な行為だ。「あなたに任せたから、信じたから」と言って相手に責任を押し付け、自らは考えたり責任を負うことを放棄している。人を「信じる」ということは、極悪非道だと言っていい。芦田愛菜が言うように、「あなたの失敗も受け入れる」というのであれば、真に相手を信頼することになる。その場合、何があっても「裏切られた」などという言葉は出てこない。

例えば、選挙に投票するとき、投票先の候補を信じてはいけない。候補者が適性であるか否かを、自分で見抜かないといけない。掲げている公約を本気でやるつもりがあるだろうか、それにあたっての知識や経験は足りているだろうか、周囲の人員は揃っているだろうか、準備ができているだろうか、候補者を信じるのではなく、その人に投票していいかどうか、自分で判断しなければいけない。判断を見誤って、当選者が公約無視をすれば、それは当選者の裏切りではない。判断を見誤って投票し、当選させた自分の責任だ。

もっとプライベートな話だと、「裏切られた」という言葉は一体どういうシチュエーションから出てくるだろう。僕は人生で一度も使ったことがない。バナナマン日村がダイエットをしているのにご飯を食べて、奥さんから「裏切りだよ」と言われていた。これは戒めの言葉でしかないと思う。奥さんはその後もバナナマン日村の性格を見直し、ダイエットをどう進めていくか計画の改善を図っている。そこに「信じた」「裏切られた」のやりとりはない。

人間関係は、そういう予想の当たり外れを繰り返して、互いの理解を深めていくものではないか。予想が外れたからと言って「信じた」「裏切られた」のやりとりをしていては、そこで終わってしまう。「信じる」は押しつけであり、関係性構築の放棄に等しい。

Uberイーツの夢を見るのか?

Uberイーツを街中で見かける。いつ頃からだろう?去年日本に帰国してから、割とすぐ見かけた。その前はどうだったか?Uberイーツのサービス開始年を調べてみると、本家サンフランシスコは2014年から、日本では東京が2016年からだそうだ。さすがに早い。私が住んでいる京都は2018年の夏からだそうです。そのとき僕は東北にいて、9月に一度帰ってきたけれど10月にはアフリカだったから、全然見かける間もなかったですね。

去年僕が帰国した当初は、外国人の配達員が多かった印象。外国人が日本で働くのはいろいろと大変だから、Uberイーツみたいなアメリカ発祥のサービスによる、日本社会のしがらみから外れた独自の労働体系はすごく重宝したんだと思う。

しかしそんな外国人たちもコロナで帰国しまして、今見かけるのは日本人ばかり。やはり若い人が多い印象。もともと自転車ばかりだったけれど、最近はバイクの配達員を多く見かけるようになった。普通に考えて、自転車よりも原付きとかのほうが効率いいもんな。疲れないし。

僕はUberイーツを使ったことがない。一度使おうとする機会があったけれど、店で注文するのと料金が全然違って、上乗せされていたから利用する気をなくした。別に忙しくないんだから、買いに行けばいい、ってことになった。だから使っている人は忙しい人が多いんじゃないかな。知人はコロナ以前もよく会社に配達させたりしていた。アトロクのスタジオにもUberイーツ呼んでた回があった。

僕が使ったことはないけれど、友人宅で食事をするにあたり、友人がUberイーツを呼んだことはあった。そこで受け取る係をした。普通だった。普通の人が普通に持ってきて受け取って終わり。時間はそれなりにかかるが、注文してから受け取るまでめちゃくちゃ簡単でスムーズだった。

また、飲食店に行くと、めちゃくちゃUberイーツが取りに来るのを目にする。割と人気の台湾料理屋なんかに行ったとき、店内に滞在していた1時間から2時間の間に10人はUberイーツの配達員が来ていた。Uberイーツで注文入ってしまったら店のキャパとか関係ないから、さばくの大変だなー。

29tizuの山田さんがUberイーツの配達員をやっていて、ときどき裏話的なことをポッドキャストで喋っている。初めの頃には説明会の様子や、紹介料が大きいとか、バッグを売ると高いとか言っていた。そのうち配達員がたむろするエリアであったり、配達員同士の会話があったりなかったり、という話もあった。コロナ直前には配達員が飽和気味だったみたいだけど、コロナ中に少し盛り返して、今はどうなんでしょう。コロナ以降配達員がめちゃくちゃ増えた印象。

他にも、割と注文が入らない時間、つまり待機時間が長いというようなことを言っていた。だから、「Uberイーツは副業としてならおいしいけれど、本業だと成り立たない」というようなことも言っていた。山田さんは本業がラッパー?音楽活動の合間にUberイーツやってるっぽいです。ケン・ローチ監督の映画「家族を想うとき」回でも「まんまUberイーツ」と言っていた。

僕がもし結婚していなければ、帰国してUberイーツをやっていただろうか?コミュ力とかも全然いらないし、移動手段さえあれば誰でもできる。全くやりたいとは思わないけれど、実際なくはないと思う。続くかどうかは別として。僕がやるとすれば、原付きだったかもしれない。自転車でやる人はダイエットを兼ねていたりするのだろうか。そういえば、女性のUberイーツをまだ見たことがない。東京は女性も多かったりするのだろうか。

Uber株には注目しています(持ってない)。Uberタクシーも含め、今後世界でUberのサービスがなくなるとは思えないんだけど、今のところ全く上がる気配なし。利益率が悪すぎるのか?

鴨川についての話

鴨川って急に言われても、京都以外の人にはなんのことやらですよね。はじめの一歩の鴨川ボクシングジムか!?って思う人も少なくないと思います。鴨川会長は若い頃、米兵と試合する前に丸太を殴って拳を潰してしまい、引退となりました。

京都の人間から言わせれば、鴨川は鴨川会長ではなく、あの鴨川しかありません。京都市内を北から南へ流れる河川のことです。僕は鴨川からけっこう近いところに住んでいたため、馴染みがあります。小中高と、冬のマラソンは鴨川で行われました。京都の川べりで開催される冬のマラソンは苦行で、こちらは半袖半ズボンの体操服なのに雪が降ったりしています。小学一年生のときに走りながら、寒くて苦しくて「死にそう…」とつぶやいたら、前を走っていた上級生二人に「死にそうやったら、死ねばええやん〜笑」と笑いながら言われたことを今でも根に持っています。その場で殺してやろうかと思いましたが、そんな根性はありませんでした。

ゴール近くになると保護者のお母様方が飴湯という冷やし飴を温めたもの、ショウガをお湯で割って砂糖を加えた飲み物を用意して待っていました。飴湯を口に含むと「なんじゃこれー」と吐き出した。こっちはのどが渇いていて、こんなもの飲めねえ。近くで配られていた水に並び、紙コップを受けるとると速やかに飲み干しました。

マラソン大会が行われるだけのことはあり、鴨川は走るのに適しています。僕も一時期はジョギングをしていたことがあって、それはあまりに体力がないことへの危機感からだったのですが、ジョギングは決まって鴨川で行っていました。河川敷を走ることの良い点は、信号がないこと、車が走っていないから排ガスで苦しくならないこと、比較的安全であること、水辺で気分がいいことなどたくさんあります。中でも大きいのは、一本道が続いていること。そして景色が変わることです。

大阪に住んでいた頃のジョギングスポットとして、大阪城公園がありました。僕は2回走ったことがあるのですが、それ以上続かなかった。なぜか。走っていてつまらなかったから。同じところをぐるぐる回るのと、鴨川のように真っすぐの道を行って帰ってくるのとでは全然違います。同じところをぐるぐる回っていると、まるで家畜になって走らされている気分になる。景色が変わらないのが意外とつらい。同じ理由で、名古屋に住んでいたときの名古屋城公園も無理でした。2回でやめた。宝ヶ池の周りを走るのは、池があるだけまだ気分的にましだった。

京都を離れて暮らしたときに初めて、鴨川がいかにジョギングに適していたかを知ることになりました。貴重だった。僕は大学を卒業してから10年近く京都を離れていたため、その間ずっと貴重なジョギング環境を手放していたことになる。京都に住んでいるなら、鴨川の近くに住んでいるなら、ジョギングに活用しないともったない。今僕は鴨川の近くに住んでいますが、ジョギングは全くしていません。

鴨川は何もジョギングだけではありませんからね。ほら、デルタとかあります。デルタってなんですか?出町のあたりにある、三角のところです。それ以外に何も言えない。一度NHKのドキュメンタリーで特集されたこともあった。ドキュメント72時間「京都 青春の鴨川デルタ」。僕は放送をチラ見していたけれど、何を話しているのかさっぱりだった。ある学生が、耐久何時間デルタにい続けられるか、というのをひたすらツイートか何かしていて、そのまま夜を明かしたりしていた。番組スタッフに「何か意味はあるのか?」みたいなことを聞かれたら「意味なんている?」などと言い返していた記憶がある。ちゃんと覚えていないから、興味がある人はNHKオンデマンドでお金を払って見てください。

くるりにもデルタっていう曲があるそうです。今はじめて知りました。

あと鴨川と言えば、三条大橋から四条大橋にかけて等間隔に並ぶカップルが有名ですね。ご存知ですか?鴨川に沿って、川岸にカップルが間隔を空けて座るんです。10組とか20組とか、もっと続く。その様子がおかしいみたいで有名になりました。僕も何度もやってます。自慢とかではないですよ。だって、あれは全然カップルに限ったことではないんですから。

映画館で映画を見ますか?

映画館で映画を見ますか?僕は映画自体はときどき見るのですが、映画館へは滅多に行きません。だいたい家で見ることが多く、昔はレンタルビデオを借りてよく見ていた。DVDになってからも借りてよく見ていた。そして今はNetflixかAmazonプライムで、自宅で見る。映画館で映画を見るのはいろいろとハードルが高い。

まず、映画館まで行くのがめんどくさい。行って帰ってくるだけで時間もお金もかかる。近所に映画館があれば、もっと通っていたかもしれない。次に、それなりに料金がかかる。映画館で見る体験にお金を払うのだから当然だけど、その料金分だけレンタルやNetflixに比べてハードルが上がってしまう。割引の日はなかなかタイミングが合わなくて、いつも正規料金を支払って見ている。映画館だと周りを気にするのもある。自分はアレルギー持ちでしょっちゅうくしゃみをするから、体調が悪いと映画館に行くのをはばかる。うるさいし、風邪ではないんだけど風邪だと思われて面倒だ。気軽にトイレへ行ったり、食べたり飲んだり、もの音立てられないのもハードルが上がる。最後に、僕は一人で映画館に行かないから、誰かを誘うというハードルがある。一人で行くのは人を誘うよりもハードルが高い。一人で行ったこともあるけれど、よほど見たい映画でないとわざわざ一人で映画館には行かない。

こういった映画館へのハードルは、映画好きの人や映画館へ行き慣れている人なら、やすやすとクリアしてしまう。慣れていないだけだと言えば、それまでだ。数えたら、今年は16本映画を見ているんだけど、映画館で見たのはわずか2本。「1917」と「家族を想うとき」だけ。去年は43本中、映画館で見たのが4本。映画館で見るという体験を特別視しすぎているせいか、ハズレ(楽しめない映画)を引くことを異様に恐れている。だから余計に足が引ける。アタリである確率が高いと踏んだ映画しか、映画館で見なくなっている。

子供の頃は、もっと気軽に映画館へ通っていた。アクション大作があると、だいたい親に連れて行ってもらっていたから、駄作であるとかどうとか考えたことなかった。だからけっこう駄作も映画館で見ていたと思う。今もそれぐらいの心持ちで映画館へ行けばいいんだけど、なんだか気後れしてしまう。初めて映画館で映画を見たのは、4歳ぐらいだろうか。人形劇みたいな西遊記だった。親が映画ファンだったから、その後も何度となく親に連れて行ってもらった。好きだった映画館はスカラ座で、今はもうない。「ターミネーター2」を見に行ったときは、行列に並んだ。「フォレスト・ガンプ」も映画館で見た。

中学生になると、友人だけで映画館へ行くようになった。「トイ・ストーリー」「ラッシュアワー」などを見に行った。「シックス・センス」も映画館で見た。高校ぐらいから、映画館には全然行かなくなったように思う。記憶にない。高校のときの記憶がないだけかもしれない。大学生の頃は、二条の映画館に彼女と何度も足を運んだ。「イルマーレ」などを見た。僕の趣味ではない。映画が終わったあとに別のフロアのゲーセンで遊んで、その後また別のフロアのレストランに入って食事をしていた。バイクで行っていたからお酒は飲まなかった。

ときどき父と見に行ったこともあった。「硫黄島の手紙」など。あまりいい映画ではなかった。会社員のときなんて、本当に全然映画館に行ってない。大阪と名古屋に住んでいたが、どちらの映画館にも行ったことがない。どこにあるのかも知らない。トロントにいたときは、映画が安くて日本人の間でも映画館に行くのが流行っていたけれど、僕は一度も行かなかった。字幕無しで全部聴き取れるほど英語がわからないから、見てももったいないと思った。今思うと、わからないなりに見ていてもよかったかもしれない。

中学の頃から映画好きの友人がいて、ときどき一緒に映画を見に行ってたんだけど、今はもう連絡がとれなくなった。彼と最後に見たのは「この世界の片隅に」。僕にとって映画館は、人と一緒に行く場所で、そういう付き合いがないと全然行かなくなる。映画館に行かなくても映画はずっと見ていたから、映画好きの人と知り合ったり、話すことはできた。ここ数年で知り合った人と、ときどきまた映画館へ行くようになった。出町座、みなみ会館、京都シネマといったミニシアターの存在を知り、一緒に回った。

映画館は僕にをとって、ただ映画を見るだけの場所ではなかった。一緒に見に行く人との思い出の場所。見る時間と作品を共有するとっておきの場所だった。見に行く相手さえいれば、映画館のハードルなんて簡単に下がる。

タンクトップは涼しい

奥さんにお題を募集したら「タンクトップ」と言われた。タンクトップ??はい、タンクトップはよく着ています。いつ頃からだろう?大学生の頃には着ていた。それ以前は覚えていない。なぜタンクトップを着るのか、それはもちろん暑いから。夏の暑い日にしか着ない。Tシャツとタンクトップだけでもけっこう違う。開放感が違う。

古い記憶では、ヴィレッジヴァンガード北山店の地下で二着購入したのを覚えている。グレーとオレンジのボーダー。もう一着は忘れた。これはいつ頃着ていたっけな、昔の写真がないからわからん。その後ドメスティックブランドの、牛柄を反転したタンクトップを着ていた。これは会社員の頃。そしてついに、ユニクロのタンクトップに行き着く。当時は3枚入りで1,000円しなかった。しかも綿100%だった。その後ポリエステルが含まれるようになり、買わなくなった。今着ているのも当時のユニクロタンクトップと、GAPのタンクトップ。黒とカーキ。無地です。

変わり種としては、ミハエル・シューマッハとアイルトン・セナが描かれたタンクトップを持っていた。今も持っているが、全く着ていない。気に入っていたのは、アメリカ西海岸で買ったBig sur と書かれたタンクトップ。薄い黄色の生地がベースで、波の絵も描いてある。まさにBig surで買ったもので、Big surとは地名。ビートニクが好きな人は知っている。着れなくなるまで着倒した。

その当時ちょうど、ビートにはまっていたのだった。でもジャック・ケルアックの路上はわけわかんなくて、映画もちゃんと見なかった。「死にたいほどの夜」という映画はDVDを買って見た。ビートのことはいまだよくわかっていない。サンフランシスコでそういうムーブメントがあったということぐらいしか。

タンクトップを買うときに注意しないといけないのは、サイズ。大きめがいいと思って買うと、紐が長いタイプは昔のレスリングタイツのように、乳首がはみ出してしまう。首元があまり開いていないタイプであれば、大きめでも問題ない。

タンクトップにファッション性は求めていない。主張もスタイルもない。ただ涼しければいい。タンクトップを着るときは、だいたい短パンを穿いている。暑いからだ。暑い国を旅行する際にも、だいたいタンクトップだった。旅行するときはめちゃくちゃ便利です。リュックに3枚詰めても生地が少ないから全然荷物にならない。洗っても干しておいたらすぐ乾く。旅行者はみんなタンクトップ着るんじゃないかなー。欧米人もだいたい着ている印象。

大阪に住んでいたとき、クラブに入ろうとしたら「タンクトップでは入場できません」と言われた。ドレスコードらしい。しかたがないから近くのコンビニでTシャツを買って入った。このルールって全国的なの?全然知らなかった。クラブには数えるほどしか行ったことがない。カナダにいるときに一番行った。他にやることなくて。カナダはさすがに寒いから、タンクトップではなかったような気がする。

奥さんは僕のタンクトップ姿が好ましくないようで、理由を聞くと「ショタっぽいから」と言われた。よくわからない。膝上のショートパンツもよく穿いていたんだけど、それはやめてと言われ、結婚してからは穿いていない。涼しいんだけどなー。

インスタント麺は何が好きか

おとついから始めた、どうでもいいテーマで書くどうでもいいコラム。今回のテーマは「インスタント麺」。テーマを募集したところ、奥さんより提示された。

なぜインスタント麺なのかというと、おそらく本人が好きだからだろう。コンビニやスーパーで、季節限定の珍しいものがあると買ってくる。もう二度と再販されないであろう、一発企画モノインスタント麺があると必ず買ってくる。珍しい味を試したいようだ。僕にそんな趣味はない。

僕がインスタント麺を食べる理由は「安いから」と「めんどくさいから」に尽きる。コンビニブランドだと100円ぐらいから買えるものもあり、お湯を注ぐだけ。カップラーメンや焼きそばをよく食べていたのはいつだっただろう?中高生の頃も、昼食でよく食べていた記憶がある。あまりに昔過ぎてはっきりとは覚えていない。会社員の頃は昼食でよく食べていた。カナダやオーストラリアにいたときは、カップではなく袋に入った即席麺を食べていた。ガーナにもインドミーというインドネシアの即席麺があった。けっこう常に食べているな。

僕が食べていたそれは、奥さんのような遊びではなく、いつでもどこでもれっきとした食事であった。インスタント食品は健康に悪いと言われていたから、なるべくサラダやおにぎりを併せていた。ただ、エースコックの社長は自社の春雨ヌードルを自ら毎日食べていると言っていたので、害はないのだろうと多少信用していたところがある。

インスタント麺の何が好きかと聞かれたら、即座に答えられるだろうか?僕の場合は、よくよく考えたところで答えられない。そんなにこだわりがない。カップヌードルだったらなんだろう、プレーンな味はあまり買わないかもしれない。シーフードとカレーを行ったり来たり、塩とか味噌は味の記憶がない。チリトマトはあんまり。トムヤムクンも覚えていない。欧風カレーチーズはおいしかった。クリーミーシーフードもあれば買っていた。じゃあカップヌードルのお気に入りはクリーミーシーフードということにする。挙げていけば答えられるもんだ。

焼きそばはUFOかペヤング派かで分かれる。それ以外に一平ちゃんとかあったっけ。松村邦洋は今何やってるのだろう。ペヤングは大盛りしかなくて、食べづらかった。UFOはソースがあんまり。でも実家に住んでいたとき買い置きがあって、家でよく食べていた気がする。UFOを買って会社で食べようとしていたときに一度、お湯を抜こうとして麺ごとドバっと流しにこぼしてしまったことがあった。それを同じ会社のおっさんに見られて「それほんまにやるやついるんや!笑」とめちゃくちゃ笑われた。

辛ラーメンはカナダでもガーナでも日本人や韓国人に流行っていた。僕は特別好きではない。おいしいとは思うけど。オーストラリアにはインスタントのミーゴレンが何種類もあり、いろいろ買って食べていた。めちゃくちゃ辛いけれど、飽きない。袋麺だから具なし。栄養バランスなんてあったもんじゃない。ガーナで売っていたインドミーは、日本でもカルディ等で買えます。そんなにおいしくないけれど、ガーナにいた頃は他に即席麺がないから仕方なく食べていた。

理想のカップ麺の食べ方は、友人数人と深夜のコンビニへ出向き、その場でお湯を入れて駐車場で食べる食べ方。田舎のヤンキースタイル。インスタント食品を含むコンビニ飯は、仲間内で集まって食べるのが若かりし頃の思い出であった。今の子供もそんなことするのだろうか。

うなぎの話

今年に入ってから、何年かぶりにうなぎを食べた気がする。何度か食べる機会があった。うなぎなんて長い間食べていなかったような、まあ僕のそういう記憶はあいまいだから気のせいかもしれない。でもうなぎはめったに食べない。自ら進んでうなぎ屋に入ったことがない。うなぎを食べに行こうと誰かを誘って行ったこともない。昔働いていた大阪のオフィスの近くにうなぎ屋があって、前を通るたびにタレの匂いが漂っていたが、結局一度も入ることはなかった。うなぎが嫌いなわけではないけれど、機会に恵まれなければずっと食べないでいるだろう。僕にとってのうなぎとは、そういう食事だ。

2年ほど前、うなぎ絶滅のニュースがあり、値段が高騰していたことを覚えている。だから僕はてっきり、うなぎは絶滅したものだとばかり思っていた。だけど今年は普通に売っていて、普通に食べられた。普通の値段で。うなぎはいつの間に復活したのか。養殖しているはずだから、天然物は絶滅して養殖だけになったのか。そもそも絶滅なんてなかったのか。うなぎのいなくなった世の中になっても困りはしないが、やや残念ではある。その程度にうなぎは嫌いではない。

まずいうなぎもあるのだろうか。中国産がどうとか言われていたが、今のところ中国産のうなぎは食べたことがない。そこまでしてうなぎを食べたいと思わない。牛丼屋にも一時期うな丼のメニューがあった。多分安いと思う。しかし、わざわざ牛丼屋で安いうな丼を食べようと思ったことがなかった。そこまでしてどうしても食べたいほどうなぎが好きではない。でもやはり、安いうなぎはまずいのだろうか。それは気になる。食べようとは思わないが。

うなぎを自ら食べに行かない理由の一つとして「高いから」というのは大きい。魚のどんぶりがなぜ3,000円とか4,000円とかするのだろう。希少価値なのか、調理が難しいのか、うなぎそのものが高いとしたら希少価値なのだろう。僕が一番うなぎを食べていたのは、名古屋に転勤していた頃だった。3年ばかり名古屋で過ごしていたんだけど、その3年の間に何度もひつまぶしを食べることになった。うなぎなんて1年に1回食べればいいほうで、それもない年はいくらでもあったのに、名古屋にいたときだけ年に数回ひつまぶしを食べていた。飽きなかった。

特別に好きなわけではいうなぎを、名古屋にいたからって、なぜそんな頻繁に食べることになったか。それは仕事で東京からお客さんを迎えることが多かったから。東京から人が来ると、名古屋のご当地メニューでもてなすことになっていた。そのときにうってつけだったのが、ひつまぶしだ。うなぎを嫌いな人は少ない。それに、他の名古屋名物って、味噌カツにしても名古屋コーチンにしてもB級グルメばかりで、お客さんをもてなすには物足りない。だから必然的に毎回うなぎが選ばれるのであった。仕事だから割といい店ばかり。

こういうとき、地元京都だったらどこにお客さんを連れて行くのだろう?僕は地元で働いたことがないから見当がつかない。わかりやすい京料理の店なんてあるのか?あるんだろうけど、行ったことがない。そういう堅苦しい付き合いが今後あるとは思えないから、あまり考えなくていいのかもしれない。友人が市外から来たら、京料理などではない近所の店に連れて行くと思う。

スーツを買った

少し前にスーツを買う機会があった。スーツを買うのはいつぶりか。最後に買ったのは、おそらく2010年かそれぐらい。だいたい10年ぶりに買うことになる。そうやすやすとポンポン買うものではないが、それにしても10年となると久しぶりだ。スーツ自体は、実は買わなくても何着か持っている。しかし普段着る機会がないと、着やすい一着しか袖を通さない。それも会社員を辞めてからは、数回しか袖を通すことがなかった。着ないスーツはただ持っているだけ。捨てられないで残っている。

「スーツ着るときはこれ」と決めていた一着が、かなり傷んでいた。特段いいものではないから、仕立て直すほどのことでもない。10年も経てばサイズも変わっているだろう。この機会に新調することにした。どんな機会にも着ていけるような、黒の3シーズンものにした。値段にして5万円ほど。服としては安くないが、スーツとしてはかなり安い部類に入る。高いスーツを買ったところで、今後それが映えるような場に出向くと思えない。

会社員の頃は、毎日スーツを着ていた。だからたまにスーツを着ても、なんとなく馴染む。僕はスーツが嫌いだったけれど、5年以上の間、毎日スーツで過ごしていたから着慣れていると思う。これが、意外とよく分かる。普段会わない友人と結婚式などで会ったとき、日常的にスーツを着ているのかそうでないか、スーツを着慣れているかどうか、見ただけですぐわかる。会社員の人間は、結婚式のような場にいても、いかにも会社員らしいスーツの着方をしている。スーツを着慣れていない人間は、衣装を着せられている感じがある。着物などが、着慣れている人と着慣れていない人ですぐに見分けがつくのと同じ。

僕はスーツが好きではないから、会社員の頃はずっとスーツを着なくていい仕事がうらやましかった。同業者でもスーツを着ない会社があって、男性でもオフィスカジュアルだったり、Tシャツの人と取引があったり、付き合いがあった。なぜ自分の会社は頑なにスーツを着続けるのだろう?と疑問に思っていたが、単にそれが慣習であったり、マジョリティだからだろう。何も考えずにただスーツを着続けるほうが楽だからだ。

夏のスーツは暑すぎて、特に嫌だった。僕が入社した当初は、夏でもネクタイを締めてジャケットを羽織るのが当たり前だった。それが、小泉首相が急にクールビズとか言い出して、夏だけジャケットもネクタイもなくなった。導入の年はすごく違和感あったが、今はもう当たり前過ぎてクールビズなんていう言葉自体なくなっているんじゃないかな。今までは夏でも律儀にジャケットを羽織ってネクタイを締めることがマナーとされていたのに、お上の一言でこんな簡単に慣習がなくなってしまうなんて、その程度の慣習・マナー・ルールに一体どれほどの意味があるのか、と思ってしまった。それを必死に守って、守らないものを糾弾していた人たちはいったい何だったのか。

世界一の企業であるAppleの、故スティーブ・ジョブズがスーツを着ていたのは若い頃しか知らない。マーク・ザッカーバーグも当初は短パンにサンダル姿だった。今はスーツを着るようになって残念だ。スーツなんか着なくていいのに、と思う。好きで着ているならいいんだけど。

サラリーマンを辞めてから7年経つ。辞めて以降は、夏はタンクトップに短パン、冬はパーカー姿だった。ずっとそんな、貧乏学生か浮浪者のような格好で過ごしている。ただの薄汚いおっさんだが、服に凝る理由もなく楽だからそんな格好をしている。僕はそれでいいと思っている。着たい格好でいればいい。ただ、そうもいかないときがあって、スーツも一応持っておかないといけない。

革靴は、結婚したときにタキシードと合わせるために買った。その一足のみ。サラリーマンのときに履いていたものは同様に、クタクタになっていたため捨てた。結婚パーティーの際、タキシードは借りたんだけど、革靴も一緒に借りるなら1万円かかると言われた。借りるだけで1万円かかるなら、買ったほうがいいと思って3万円ほどの革靴を買った。これも靴としては決して安くないけれど、革靴なら安い方。Berwickというところのやつにした。

革靴も、会社員になったばかりの頃は履き慣れなくて、足のそこら中に豆や靴ずれを作っていた。1年ぐらい履き続けて、そうならない足になった。それにしても、革靴はこんなに硬く、痛くて履き心地も悪いのに、なんで現代にも淘汰されずに残っているのだろうと不思議だった。スニーカーのほうが楽じゃないか。履きやすい。革靴文化は終わらせていいと思う。履きたい人は履けばいいんだけど。

サラリーマンを辞めて以降はずっと、夏はサンダル、それ以外はスニーカー。一番履きやすいスニーカーはどれだろうと模索している。今履いているジャックパーセルは普通。VANSは履きやすかったが、雨が降るとすぐ浸水してしまう。スーパースターは割れる。エアフォースワンはバッシュだから重い。オールスターは底が薄すぎ。迷っていることが中学生のようだ。

良いスニーカーがあったら教えてください。雨に濡れても浸水しすぎなくて、クッション性もあって、軽く履きやすいもの。好みの範疇になってくるから、人の意見はそんなに当てにならず採用しないかもしれません。PATRICKはまあまあよし。サンダルはTevaが快適すぎて十分。

猿岩石日記を読んだ

深夜特急をはじめ、いくつかの旅行記を読んできた。しかしなぜか、猿岩石日記はこれまでに通らなかった。理由の一つとして、あまり見かけなかったというのがある。猿岩石日記は250万部売れたベストセラーであるにもかかわらず、今ブックオフなどで売られている姿をほとんど見かけることがない。それこそ僕が中学生、高校生の頃には必ずあったような気がする。しかし当時は旅行本なんて読まなかった。

猿岩石日記は「ブックオフ大学ぶらぶら学部」でその名前を見かけ、そういえば読んでいないなーと思いメルカリで購入するに至った。まちなかの本屋、ブックオフには並んでいないけれど、メルカリやブックオフオンラインには在庫があり、購入することができる。Amazon等でも中古なら手に入る。1996年だから、25年近く前の本か。もちろん絶版。

  • 猿岩石って誰?
  • ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
  • 猿岩石日記
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コロナ禍に入って半年経ちました

8月が終わり、3,4,5,6,7,8で6ヶ月、コロナ禍に入ってから半年が経った。コロナ禍は第二波の感染拡大もあり、累計感染者数は2457万人、最近では毎日25万人近くの人に感染が広がっている。累計死者数は83万人を数えている。

日本だけを見ても、現在の状況は緊急事態宣言が出ていた頃より、マスクが品切れになっていた頃より、トイレットペーパーがなくなった頃よりも悪い。あの頃は街に人が全然いなかった。バスも電車もガラガラだった。みんな家から出なかった。しかし今はもう街に人がたくさんいる。バスも電車も以前と変わらない様子で、外国人観光客だけが姿を消した。飲食店にも人がたくさんいる。マスクをしなくなった人もたくさんいる。しかし、感染者数は3月4月より今のほうが多い。

僕自身も仕事を再開した。感染症対策も拡がり、アルコール消毒やマスク、換気を徹底して、同時に接触する人数が多くならないような形で、営業を再開している。ドイツやイギリスのように政府が保障してくれない以上、死の危険が伴うとしても、日本国民は経済活動を再開せざるを得ない。

最近、知人の一人からこんな言葉を聞いた。

「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」

耳を疑った。この言葉には、(ダイジョブっしょ)という反語が含まれている。ああ、そういう意識の人いるんだな、と思った。でもこの人は、2月の段階で人一倍コロナに怯えていた。隣で少し咳をするだけで、全身をビクつかせていた。そして3月以降は全く会うことがなかった。つい最近再会して、「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」という言葉を口にしたから驚いたのだ。あれだけ心配していたのに、そして今のほうが当時より状況が悪くなっているというのに、この人はなぜ急にこんな態度を変えたのだろう?

最近では四条烏丸のマクドナルドや、大丸の地下フロアといった、京都に住んでいれば多くの人が行き来する四条烏丸エリアでも続いて感染者が出た。京都は3月の段階で15人感染者が出て騒いでいたが、最近は30人近くになることも珍しくない。40人を超えたこともあった。身の危険を感じるなら当時より今だと思うんだけど、知人はそうではないらしい。

知人は今、結構な頻度で仕事帰りにバーへ出向いたり、人と会って食事したりしている。3月4月だったら考えられなかった。ではなぜ今安心しているのか。なぜいま危機感が薄れ、無防備になっているのか。現実には、コロナはおさまっていない。それはデータだけ見てもわかる。

身の周りでは、今もなるべく人との接触を避け、外食を控え、感染予防を徹底している人が少なくない。しかし中には知人のように(ダイジョブっしょ)という心持ちでコロナ禍以前の生活を取り戻した人もいる。

「コロナなんて大したことない」という態度をずっと貫いている人もいる。そういう人は元から主義主張が一貫している。でも知人はそうではない。世間が自粛ムードのときは人一倍怖がり、今のように緩やかにおさまってくると人一倍(ダイジョブっしょ)という態度を取り戻す。

そうか、知人はコロナなんて見ていなかったんだ。コロナの感染者数、再生産数、感染したときの症状、致死率、後遺症、そういうことは元から気にしていなかったんだ。知人が見ていたのは、世間の空気だったんだ。知人が今コロナを心配しなくなったのは、世間がそういうムードになったからだ。ムードに乗っかり、感染予防を重視しなくなった。

もともと"自粛"という言葉に違和感があった。僕自身は感染予防のために外出を控えたり、人と会うことを控えたりしているが、それが自粛だという意識はない。世間の目を憚って自粛しているわけではない。だから"自粛"に怒っている人のことがよくわからなかった。彼らは本当は外出したいのに、人と会いたいのに、世間の目を憚って我慢して自粛していただけらしい。

そういう人はやはり、データよりも、周辺の事実よりも、感染症予防よりも、世間の空気がマターなのだろうか?だから「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」(ダイジョブっしょ)なんていう態度で今日も過ごすのだろうか?

理由のわからない執着が人に恐怖を与える

これを読んでいて思ったこと。

開くのめんどくさい人のためにざっくり説明すると、女の人がビジネスホテルに泊まった際、エレベーターですれ違った男性が、自分の部屋のドアの下から、LINEのID書いた紙滑り込ませてきた。ドアののぞき窓を見ると、その人が這いつくばってドアの下を覗いていた、という話。その先は全部読んでいない。ちょっとしたホラーだが、現実にあった話ということです。

紙にLINE書いてドアの下に入れ、その紙が取られたか確認するためにドアの下覗いている男性の行動はヤバい。不審者だし、自分が同じことをされたり、女の人が自分の知り合いだったりしたら、その男性に詰め寄っていただろう。「気持ち悪いんじゃー!」と。

この男性が性犯罪者だったのか、ナンパのつもりだったのか、一目惚れだったのかはわからない。だけど女性は明らかに不審感を持ち「狙われてる!」と感じたようだ。まあ性犯罪者だとしたらわざわざLINEから入ろうとするのはどう考えても回りくど過ぎておかしいんだけど、とにかく女性は身の危険を感じた。男性の、LINEを紙に書いてドアの下から滑り込ませ、受け取ってもらえたかドアの下から覗き込むというアプローチは、大失敗に終わった。

それでは、この男性はどうするのが正解だったのだろう?

女性からすれば、「何こいつ?」と思っただろう。エレベーターですれ違っただけの人、会話もない見ず知らずの人が、ドアの下から『さっきエレベーターで会った者です。よかったらLINEください』と書いた紙を入れて、ドアの下から覗き込んでいた。相手がどんなにかっこよくてタイプで、金持ちだったとしてもこの行動はナシだろう。ギョッとする。

なんでエレベーターですれ違っただけで、そんな行動をとるのだろう?なぜ私なのだろう?なぜLINEの紙を入れてきて、取ったか確認するほど必死なのだろう?なぜそんなに執着してくるのだろう?ヤバい人だ!という風に、男の僕が、仮に同じことをされてもそう思う。

この男性のアプローチは、それが性犯罪かナンパか一目惚れかにかかわらず大失敗だ。なぜ成功すると思ったのだろうか?成功例があるのだろうか?この紙をもらって「LINEのしよ」と思う人がいるのだろうか。ちょっと考えられない。そこまで想像力が働かなかったのだろうか?

この男性はもしかすると、自分の部屋のドアの下に、さっきすれ違っただけの人が書いたLINEの紙があったら、登録する人なのかもしれない。そんなやついるか?いるかもしれない。違和感なくこういう行動を取れるってことは、本人にとっては自然なことだったのかもしれない。だとしたらこの男性は、あまりにも他人を知らなすぎる。自分の基準だけで行動を決めてしまったのだろう。

エレベーターで話しかけるのはアリか?

LINEを書いた紙をドアの下から入れてくるという行動が、絶妙な気持ち悪さをかもしだしている。その上、ドアの下から覗いていたのはホラー映画並のゾゾ気行動だ。なぜそれが気持ち悪いという事に気づかないのか。この男性が、かろうじて許された行動とはなんだっただろう。エレベーターですれ違ったときに気になっていたなら、その場で話しかけるのはアリだっただろうか?

実際のところ、エレベーターですれ違ったときに話しかけるのもギリギリアウトじゃないだろうか。海外ドラマのキャラクターのように超絶フランクでコミュ力があるか、もしくは相手がそうでなければ、エレベーターですれ違いざまに話しかけるのさえも成り立たない。少なくともこの男女二人は絶対アウト。下手すると「すみません、このホテルって一階に売店ありましたっけ?」と聞くのさえアウト。「なんなのあの人気持ち悪い」と、この女の人なら思いかねない。

結論としては、何もしないのが正解。

せいぜいアリだった行動とは?

じゃあこの男性は、女性に対してどういうアプローチならあり得ただろうか。次の日の朝食バイキングで声をかけるのはアリだったか?「同じテーブルいいですか?」は絶対アウト。気持ち悪い。その先の会話力が絶妙にあるなら成り立つが、まず無理だろう。「今何時ですか?」も不自然。自分で見ろって話になる。「すみません、今日この辺の天気ってご存知ですか?スマホ部屋に忘れてきて」とかもちょっと変だけど、親切な人だったら天気ぐらい調べて教えてくれるかもしれない。とにかく見ず知らずの人だったら、相手が誰でもいいような質問から入らないとまず気持ち悪がられる。「何なのこの人?何で私に?」と思われるんじゃないだろうか。

実際この男性は、この女性に対してよくわからない執着をしているんだけど、それが相手に伝わってしまうと不審感になる。それが恋心であれ、性欲であれ、友だちになりたいという気持ちであれ、等しく気持ち悪い。だからその執着を悟られない話しかけ方が最善だと思われる。

いや、まあ何もしないのが一番いいんだけど。

ナンパの成功に必須な条件は、おそらくその軽さだと思う。誰でもよさ。余裕のある感じ。この男性は全部その逆をいってる。エレベーターですれ違っただけの人が、LINEの書いた紙をドアの下に滑り込ませて、ドアの下から覗き込むという行為は、重いし、自分に対する執着を感じるし、必死さを感じる。ナンパだとしたらうまくいくわけがない。いや、ナンパしたことないけど。

だから、僕が個人的に思うのは、よく知りもしない人に執着しないことが大事なんじゃないかな。なんでその人にこだわるのか?理由がわからない。たまたま仲良くなった人の方が自然だろう?執着するにしても、それまでの流れがあったほうが自然だ。ただエレベーターですれ違っただけで執着されたらたまったものではない。なにか思いついたら追記します。