夢で見る自分の姿

寝て見る方の夢です。人の夢の話を聞くのが何よりも嫌という人が世の中には一定数いて、これからその話をします。僕はよく、同じ夢を見る。内容が全く同じという意味ではなく、夢の中で、いつもの標準的な自分の姿を見る。夢の中の僕は、途方に暮れていて、貧しくて、一人で、明日をも知れない生活をしている。いつも同じ。

例えば昨日見た夢。僕は日本に帰国したばかりで、地元の駅にいた。年齢は30代、荷物はバックパックが全て。これからどこに泊まるか考えている。今さら実家にも帰れず、でもお金がないから最終的には帰るしかないのかと考えている。

とりあえずどこか泊まるところを探して、働き口を見つけ、その日暮らしにしても、生活費を手に入れないといけない。知り合いのつてを探している。誰に相談できるだろう。やりたい仕事とか、やりたくない仕事とか言ってられない。今手元にあるお金で何日もつだろう。夢の中で僕は、妹に連絡を入れていた。実家から何か自分の荷物を持ってきてもらっていた。

こういう生活が長かった。貯金を切り崩しながら、毎日最低限の出費で暮らす。なるべく家賃の安い部屋に住み、バイトをして、この次にどうするか考えながら今をやり過ごす。意味も目的も発展性もない時間。ただ暮らすだけ。飽きると場所を変えていた。同じことが続くだけなら、この先に展望などなくてもとりあえず行ってみるかと思って、次に進む。その繰り返し。

最初に、先がないというか、先に望むことが何もないなと思った。それから月2万5千円の部屋で、何もせず毎日ダラダラと暮らしていた。ときどき少しだけバイトをした。本当はもう少し続けるつもりだったけれど、このまま同じことを続けても退屈だと思い、半年で切り上げることにした。人生で一番自堕落な半年だった。

それから初めての土地に来た。ここからどうするか、いろいろ調べた。とりあえず安いところに寝泊まりして、バイトを探した。特殊技能があるわけではなく、どこも雇ってくれなかった。募集自体が少なかった。その間もっと安いところに引っ越した。2ヶ月ほどただバイトを探し続けた。

ネットで見つけた、寮付きの肉体労働のところへ行くことにした。今度は郊外へ引っ越し。そこでまた初めてのバイトをする。怒声を浴びせられ、うんざりされ、我慢しながら努力して仕事を覚えた。めちゃくちゃつらいわけではなかったけれど、やはり退屈な日々だった。心身と時間を摩耗していた。半年続けた。

次に何をするとか、あてもなくバイトを辞めて寮を出た。また別の街に引っ越した。バイトを探して、トライアルを受けるが全然できない。自分はもともとデスクワークしかやってこなかったから、手を動かしたり急がなければいけない仕事が何もできない。潰しが効かない。このままだと肉体労働で貯めた貯金を切り崩すだけになる。

別のことをやろうと思った。前々から少し考えていたけれど、引き伸ばしていた。もう他にやることがない。実家に帰り、次のことを始めるまでいさせてもらえるように頼んだ。説明会へ出向き、勉強して、面接を受けた。二次面接へ進み、落ちた。

とりあえず目の前の目標として掲げたものに届かず、でも他にやることがなく、もう一度受けることにした。今度は一次選考で落ちた。実家に居座って二度の選考期間が過ぎ、1年が経っていた。毎日酒ばかり飲んでいた。そろそろ働いてくれと言われ、バイトを探した。何もできない自分にもつとまる、居るだけでいいバイトが見つかった。一人で生活できるほどの給料は出ないため、実家から通った。

親からはもうあきらめろと言われたが、あきらめても他にやることがない。三度目を受けた。前回、前々回の傾向と対策を練った。その期は応募人数が少なかったおかげで通った。1年続けたバイトを辞め、2年居座った実家を出た。研修に入り、ひたすら勉強が始まった。

それは僕に向いているとか、やりたいとか、そういうことではなかった。とりあえずそちらに進んだからやるだけ。ただ目の前のことに取り組んだ。特に優れた成果は出なかった。あいかわらず意味や目的もない。その場しのぎ、続けられなくなったらまた次を探す。その繰り返し。これが3年前のことで、今はもうその現場にいない。

そういう生活をずっと続けてきた。思い返せば、子供の頃からずっとそうだったんじゃないか。僕にとって生きるということは、こういう無為な時間を過ごし、また繰り返していくことだった。その間作っては崩し、作っては崩し、何一つとして積み上げてこなかった。

知り合う人はその場限りの付き合いで、次の場に移れば連絡を取り合うこともない。すぐ疎遠になった。お互いがその存在を忘れていった。その場限りの意味や目的や人間関係は、その場限り以上のものにはならなかった。

会社員を辞めるとき、偉い人から「これからどうやって生きていくのか」と聞かれた。サラリーマンとして転職しないことを伝え、この先のことはわからないと言った。僕自身が本当にわからなかった。わからない、ではいけないのだろう。でも僕は彼らと違って、嫁も子供もおらず、責任はないと思っていた。

今は一旦落ち着いている。かろうじて生活できている。目先のことを考え、お金を貯めたりしている。いつまで続くかはわからない。今の落ち着いた状態がずっと続けばいいと思っている。それでも寝て夢の中で見るのは、馴染みのある毎日。僕は途方に暮れていて、貧しくて、一人で、明日をも知れない生活をしている。それが本来の自分の姿なのだと思う。

今読みたい本、気になる本を片っ端から挙げていく

本を読むのが遅い。読んでる最中にどんどん気になる本ばかり増えてきて、収拾つかない。最近はあんがいInstagramを見ていて読みたい本が出てくる。中身には何も触れられないんで、ほぼ装丁のみの判断だからなかなかその先には至らない。ちゃんと紹介したりはしない。ただ片っ端から挙げていくだけ。

  • 謎ときサリンジャー:「自殺」したのは誰なのか|竹内康浩・朴舜起
  • BRUTUS 村上春樹特集
  • 何もしない|ジェニー・オデル
  • 最後に残るのは本
  • 資本主義と闘った男―宇沢弘文と経済学の世界|佐々木 実
  • ユリシーズ|ジェイムズ・ジョイス
  • 完全な真空|スタニスワフ・レム
  • 愛についてのデッサン|野呂邦暢
  • 百年の孤独|ガルシア・マルケス
  • ケンタウロス|ジョン・アップダイク
  • ザ・ロード|コーマック・マッカーシー
  • ビルマの日々|ジョージ・オーウェル
  • 真夜中の子供たち|サルマン・ラシュディ
  • うろん紀行|わかしょ文庫
  • ことばの途上|岩瀬崇
  • 心臓を貫かれて|マイケル・ギルモア
  • THIS ONE SUMMER|マリコ・タマキ作/ジリアン・タマキ画
  • 地球の歩き方的! 世界なんでもランキング
  • 愛の台南|川島小鳥
  • 世界|佐藤健寿
  • 写真集の本 明治~2000年代までの日本の写真集 662
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レコードが所有欲を満たす場合

CD世代です。子供の頃、CDは高くてそんなに買えなかった。主にレンタルしてカセットに録音するか、中古CDを買っていた。高校に入りバイトするようになってから、徐々に新譜も買えるようになってきた。高校の同級生で、「CDは物として手に入れたい」と言っている人がいた。その人は言葉通り、たくさん買っていた。僕はそういう「物としての価値を手に入れる」というよりは、とにかくたくさんの音楽に触れたかった。だから買うよりレンタルしてデータとして取り込んで聞いた。ちょうどMP3が流行りだした頃だった。

自分の好きなもの、欲しいと思ったものを買いたい気持ちは、今だったらよくわかります。特に最近レコードを買うようになってから、なおさらその気持ちが強くなってきた。CDはデジタル音源であり、データや配信の音とそんなに変わらない。しかしレコードは物から直接出ている音であり、楽器の音を聞いているような、そういう物理的な実感がある。その音源を所有することには、CDとは何か違った別の喜びを感じる。

CDは、CDにしか収録されていない曲があったり、配信にないものがあり、それは物として所有する価値がある。また初回特典には、音源のみならずステッカーやポスターなど、配信やデータで得られない物も多い。

レコードにも初回特典はあった。レコードのサイズを生かしたそこそこ大きいポスターなどがある(帯なんかもよく言われるけど、僕はあまり価値がわからない)。それ以外に、限定盤がたくさんあることを知った。レコードの限定盤は、CDの特典とはまた別の所有欲を満たしてくれる。

  • ピクチャーヴァイナル
  • カラーヴァイナル
  • 重量盤
  • ハーフスピードマスタリング
  • マスターサウンド
  • Promo盤
  • 買うべし
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小説をあまり読んでいない

どれぐらい読んでいないかというと、最近指標になるなーと思ったのが、保坂和志を読んだことない。本好きの人はけっこうみんな読んでいる印象、保坂和志。

流行りの本や文学賞受賞本も全然読んでいない。一番最近に読んだ芥川賞受賞の小説は「されどわれらが日々」で、なぜ今?と自分でも思うような学生運動にまつわる内容だった。その前に読んだのは「コンビニ人間」。

映画「花束みたいな恋をした」は本好き、東京カルチャーにどっぷり浸かった若者の映画だった。そこに出てきた本は何一つ読んだことがなかった。アキラの単行本とか、アキ・カウリスマキの「希望のかなた」はわかる。本になるとついてけない。

映画.comより、「花束みたいな恋をした」にまつわるリスト。

【麦と絹の好きな作家】
穂村弘
長嶋有
いしいしんじ
堀江敏幸
柴崎友香
小山田浩子
今村夏子
小川洋子
多和田葉子
舞城王太郎
佐藤亜紀
野田サトル
ほしよりこ
市川春子
滝口悠生
小川哲
近藤聡乃
西村ツチカ

【ふたりの蔵書(ごく一部)】
朝井リョウ「何者」
阿佐田哲也「麻雀放浪記」
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」
梅佳代「じいちゃんさま」(写真集)
奥田英朗「イン・ザ・プール」
カート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」
角田光代「空中庭園」
川島小鳥「未来ちゃん」(写真集)
ジョージ朝倉「溺れるナイフ」
杉浦日向子「東のエデン」
手塚治虫「アドルフに告ぐ」
中野正貴「TOKYO NOBODY」(写真集)
花沢健吾「アイアムアヒーロー」
フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか ?」
藤子・F・不二雄「異色短編集 ミノタウロスの皿」
松本大洋「青い春」
三浦しをん「まほろ駅前多田便利軒」
宮沢賢治「童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇」
村上春樹「海辺のカフカ」
旅行ガイドブック「地球の歩き方」

映画のパンフレットにこのリストが載っているらしいんだけど、二人の好きな作家については、なんと一冊も読んだことない。 下手すると聞いたこともない人が多い。二人の蔵書ならさすがに知っていたり読んだこともある。「何者」「タイタンの妖女」「海辺のカフカ」あたりか。ジョジョとかマンガも触れている。歩き方はガイドブックだし。

花束指標がどれだけあてになるのか知らないけれど、これがかすりもしないのであれば、世の一般的な本好きが読む小説って全然読めていないんじゃないか。

では一体自分は何を読んできたのか。ここ数年分であれば、読書メーターに記録してきた。

小説にあたるのは、海外文学とSFが多い。ただそのへんにしたってたくさん読んでいるわけではなく、たくさん読まれているものを読んでいるわけでもない。古典か、少し前の本が多い。著者で言うとカズオ・イシグロが4冊で一番多い。それでも最新作「クララとおひさま」は読んでいない。

小説以外の方が多い。村上春樹のエッセイも多いし、自分は旅行が好きだったから旅行記だったり、旅行にまつわる本だとか。少し前は本にまつわる本、本屋本をよく読んでいた。メタ本とでも言うのか。ここ最近は日記本ばかり読んでいる。要するにどこに分類していいのかわからない本が多い。

雑多に濫読している。もう少し小説も読みたいなと思う。特に流行り物じゃなくてもいい。古いものでも、買って読んでいないものがたくさんある。小説はなぜか再読に偏ってしまって、なかなか新規が読めていない。最近やっと「騎士団長殺し」を読んだところ。手元にあるのに読めていなくて、読みたいのが以下。

世の一般的な本好きが読む小説っぽいの一冊もないですね。

十代の自分にアドバイスするなら

最近こういうトピックが何箇所かで続けて挙がっていたので、考えてみた。10代でも20代でもいいんだけど、若い頃の自分にアドバイスだったり励ますならどんな言葉をかけるか。

十代っていうと10歳から19歳にあたるが、まあ要するに中高生時代の思春期が中心となるだろう。そんな若い頃の自分がどうだったか、何を考えていたかなんて覚えていない。だから、10代の自分に一つ言えることは、10数年経つと全部忘れてるぞ。一生の恥とか一生残るようなことって、人から受けたトラウマとかはあるかもしれないけれど、自分がやらかしたようなことはなかった。気になるのは周辺の数年だけ。今から振り返れば(覚えてないんだけど)、全部大したことない。

昔のことは、常に覚えているというより、ふとしたことで記憶が蘇ることはある。それが苦痛だったり痛々しい記憶だったりすることも多々ある。ただまあ今となっては、そんなことどうでもよくなっている。当時の悩みをずっと引きずるようなことはない。だから、悩みから解放されたければ、長生きすること。そして今いる環境を抜け出すこと。僕なんかは逃げ続けた人生だったし、逃げずに続けておけばよかったなんて思うことは一つもない。

他の人には必ずしも当てはまらないと思います。過去の自分にかける言葉があるとしたら。もしくは未来。というか結局自分には今しかないから、過去とか未来とか関係ないのだと思う。先々のことを考えて何かすることはなかった。そうやって言われて行ったことが、何か役に立ったり残ったこともなかった。今できること、今やりたいことを十分にやればそれでいい。だから、もっと勉強しておけばよかったとか、もっと運動しておけばよかったとか、積極的に遊んでおけばよかったとかそういう後悔は全然ない。それなりにやってたかなと思う。まあ自分にはそれ以上の能力はなかったから、できる限りの行動はとっていた。

例えば、25歳ぐらいまで海外旅行には全く興味なかった。パスポートさえ持っていなかった。それが旅行どころか年単位で住むようにまでなった。10代の自分には思ってもみなかったことだろう。サラリーマンをやって辞めてその後はろくな仕事についていなかったり、どの部分も予想していなかった。30半ばで結婚したとか。僕はいわゆる結婚願望はいまだにないから、これも予想のしようがなかった。

この先にも言える。今やってること、好きなこと、考えていることなんて、10年後には全く変わっているかもしれない。10代の頃と今が地続きでなく、別人のようなのと同様に、40代50代の自分は今とは全く関係のない、その日々をそれなりに過ごしているんじゃないか。

10代の自分に言葉をかけるなら、「別にそれでいい、そのままでいい」になるかな。

『騎士団長殺し』の物足りなさ

2017年に出た本で、発売当時は出版イベントなども行われ、NHKクロ現プラスでハルキストも特集され話題になった。2019年に文庫化され、2020年には電子化もされた。「そろそろ読んでおかねば」と思い、重い腰を上げ『騎士団長殺し』を読んだ。ハードカバーだと2冊、文庫だと4冊分ある。分量が多い。だいたい一週間で読んだ。すらすら読める。

感想は、鬼気迫る物語ではなかったし、なかなかコミカルだったとさえ言える。これまでの作品と比べたら特にそう。暗い部分とか、悲痛な展開とかは全然ない。物語は穏やかで落ち着いている。山の上の小屋に住む、画家の生活がよかった。あれはけっこう憧れるんじゃないか。そして、雨田具彦の物語だったら、もっと感動激動スペクタクルだったんじゃないか。ユズはありえない。

村上春樹作品は読みやすいんだけど、直近だと『猫を棄てる』(エッセイ)の方がおもしろかった。著者の態度も本の中身も真に迫るものがあり、それに比べて『騎士団長殺し』はのんびりしていた。物語の舞台となる範囲も非常に狭い。『1Q84』や『多崎つくる』は冒険活劇だった。『ノルウェイの森』は別として、自分の中では『ねじまき鳥』越えはしていない。昭和生まれの平成育ちだからそう思うのだろうか。『海辺のカフカ』はあまりよくわからなくて、『ハードボイルドワンダーランド』はまあこんなもんかと思う。どちらも間を空けて二度読んでいる。

『騎士団長殺し』は以前にも増して、読者へゆだねる部分が多かったように思う。状況がどうなっているのか、よくわからない。主人公もよくわかっていない。検証はするが、説明はない。本当にない。読者は置いてけぼりを食らうか、主人公と一緒になって翻弄される。設定が本当にあるのかさえ疑わしい。「ココ思いつきで書いたんじゃないか?」という部分が散見される。補足が言い訳がましい。

『騎士団長殺し』の主人公は、まるでベルトコンベアのように運ばれていく。作家の色は存分に出ているんだけど、物語に対して主人公の意志であったり、エゴがあまり感じられなかった。あまりにも状況に翻弄されている。今回は「やれやれ」すらない。もうちょっとこう、主人公や作家の意志や判断がある作品の方が好きだった。

落ち着いてしまったのだろうか?そういう時代、世相だろうか。反抗とか反発とか、怒り暴力一切ない。あまりにも核心に迫らないから、人間味がうすいと感じた。ドストエフスキーみたいな激情ほとばしる物語が苦手だという人にはいいかもしれない。手近な範囲のファンタジーとして、終始落ち着いた心境で読み進めることができる。ハラハラドキドキは、うまく肩透かししてくれる。

これを評価する人はどう評価するんだろう?読んでいるときは楽しい。常に続きが気になる手法は、手練のそれと言える。ただ、読み終わると物足りない。もったいぶった割に、落ちは何も言ってないに等しい。最後まで読んで、腑に落ちた感覚はまったくない。最後まで解き明かされなかった謎に、思いを巡らせることもない。僕はやはり、『海辺のカフカ』以降はあまり乗れないなー。展開に乗れない。『国境の南、太陽の西』とかは好きです。

村上春樹小説の特徴として、理想的な環境を追体験する楽しさがあると思う。それさえも今回は落ち着いている。老成している。物語の序盤で携帯(スマートフォンとかiPhoneとは言わない)を捨て、山奥でアナログ回帰も甚だしいアナログ生活を送る。山ごもりブームのさきがけ、予感をしていたのか。

まあそれでも、新作が出たらいずれ読むだろう。一通りチェックする。『一人称単数』はまだ読んでいなくて、そのうち読むと思う。そういう層に支えられている。とりあえず読んでから、あれこれ思う。

ヒトコトへの回答㉓:「まじめな会社員」を読んで

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

68通目:「まじめな会社員」を読んで

こんにちは。いつも興味深く拝読させていただいております。突然ですが、冬野梅子さんという方の漫画を読んで(無料の範囲内でいいので)どう思われるのか、感想をお聞きしてみたいです。よろしくお願いします。

冬野梅子さんの漫画とは、これのことだろう。

読んでどう思ったか、感想を聞きたいそうだ。

そうだなーまず、この主人公は人からどう見られるか気にし過ぎだなー。女社会にはそういうのあるのかな?人からどう見られるか気にしないといけない、村社会的な何か。自分にはあまりそういうのがよくわからない。というか人の顔色伺うのめんどくさいから、どうでもいいと思ってしまう。それについて結構がんばっているこの漫画の主人公は、忙しいなーと思う。

テンプレのコピペで会話するのは、僕のメルカリの使い方と同じだな。事務作業。

1話の終わり方は、陰険だなー。なんでわざわざこういう話作りたがるんだろ。こういうの全然おもしろいと思わない。こういう愚か者をあざ笑う話とか、優越感に浸ってバカにするような下劣な話、好きな人いるよな。

既視感あると思ったら、「普通の人でいいのに!」の人なのね。

これは当時読んだ。性格悪いなーとしか思わなかった。なんだろう、人を見下して喜ぶ質の悪さ?根底にあるのは差別意識かな?頭悪い人とかブサイクをこき下ろすメンタル。芸能ニュースとかワイドショーとか、女性週刊誌とか好きな人は好きかもしれない。僕の感想としては、不健全、猥褻。

ジェーン・スーっぽいと思った。ジェーン・スーっぽい人が描いたか、ジェーン・スーっぽい人が嫌いな人が描いたか。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

飲酒喫煙外交

今思えば、酒の席で人と仲良くなることが多かった。打ち解けるというか、認知されるというか。自分はお酒に弱いため、飲んでしまうと結果的に羽目を外すことが多かった。それで失敗したり怒られたこともあったが、どちらかというといい結果の方が多かった。次の日に知らない人に顔を覚えられていたり、名前を呼ばれたりして、こちらは全然記憶にない、ということがけっこうあった気がする。

飲み過ぎると記憶をなくすから、誰と仲良くなったか覚えていない。自分の振る舞いさえ覚えていないことがときどきある。それがよくないなーとは思いつつも、飲む前より飲んだ後の方が、周りの僕に対する印象が良くなっていることが多かった。何故か。おそらく、普段は物静か、大人しい、無口、話しかけづらい、イライラしている雰囲気なのが、酒の席では多弁で気安くなるのだろう。酔っ払ってタガが外れて、実は明るい人、愉快な人、みたいに思われるんだと思う。

いや、まあなんつうか、そんなことあったなあという思い出です。今はどこにも所属しておらず、そういう機会がない。お酒を飲むのはだいたい家で一人か、奥さんと飲むだけ。お酒は、もともとずっと、毎日家で一人で飲んでいた。人と飲む機会はときどきあったぐらい。進んで参加したり開催したり人を集めたりするようなことはなかった。自分にとっての飲酒は習慣みたいなもんだったんだけど、人と飲むときは外交手段として役に立っていた。

タバコも同じ。2年前に禁煙を始めて、今で2年と2ヶ月続いている。タバコをやめてよかったと思うことはない。タバコがきっかけで人と話すことは多かった。特に、団体で活動するとき。昨今では喫煙者も少なく、喫煙スペースも狭いため、必然的に距離が近くなる。タバコを吸っていなければ、顔も名前も知らず、話すこともなかった、という人はたくさんいる。それはお互いがそうだ。

喫煙所でタバコについて話すことは滅多にない。タバコを吸う人が喫煙所に来ているだけで、タバコが趣味だとか特別タバコに思い入れがある人たちではない。喫煙所では、ただタバコを吸うついでに、日常の雑談をするだけ。そういう機会というのが、普通に生きていると意外と少ない。滅多に無い。休憩しているときに話しかけたりしない。食事をするときは、見知った間柄の特定の人としか行かない。喫煙所には本当に、そこでしか接点の無い人たちがたくさんいて、そこでしか広がらない会話があった。

だから、喫煙外交はうまくいっていた。喫煙外交に失敗したという人の話をきいたことがない。誰にでも開かれた機会が、喫煙所にはあった。今の僕にはそういうのがなくなったんだけど。

今思い返してみれば、場の影響によって無意識のうちに、人と打ち解けていた。人とのつながりを広げようとか、人と仲良くなるために、そういう意図というか野心を持って、酒を飲んだりタバコを吸うようなことはなかった。団体に所属しなくなり、飲酒喫煙外交の機会もなくなり、人と打ち解ける必要もなくなった。

謎の独立国家ソマリランドによると、ソマリランドではカート宴会というカート(麻薬の一種)を貪り食う集まりが社交場の役割を果たしているそうだ。飲み会や喫煙スペースのなくなった日本社会には、人と人が打ち解ける機会はあるのだろうか。むしろ酒もタバコも呑まないという人は、一体どうやって不特定の人と仲良くなるんだ。スポーツとかか。

僕のメルカリ道

けっこう長い間、ずっとメルカリを使ってきた。今まで売れた数は500を超えている。買ったのは50ぐらい。出品側としての使い方がだいぶ定まってきたので、記録しておきます。ちなみにヤフオクも併用している。ヤフオクは大昔にも使っていたけれど、今は全然違うシステムになっている。今は出品手数料も会費もなく、めちゃくちゃ使いやすい。

さらにジモティーも使っていて、ユーザーの品位で言うとヤフオクが一番高い。メルカリは中間で、ジモティーが一番低い。利用にあたってのハードルが高いほど、サービス開始が古いほど、ユーザーの品位も高い。ヤフオクはサービス運営側、ユーザー共に積み上げてきたものがある。

メルカリに戻る。メルカリはいろんな使い方をしている人がいる。僕の使い方は全く参考にならないかもしれない。とにかく僕は、心を乱さず、手間を省く ことしか考えていない。

  • 1. コピペの多用
  • 2. 値下げは断る
  • 3. 状態は基本「傷や汚れあり」
  • 4. 発送は「4〜7日」一択
  • 5. 配送方法は「ゆうゆうメルカリ便」一択
  • 6. ブロックしまくる
  • その他の意見
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読んだ本を買う

ときどきある。資料ではない、既に読み終えた本を買うということ。読んだら終い、の逆。読んでから買う。たとえば今年の春頃、図書館で借りて読み終えた本を、後日Amazonで買った(絶版で本屋には置いてなかった)。

一度読んだのになんで買うのかって、そりゃあ何度も読むため。通して読むというよりは、部分的に読み返す。漫画だとそういう読み方は、けっこう普通というか、当たり前だ。今は漫画雑誌を買っていないけれど、子供の頃は雑誌で読んだ上、単行本を買っていた。漫画は何度も読む。音楽だって、繰り返し何度も聞く。映画だって、何度も見るためにDVDを買う。配信はいつなくなるかわからない。

本を買うのも同じ。例外ではない。繰り返し何度も読むため。何度も読まないなら、また、参照するために引っ張り出してもこないなら、買わなくていいし売ってしまってもいい。わざわざ買うことの意味というか、所有することの価値はそこにあると思う。ただ持ってるだけで満足というのも全然いいんだけど、いつでも手にとって読み返せるのが買った本のいいところ。

ただまあ現実は…買ったのに読み終えていないどころか、表紙すらめくっていない本が何冊も積み上がっている。図書館で読み終えた本を買い直している場合ではない。

コロナ定期

コロナコロナ言い出してから、1年と3ヶ月ぐらいか。さすがに今の状況に慣れてしまった。数字がどう変わっても、もうあまり心が動かない。今はデルタ株が大変で、去年よりも年始よりも感染しやすい状況かもしれない。でもあんまり、なんとも思わない。やれることがない。

今まで通りマスクをして、人に会ったり外食を控える、そんだけ。何も変わっていない。初期に比べると、映画館といった感染リスクの低そうなところには、多少なりとも出入りするようにもなった。そのあたりは変化かもしれない。再生産数に応じて、外出の頻度を調整している。

早くワクチンが回ってくればいいなと思う。接種券は届いているが、まだ予約はできないのかな?案内がよくわからない。集団接種会場は8月以降のようだ。

イスラエルやイギリスといったワクチン接種が行き届いた国でも、感染数はまた増えている。第5波だって。しかし、重症化する数が極端に減っており、ワクチンの効果があったという認識みたいだ。だから我々もただ、ワクチンを待つのみ。

生きた証を残したいか?

ときどきこういう話が出てくるので思ったことを。

先日、「されどわれらが日々ー」という本を読んでいた。1964年の古い小説で、人生の無意味さに絶望して生きる気力を失い、自殺する人物が出てくる。もう一人、自分の人生を取り戻すために結婚を断って自活する女性が登場する。主人公はまた別にいて、何にも感動することのない、空虚な人生を自覚的に生きる人。

他にも何人か登場するが、主題となるのはこの三人、主に最初の二人だった。

1.人生に絶望して自殺する人
2.人生を取り戻すためにやり直す人

彼らは生きる意味であったり、生きがいのようなものを求めていた。この小説では「死に臨んで、自分は何を思い出すか」というテーマが鍵となってくる。

これからどんなに努力をして、地位や名誉を築き、幸せな家庭に恵まれたとしても、死ぬ間際に思い出すことは「自分が裏切り者だ」ということ。そのことに絶望して、1.の人物はこれからの人生を生きる気力を失う。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」2. の人物は、何も思い浮かばなかった。これまでの人生において、自分の意志を持たず、考えたり行動するよりも、周りに流されて生きていた。自分が空っぽだと思った。このまま結婚して、何もないまま生涯を終えてしまうと、きっと絶望してしまう。そう思って彼女は結婚を断り、自分の人生を生きることを決めた。

僕が誰に近いかと言うと、3番目の主人公が一番近いと思う。ただ僕はそんなに人生が空虚だとかそういうことに対して、落ち込んだことはない。もともと期待していなかった、と言ったほうが正確かもしれない。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」、というテーマは、自分の「生きた証」のような話かなと思った。「生きた証」がろくでもなかったり、何も残らなかったりすると不安なのだろうか。

少し前になるけれど、はてブに上がっていた不妊治療の記事を読んだ。そこには年老いていく男性の、死に対する不安が書かれていた。

「ふと……ものすごく怖くなったんです。それまで人生の終わりを意識したことはなかったんですが、生まれて初めて、自分は日一日と死に近づいてるんだと実感して。いつか自分という存在は、この世から消えてしまう。それを考えると、ぞっとしました」
夜、寝床で目をつぶると、「自分の体が暗い液体になって、闇に溶けてしまうイメージを想像するようになった」という。
「ああ、僕はここで“途切れる”んだ、と。その恐怖を回避するには、自分の次世代を、つまり子供を作ればいいと思い至ったんです」
石岡さんはその時のことを、「頭の霧が晴れるようだった」と形容した。

個人的にはこの話、すごく迷惑な話だと思った。そんな身勝手な理由で生まれたら、子供からすればたまったもんじゃない。勘弁してくれよと。僕がこの人の子供だったら、お前の勝手な恐怖心に人の人生を巻き込まないでくれと思っただろう。

この男性は、自分の肉体が衰え、いずれ死ぬことによって自分という存在が消えることに恐怖を抱いたそうだ。そして、子を持つことによりそれが解消されると思ったらしい。これも「生きた証」を残したいという話じゃないだろうか。

僕は全然そういうのない。自分が生きた証を残したい、なんて。そんなもん残してどうするんだ。自分がいなくなった後に何が残っていようと、自分はもういないんだから認識も確認もない。生きた証なんて、あってもなくても同じじゃないか。

「週末アジアに行ってきます」を読んだ

一ヶ月以上前に読んだ本だからざっくりと感想を述べます。著者は下川裕治。僕の印象だと格安航空券のおっさん。ヒゲのおっさん。今も現役で旅行ライターをされている。

一昔前、週末海外という言葉が流行った。土日や三連休を利用して、気軽に海外旅行へ行くやつ。僕が会社員だった頃だから10年ぐらい前の話になるけれど、当時の先輩なんかも週末に香港や台湾、タイなどに行って、買い物、マッサージ、屋台めしを楽しむという旅行をしていた。

しかしまあ、バックパッカーはそういう消費旅行を求めない。下川裕治さんは、バックパッカーを卒業して日本社会に戻っていったかつての仲間たちから「今も旅行ができて羨ましいですね」と言われたそうだ。仕事でバックパッカーができるなんて。だったら彼らのために、バックパッカー向けの週末海外も模索してみようではないか。というのが本書の狙いだった。

結論から言うと、無理があった。この本ではアジアのいくつかの旅先と、そのルートや手段、日程が紹介されている。そのどれもが「そんな旅行誰がしたいの?」というような内容だった。ほとんどの時間が移動に費やされる。しかも現地の足を使うから不正確で、間に合うかどうかわからない。行った先には何もない。一泊か二泊して、また必死の移動で日本まで帰国する。誰もやらないだろこれ…。

バックパッカーは時間制限がないからこそ、楽しめた旅行スタイルであることを実感する。スケジュールとは極めて相性が悪い。ここで紹介されている旅行プランは、帰国の翌日に会社員としての日常が待っている人には、とてもじゃないが決行できない。飛行機に乗り遅れるリスク高すぎ。そんなことを心配しながら旅行しても全然楽しくない。

バックパック旅行の醍醐味が移動にあることは知っているけれど、長時間の悪路を移動して帰ってくるだけの旅行なんて、さすがのバックパッカーもゴメンだと思う。試みとしてはおもしろいのだけど、無謀な挑戦だった。それを真面目に紹介しているから…まあ読み物としては、奇書の部類に入るんじゃないか。読み終えると、当分旅行なんていいやと思える一冊でした。

どんな旅行が紹介されているのか気になった人は、買って読んでみてください。

あれこれ理由はなくても何かを好きと言えることはいいんじゃないか

昨今のオタク憧れって、ここに尽きるのかな。何かに夢中になっている姿が羨ましいとかかっこいいとか。それはオタクみたいにめちゃくちゃ時間を費やしていたり金を落としていたり詳しかったりする必要はなくて、ただ「あれが好き」「これが好き」と言えることそのものが、なんというか人生を有意義に過ごしていることになるんじゃないか。

知識マウントとか誰かとの比較とか、あまり意味がないと思う。目的を見失っている。別に、好きだったらそれでいいんじゃないか。方向や歩み方は多様で、ある種みんな仲間だろう。

オタク趣味なんて、かつては好きと表明できるかどうかの葛藤があった。例えばマンガ・アニメ・ゲームを好きと公言すると、白い目で見られる時代があった。それが今や、打ち込んでいたり詳しい対象があること、専門分野みたいなのがあること自体が憧れの眼差しを受けている。オタク憧れが嵩じて、オタクのふりをする人まで現れる始末。

自分の友達で「三島由紀夫が好き」と言ってる人がいるんだけど、彼女は三島由紀夫を読んだことがない。「仮面の告白」も「金閣寺」も「豊饒の海」も知らない。「憂国」も「英霊の聲」も。だから彼女の「三島由紀夫が好き」は、さすがに嘘だと思った。何も知識マウントを取りたいわけではなく、作品を読まずしてどうやって好きと言えるのか。本質を欠いている。

彼らの憧れは、表面的だ。楽しそうにしていたり、詳しかったり、仲間がいたり、目が輝いていたり、そういった結果に対して憧れを抱いている。でも何かが好きな人は、対象が全てだ。楽しいのも詳しいのも仲間がいるのも目が輝いているのも、対象を好きである結果に過ぎない。周りからどう見えるかはどうでもよく、ただ目の前の好きが第一義的にある。対象を好きでなければ全てが嘘になる。

結局は、オタクのフリでもして人生楽しんでいる演出をしたいだけなのだろうか。なんのために?見栄を張るため?人から幸せに見られたいから?そんなことをしている暇があったら、何か一つでも好きなものを見つけた方がいい。