コロナ定期

コロナコロナ言い出してから、1年と3ヶ月ぐらいか。さすがに今の状況に慣れてしまった。数字がどう変わっても、もうあまり心が動かない。今はデルタ株が大変で、去年よりも年始よりも感染しやすい状況かもしれない。でもあんまり、なんとも思わない。やれることがない。

今まで通りマスクをして、人に会ったり外食を控える、そんだけ。何も変わっていない。初期に比べると、映画館といった感染リスクの低そうなところには、多少なりとも出入りするようにもなった。そのあたりは変化かもしれない。再生産数に応じて、外出の頻度を調整している。

早くワクチンが回ってくればいいなと思う。接種券は届いているが、まだ予約はできないのかな?案内がよくわからない。集団接種会場は8月以降のようだ。

イスラエルやイギリスといったワクチン接種が行き届いた国でも、感染数はまた増えている。第5波だって。しかし、重症化する数が極端に減っており、ワクチンの効果があったという認識みたいだ。だから我々もただ、ワクチンを待つのみ。

生きた証を残したいか?

ときどきこういう話が出てくるので思ったことを。

先日、「されどわれらが日々ー」という本を読んでいた。1964年の古い小説で、人生の無意味さに絶望して生きる気力を失い、自殺する人物が出てくる。もう一人、自分の人生を取り戻すために結婚を断って自活する女性が登場する。主人公はまた別にいて、何にも感動することのない、空虚な人生を自覚的に生きる人。

他にも何人か登場するが、主題となるのはこの三人、主に最初の二人だった。

1.人生に絶望して自殺する人
2.人生を取り戻すためにやり直す人

彼らは生きる意味であったり、生きがいのようなものを求めていた。この小説では「死に臨んで、自分は何を思い出すか」というテーマが鍵となってくる。

これからどんなに努力をして、地位や名誉を築き、幸せな家庭に恵まれたとしても、死ぬ間際に思い出すことは「自分が裏切り者だ」ということ。そのことに絶望して、1.の人物はこれからの人生を生きる気力を失う。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」2. の人物は、何も思い浮かばなかった。これまでの人生において、自分の意志を持たず、考えたり行動するよりも、周りに流されて生きていた。自分が空っぽだと思った。このまま結婚して、何もないまま生涯を終えてしまうと、きっと絶望してしまう。そう思って彼女は結婚を断り、自分の人生を生きることを決めた。

僕が誰に近いかと言うと、3番目の主人公が一番近いと思う。ただ僕はそんなに人生が空虚だとかそういうことに対して、落ち込んだことはない。もともと期待していなかった、と言ったほうが正確かもしれない。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」、というテーマは、自分の「生きた証」のような話かなと思った。「生きた証」がろくでもなかったり、何も残らなかったりすると不安なのだろうか。

少し前になるけれど、はてブに上がっていた不妊治療の記事を読んだ。そこには年老いていく男性の、死に対する不安が書かれていた。

「ふと……ものすごく怖くなったんです。それまで人生の終わりを意識したことはなかったんですが、生まれて初めて、自分は日一日と死に近づいてるんだと実感して。いつか自分という存在は、この世から消えてしまう。それを考えると、ぞっとしました」
夜、寝床で目をつぶると、「自分の体が暗い液体になって、闇に溶けてしまうイメージを想像するようになった」という。
「ああ、僕はここで“途切れる”んだ、と。その恐怖を回避するには、自分の次世代を、つまり子供を作ればいいと思い至ったんです」
石岡さんはその時のことを、「頭の霧が晴れるようだった」と形容した。

個人的にはこの話、すごく迷惑な話だと思った。そんな身勝手な理由で生まれたら、子供からすればたまったもんじゃない。勘弁してくれよと。僕がこの人の子供だったら、お前の勝手な恐怖心に人の人生を巻き込まないでくれと思っただろう。

この男性は、自分の肉体が衰え、いずれ死ぬことによって自分という存在が消えることに恐怖を抱いたそうだ。そして、子を持つことによりそれが解消されると思ったらしい。これも「生きた証」を残したいという話じゃないだろうか。

僕は全然そういうのない。自分が生きた証を残したい、なんて。そんなもん残してどうするんだ。自分がいなくなった後に何が残っていようと、自分はもういないんだから認識も確認もない。生きた証なんて、あってもなくても同じじゃないか。

「週末アジアに行ってきます」を読んだ

一ヶ月以上前に読んだ本だからざっくりと感想を述べます。著者は下川裕治。僕の印象だと格安航空券のおっさん。ヒゲのおっさん。今も現役で旅行ライターをされている。

一昔前、週末海外という言葉が流行った。土日や三連休を利用して、気軽に海外旅行へ行くやつ。僕が会社員だった頃だから10年ぐらい前の話になるけれど、当時の先輩なんかも週末に香港や台湾、タイなどに行って、買い物、マッサージ、屋台めしを楽しむという旅行をしていた。

しかしまあ、バックパッカーはそういう消費旅行を求めない。下川裕治さんは、バックパッカーを卒業して日本社会に戻っていったかつての仲間たちから「今も旅行ができて羨ましいですね」と言われたそうだ。仕事でバックパッカーができるなんて。だったら彼らのために、バックパッカー向けの週末海外も模索してみようではないか。というのが本書の狙いだった。

結論から言うと、無理があった。この本ではアジアのいくつかの旅先と、そのルートや手段、日程が紹介されている。そのどれもが「そんな旅行誰がしたいの?」というような内容だった。ほとんどの時間が移動に費やされる。しかも現地の足を使うから不正確で、間に合うかどうかわからない。行った先には何もない。一泊か二泊して、また必死の移動で日本まで帰国する。誰もやらないだろこれ…。

バックパッカーは時間制限がないからこそ、楽しめた旅行スタイルであることを実感する。スケジュールとは極めて相性が悪い。ここで紹介されている旅行プランは、帰国の翌日に会社員としての日常が待っている人には、とてもじゃないが決行できない。飛行機に乗り遅れるリスク高すぎ。そんなことを心配しながら旅行しても全然楽しくない。

バックパック旅行の醍醐味が移動にあることは知っているけれど、長時間の悪路を移動して帰ってくるだけの旅行なんて、さすがのバックパッカーもゴメンだと思う。試みとしてはおもしろいのだけど、無謀な挑戦だった。それを真面目に紹介しているから…まあ読み物としては、奇書の部類に入るんじゃないか。読み終えると、当分旅行なんていいやと思える一冊でした。

どんな旅行が紹介されているのか気になった人は、買って読んでみてください。

あれこれ理由はなくても何かを好きと言えることはいいんじゃないか

昨今のオタク憧れって、ここに尽きるのかな。何かに夢中になっている姿が羨ましいとかかっこいいとか。それはオタクみたいにめちゃくちゃ時間を費やしていたり金を落としていたり詳しかったりする必要はなくて、ただ「あれが好き」「これが好き」と言えることそのものが、なんというか人生を有意義に過ごしていることになるんじゃないか。

知識マウントとか誰かとの比較とか、あまり意味がないと思う。目的を見失っている。別に、好きだったらそれでいいんじゃないか。方向や歩み方は多様で、ある種みんな仲間だろう。

オタク趣味なんて、かつては好きと表明できるかどうかの葛藤があった。例えばマンガ・アニメ・ゲームを好きと公言すると、白い目で見られる時代があった。それが今や、打ち込んでいたり詳しい対象があること、専門分野みたいなのがあること自体が憧れの眼差しを受けている。オタク憧れが嵩じて、オタクのふりをする人まで現れる始末。

自分の友達で「三島由紀夫が好き」と言ってる人がいるんだけど、彼女は三島由紀夫を読んだことがない。「仮面の告白」も「金閣寺」も「豊饒の海」も知らない。「憂国」も「英霊の聲」も。だから彼女の「三島由紀夫が好き」は、さすがに嘘だと思った。何も知識マウントを取りたいわけではなく、作品を読まずしてどうやって好きと言えるのか。本質を欠いている。

彼らの憧れは、表面的だ。楽しそうにしていたり、詳しかったり、仲間がいたり、目が輝いていたり、そういった結果に対して憧れを抱いている。でも何かが好きな人は、対象が全てだ。楽しいのも詳しいのも仲間がいるのも目が輝いているのも、対象を好きである結果に過ぎない。周りからどう見えるかはどうでもよく、ただ目の前の好きが第一義的にある。対象を好きでなければ全てが嘘になる。

結局は、オタクのフリでもして人生楽しんでいる演出をしたいだけなのだろうか。なんのために?見栄を張るため?人から幸せに見られたいから?そんなことをしている暇があったら、何か一つでも好きなものを見つけた方がいい。

最近買ったレコードとか

レコードを集めるようになってから1年経った。たくさん買っているわけではないけれど、徐々に増えていっている。その中でもとくに、ここ数ヶ月の間に買ったもの。だいたい月1枚は買うようにしている。

  • Federico Durand - Herbario
  • Jackie Mitto - The Keyboard King
  • Sun Ra - Lanquidity
  • The Heath Brothers - Marchin' On!
  • Miles Davis - Kind of Blue
  • Bill Evans Trio - Everybody Digs Bill Evans
  • 宇多田ヒカル - One Last Kiss
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続「生きづらさ」の本質について

最近「生きづらさってあった?」みたいなことを訊かれて、まあそりゃああったわなーと思うが、自分にとっての生きづらさとはなんだったのかと、ふと思い返してみた。人生の不安要素は健康(病気)、お金(食糧)、人間関係(パートナー含む)の3つだと言う。僕にとっての生きづらさは、ほぼお金の問題だった。人間関係でも、健康問題でもない。

「お金さえあれば、僕の生きづらさは解決する」と言ってしまえば、実に陳腐な人間のようだ。それが例えば、解決のしようがない病気や人間関係に比べると、実に安っぽい問題のようだ。僕にとっての生きづらさが、お金の問題、お金さえあれば解決する問題とは、どいうことか。それはつまり「お金さえあれば、やりたくないことをやらなくていい」という意味だ。お金がないから、食い扶持を稼ぐためにやりたくないことをやり続けてきた。

当たり前だろ、と思うかもしれない。みんなそうだ、甘えんな、と。言い換えれば、僕の場合、お金さえあれば隠遁生活を送る。山奥へ引きこもったり。良好な人間関係なんて全く望まない。僕から言わせれば「人間関係?どうでもいいだろ、甘えんな」である。僕がいかに人間関係をどうでもいいと思っているか、その事例として軽いエピソードを挙げる。僕がかつて集団生活をしていたときに、一人の男性と相部屋だった。彼は周りの全員から嫌われており、僕がその集団を抜けたあと、全員が彼との相部屋を拒否したそうだ。僕はその彼が嫌われていたことにも気づかなかった。同じ部屋でずっと寝起きしていた。それぐらい人間関係どうでもいい。

寂しさもあまり感じてこなかった。それよりなにより、やりたくないことをやることのほうがつらい。就職面接なんかで「本当はやりたくないけどお金のためにしかたなく」って言いたい。志望動機とか全部ウソ。大学生の頃「やりたいことがなければ、消去法で就職先を決めたらいい」と言われて決めた。僕は本当にやりたいことがなかったから、いろんな業種・業界を受けた。ことごとく落ちた。候補の共通点は、年間休日とかそういうのだったと思う。

世の中には、宝くじが当たっても仕事は辞めないっていう人がそこそこいると思う。もしくは、十分な蓄えがあってもなお仕事を続けている人は多い。それにひきかえ、僕なんかほとんど蓄えなくても辞めた。嫌すぎて辞めた。仕事の全部が全部嫌だったかというと、そういうわけではない。でもこのまま続けたら病むなーと思ってリタイアした。

冒頭で「生きづらさはお金の問題」と言ったが、給料に不満はなかった。お金の問題ではあるが、お金さえあればなんでもいいという意味ではない。仮に、倍の給料をもらっていても辞めたと思う。問題の本質は「やりたくないことをやる」という部分にあった。つまり僕にとっての生きづらさは「やりたくないことを、いやいやながらも前向きな顔して、やらなければいけないこと」である。やりたくないことをやらなくても、餓死しないだけのお金があったら、生きづらさから解放される。

「いやまあ、死んだら死んだでいいでしょ?」と割り切れたら、そもそも生きづらさなんて思うこともなかったんだろうな。現実的に死と向き合うと、それまでの過程がなかなか大変だ。その日暮らしで、ホームレスに行き着いて、食うに困って餓死、行き倒れ、寒さに耐えれず、病気になっても治療を受けられず、そういう最後が待っている。「生きづらさ」と天秤にかけるに値するだろうか。僕にとって、この世界を生きるということは、病むか、ホームレス、その二者択一だったように思う。そんなのどっちもどっちだろ。

だからまあ、まだ体が動くうちに、健康を害する前に好き勝手やっている。会社員を辞めたのが2013年で、それから8年経った。その間、半年とか1年とか、短い期間だけどやりたいわけではないことをあれこれやって、食いつないできた。それぐらいだとギリギリ耐えられたのかな。今生きづらいかっていうと、まだ差し迫ってないから、今のところは平気です。

僕から見れば、やりたくないことをやらなくても生きていけたり、何事もそこまでやりたくないと思わない人は、それだけで結構人生勝ち組だと思う。勝ち組って古い言葉だな。昔流行った。

「日本を降りる若者たち」を読んだ

2007年に出た新書。一年の大半をタイ、バンコク、カオサンロードの日本人宿で過ごし、残り数ヶ月だけ日本で働いて生活費を貯めるという、当時一部で流行った「外こもり(海外で引きこもり)」というライフスタイルを調査した本。どういう人が「外こもり」の生活スタイルを行っており、どういう背景でそこに至ったか。年齢は、きっかけは、収入源は、10数人インタビューしていくなかで、その分類と傾向が見えてくる。また、外こもりの現場としては主にタイを取材しているが、カンボジアや沖縄の話も少し登場する。

著者は旅行ライターの下川裕治。もともとは格安航空券を紹介する本で有名になった人。ガイドブックや紀行文、旅コラムのような本もたくさん出ている。この「日本を降りる若者たち」のような、ある種ジャーナリスティックというか、ノンフィクションめいた著作は、旅行本界隈では珍しいんじゃないか。楽しさや冒険、波乱万丈を描く旅行本が多い中で、「日本を降りる若者たち」では旅の裏側、現実、ダークサイドの実態調査を行っている。

ここに出てくる人、書かれていることは、ほぼ自分に当てはまると思った。全部が全部思い当たる。同時に、全部が全部自分ではない。例えば、第三章「ワーキングホリデーの果てに」に書かれていることは、ワーキングホリデーに行った人の半分ぐらいは当てはまると思う。

漠然と海外で暮らしたいと願っている若者は少なくない。そんな若者にとっても、ワーキングホリデーは都合のいい手段なのだろう。働くこともできるし、仕事がなければ英語学校に通えばいい。しかしそこで味わう生活には寂しさがつきまとうことが多い。自分から輪のなかに入っていかないと友だちもできないスタイルが欧米型の社会だ。日本人のなかにはそれが苦手な人が多い。
「前にがつがつ出ていくタイプじゃないんです。妙なところでは我が強いけど。オーストラリアでも、うまく溶け込んでいく人を見ていると、そういうこと、自分にはできないなって思っちゃうんです」
こういうタイプはやはりアジアなのだろうか。控えめが美徳であるという風土…。その言葉は肩の力が抜けるように響くのかもしれない。 P76-77

前半は、自分もそういう思惑でカナダへ行った。なんとなく海外の生活を体験したいというのが、一番の目的だった。学校も行ったし、アルバイトもした。ただまあ自分はその生活が寂しいとは全然思わなかった。話す人も、遊びに行く人もいた。現地のカナダ人、他の国から来ている人、自分と同じ立場の日本人、まんべんなく付き合いがあった。一人でも楽しかった。特に自分から前に出ていく方ではないけれど、住んだ家とかたまたま周りの環境がよかった。あと英語がある程度わかったのも大きい。

ワーキングホリデーでカナダやオーストラリアに来ている人は、半分以上が英語が全然ダメだった。僕も現地の語学学校に半年通ったから、そこそこになっただけ。ほとんどの日本人は3ヶ月とか、短い期間しか学校へ行かない。しかも最初のレベルが低い。英語が全然ダメでも、外国人と仲良くなる人はたくさんいる。そのあたりは性格に左右される。引っ込み思案で言葉もダメとなるとなかなか難しい。向こうへ行っても結局日本人とばかり一緒にいる人は、そういう人だったのかな。

ワーキングホリデーに行く人は、よくも悪くもこの本を先に読んでおいていいと思う。 #ワーキングホリデー #オススメ #ガイドブック #日本を降りる若者たち ぐらいで考えてもいい。ワーキングホリデーの前向きな情報を紹介する本やサイトはいくらでもある。この本でネガティブな側面、決してネガティブとも言い切れない側面を、まとめて読めるのは都合がいい。

他にも、自分には当てはまらないけれど留学リベンジ組や、シニアロングステイ組、鬱病回避型など、幅広い事例が紹介されている。この本が出てから10年以上経った今のバンコクでは、もう成り立たないかもしれない。ここに書かれているカオサンロードは、かつての桃源郷の姿かもしれない。旅行の文化史として読んでもおもしろいと思う。ただ僕は正直、ここに出てくる人たちのそれぞれが全く他人事ではない。

自分もこうだった、自分もこうなっていたかもしれないという身近な事例が満載で、心穏やかに読み進めることができなかった。自身が逃避先として外国に出たのは全く同じ。以前に感想を書いた本で「アジアンジャパニーズ」というものがある。「日本を降りる若者たち」は、言うならば「エモくないアジアンジャパニーズ」、「アジアンジャパニーズのなれの果て」。あの本を興味深く読めた人も、読みやすいとは思う。一見してやはり、暗いことばかり書かれている。

中には、あまり共感できなかった点もある。僕はそもそもタイやカオサンにそれほど魅力を感じなかった。僕が初めて行ったのが2011年だから、2007年当時とは様相が違うのかもしれない。東南アジアの大都市で、娯楽も観光地もある。コンビニ、スーパー、屋台、ショッピングモール、電気街、クラブ、ゴーゴーバー、なんでもある。少し移動すればタイ人だけが暮らす地域もあり、バスや電車で田舎にも行ける。便利だと思う。

でも、行ってもやることがないなーと思った。僕は観光旅行で行ったからそう思っただけで、生活の場となるとそもそもやることなんて求めないだろう。トロントもやることはなかった。単純に、タイにもタイ語にもタイ人にも特別な魅力を見出していないだけかもしれない。タイ語を学んで現地就職を目指す人のことも書かれていたが、全然やりたいと思わなかった。

もう一つ。僕は日本人宿に行ったことがない。外国へ行ってまで、あえて日本人ばかりのゲストハウスに泊まる意味がわからなかった。日本人宿のメリットは、旅行者だと情報交換ができたり旅の仲間を探せたりする、と言う。これは別に、日本人宿じゃなくてもできる。宿泊客が日本人同士で、生活習慣の違いを気にしなくていいとかもあるそうだが、僕はそういう日本らしさからの逃避で外国に行っていた。外国へ行ってまで日本の習慣なんて、まったく求めていなかった。

だから、これらカオサンの日本人宿を中心とした「外こもり文化」とは、基本的に相容れない部分も大きい。その源流となるバックパッカー文化も、乗れないところがたくさんある。それでもなお、彼らの話は一部僕の話であり、僕が憧れた部分もあり、自分がこうなったかもしれない姿だった。特に精神を患って、日本社会から脱するために「外こもり」をしている人の話では、日本で無視され続けた人間の行き着いた先にカオサンがあり、国内における社会病理の逃げ場として機能しているところなど、自分や身の回りの現実とめちゃくちゃリアリティを持って重ね合わせ、考えることができる。この本を読んでいると、思い浮かぶ顔がいくつもある。彼は、彼女は元気でやっているだろうか?同様に、僕の顔を思い浮かべる人もいるかもしれない。

7.2

6月は、あまり本を読めなかった。村上朝日堂を3冊読んだだけ。村上春樹のエッセイはスポーツドリンクを飲むのに等しくて、中身なんも覚えていない。読み切っていない本、つまみ食いはたくさんある。つまみ食い読書はまとまって頭に入ってこないから、一つの完結した本でこの読み方をやるのはあまりよくないなーと思う。

珍しく、ラジオを全然聞けていない。特に情報摂取系であるアト6がほぼ一ヶ月分まるまるたまっている。これはちょっともう消化できないなあ。29tizuもたまっている。雑談系であるバナナムーン、オーバーザサンあたりは消化している。中身の詰まっていない話しか聞けない。ときどきそういう周期がある。tani.fmは情報もあるけれど雑談でもある、ちょうど中間あたり。別冊アト6もそのはずなんだけど、こちらは長いからたまっている。雑談系の長い音声コンテンツは、一度止めてまた途中から聞いてもついてこれる構成だと聞きやすい。

ドラマは6月初旬に「ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー」を見た。物語をちゃんと文学的に落としていくんだけど、久々に重いドラマ見たなーという感想。もともとNetflixなんかで重いドラマばかり見ていたけれど、最近はしんどくなって手を出していなかった。気軽に流し見できるようなのばかり選んでいた。社会的だったり、重いドラマが評価されるのはわかるんだけど、ちょっと多すぎやしませんかね。コブラ会(シーズン2を除く)みたいなのが見やすい。まあでも身近な不幸を詰め合わせした「ある家族の肖像」が評価されるのはわかる。おもしろかったです。それ以外は全然見てないかな。

映画はたくさん見た方。「孤狼の血」「希望のかなた」「凪待ち」「閃光のハサウェイ」、映画館で見たのは「閃光のハサウェイ」のみ。「孤狼の血」は評判がよかったからずっと見たいと思っていた。今年続編が公開される予定なんだけど、続編できんの?という内容だった。というかまあ、すごい正統派な映画で似たテーマを扱ったたけしの「アウトレイジ」より見やすい。「希望のかなた」もアキ・カウリスマキを見たことがなくて、ずっと興味あった。こんな映画作る人なんだーという感想。確かに小津安二郎っぽい。「凪待ち」は「孤狼の血」を見た流れで同じく白石和彌映画。香取慎吾当て書きと聞いて納得。「閃光のハサウェイ」は3部作だということで、どれか一つぐらい映画館で見てもいいんじゃないか。ハサウェイとギギのやりとりが村上春樹っぽかった。

ちょっと村上春樹どうこう言い過ぎな気がしている。ハルキストではないけれど、村上春樹ウォッチャーではある。村上Radioもだいたい聞いている。騎士団長殺しをいまだに読んでいないんだけど、最近はこの二冊が手元にある。

6月はコンテンツを消費することに疲れた月だった。摂取を控えていたと自覚してたけれど、こうやって並べてみると意外と摂取してたな。世の中のことよりも、手元足元のことに目を向けたいです。

よくある感覚

今はこれといって忙しいわけではないんだけど、気づいたら時間が過ぎている。1日が終わり、一週間が終わり、無意識のうちに月日が過ぎ去っていく。特に何をするわけでもなく。毎日あれこれやっているけれど、自分の意識がついていっておらず、自覚がない。体感というか、感覚がない。その場その場で意識はあっても、気づいたらもう通り過ぎてしまっているから、忘れている。今から思い返しても、事象はもう終わっている。浦島太郎状態。それどころか、思い出すことさえできない。

気持ちの余裕がないのかもしれない。このまま、生きている感覚がないままどんどん時間だけが進んでいくような気がする。だから、くさびを打ちたいと思ってこうやって書き残している。不連続な時間を生きている気がして、その時間と時間をなにか別のものでつなぐことで、意識というか自我を保とうとしている。

「何者かになりたい」ってどういう意味?

「何者かになりたい」って、要するに世間から認められたいとかちやほやされたいとか一旗揚げたいとかって意味なのかな?一昔前で言うところの「一人前になりたい」とか「一流になりたい」っていうより、世間的評価だったりフォロワーを気にする感じなのかな。

「有名になりたい」が一番近い言葉なのだろうか。世間一般で有名になれたら一番で、少なくともどこかの界隈では有名になりたい、ぐらいが「何者かになりたい」という言葉に当てはまるのかもしれない。そういうの、僕はなかなかピンとこなくて、みんな説明がいらないぐらい当たり前に理解してるもんなのか。

例えば、とりあえず何かの職業に就いて、右も左もわからないところからバタバタと仕事を始め、失敗したり苦労したり、何が楽しいのかわからいままガムシャラに向き合っているときに、自分よりも頑張っている人、難しい案件に立ち向かい、その努力と研鑽でクリアしていく人を見て、「この人みたいになりたい」と思ったり、憧れたり目標ができたりして、「一人前になりたい」だとか「一流になりたい」と思うならわからんでもない。

そこには自分の延長線上としての、具体的なロールモデルがある。姿勢や方向性、その先に得られるものだったり、目標が明確だ。自分がわからないのは、漠然と「何者かになりたい」と思うこと。ここで言うところの「一人前になりたい」と、「有名になりたい」寄りの「何者かになりたい」は意味合いが全然違う。「何者かになりたい」って何?なぜ有名になりたいの?

  • 例えばイラレ君の場合
  • もう一人、もっとライトな人
  • しろくまさんの新刊はまだ読んでいないんだけど
  • 他人と自分を比べる地獄にハマっている
  • 何者にもなれなかった自分
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「Distance わたしの #stayhome 日記」はなんとも言えない感情が込み上げてくる

「Distance わたしの #stayhome 日記」を買った。今日マチ子というイラストレーターの人が、去年の緊急事態宣言からTwitterに上げていたイラストと文をまとめた本。Twitter上では見たことなかったから、本が出るまで存在を知らなかった。購入に至ったいきさつは、本屋のTwitterアカウントで入荷の告知を見て、気になったから。

イラストと文を見て、すごく若い視点のように思えた。今日マチ子さん、学生ぐらいの人かな?と思ったら、自分と同じぐらいの歳の人だった。実際に若い人が見たらどう思うのかはわからないけれど、いろんな年代の人が見て、それぞれの視点から思うところがあるんじゃないだろうか。

2009年の新型インフルエンザについても触れられていた。"あのときよりも今のほうが悲観的ではある"と書かれている。新型インフルエンザが流行したとき、日本にはなかなか入ってこなかったけれど、当時、海外から迫りくる恐怖のような悲壮感がすごかった覚えがある。メキシコかどっかだっけ。何も対策できなくて、人がどんどん死んでいくニュースを見ていた。

去年の4月ごろ、コロナ初期にもそういう、海外から迫りくる未知の恐怖、みたいな感覚が強かった。2021年の今のほうが変異株も蔓延して、感染者数も死者数も病床使用率もよほどひどいんだけど、どこか恐怖に慣れてしまったところがある。ワクチンという希望も大きい。去年の春のあの感じは、あの当時にしかなかった。当時の感覚が、イラストと文から蘇ってくる。あの頃の心情、考えていたこと。

来年(2022年)にはおそらくワクチン接種も拡がっていて、コロナ終息宣言が出て浮かれ倒して飛行機にだって乗っているかもしれない。それまでにも多くの人が亡くなる(自分もその一人になるかもしれない)。けれど一度過ぎ去ってしまえば、去年とか、今年のこのコロナ禍を過ごしたときの気持ちは、きれいサッパリ忘れてしまいそうだ。既に忘れている去年の感覚を、このステイホーム日記を読んで思い出しているぐらい。

だからきっと、来年にこの本を読むと、また違った気持ちになるんじゃないか。5年後10年後に読むと、また全然違うだろう。あんなことあったね、なんて言ってると思う。その頃にはもう誰もマスクをしていないだろうし。ましてや来年以降に生まれた人は、コロナ禍を知らずに育つ。このステイホーム日記に書かれている多くのことが、意味わからないだろう。彼らにとってリアリティのない、歴史上の資料になるんじゃないか。

東北地震や原発もそうだった。騒いでいたのはあのときだけ。僕は当事者じゃなかったから、教訓もなにもない。あれから世の中は、少なくとも僕にとっては何も変わっていない。コロナには今のところ感染していないけれど、今回は世界中の誰もが、同時期に、当事者だった。経験したこと、思ったことがたくさんあったはずだ。きれいサッパリ忘れてしまいたくない。

僕は戦争も体験していないから、戦時体験を自分のリアルとして受け取れない。いくら重要だと言われても、歴史上の資料としてしか見ることができない。でもコロナ禍は、今を生きる誰もが当事者だから、この先も当事者性を持って向き合えるはずだ。「Distance わたしの #stayhome 日記」は、それぞれの今を未来に残す、当時の気持ちをこの先もずっと呼び起こしてくれる、貴重な一冊になると思う。

※公式ストアではサイン本やグッズが販売されています

6.12

BRUTUS京都特集号の評判がよくて、買おうか迷っている。具体的には忘れたけれど、けっこう凝った内容らしい。BRUTUSとかPenとかPOPEYEとか、こういう雑誌はごくたまに買う。今までシェアハウス特集だったり、映画とか本、写真の特集号は買ったことがある。しょっちゅうやってるんだけど。サブスクドラマ特集は欲しかったが買わなかった。

TRANSITの京都号も気になる。TRANSITは前からよく買っていた。そしてわれわれ都人、地元の特集号買いがちなのだろうか。まだ買ってないけど、僕は地元のことを全然知らないから、観光客に紛れていろいろ行ってみたい。

アイスコーヒーを作ると、多めに作るからついガブガブ飲んでしまう。こう暑いと、なおさらアイスコーヒーが進む。コーヒー豆の消費量が増える。捨てたガラを見ると、たくさん飲んだなーと思う。またそろそろ豆を煎らないといけない。先日家電屋に行ったら、家庭用のコーヒー焙煎機が売っていた。買うほどではないかなと思って手を出していない。5万とか10万とかするけど、安ければ買っていたかというとそうでもない。結局一度にそんなたくさんは焙煎できない。時間もそれなりにかかる。メンテナンスも必要。だったら手でやるか、となる。

ここ最近は本を読むのに疲れて、村上朝日堂ばかり読んでいた。疲れたときの、村上春樹エッセイ。スルスルいける。何に疲れたというわけでもなく、特に何もしていない。何もしてないのに疲れた。パソコン初心者がよく言うところの「何もしてないのに壊れた」。「読書の日記」も読んでいる。これも分厚いだけで、気負いせず読める読み物。

映画「孤狼の血」を見た。汚職警官が主人公の超ベタなヤクザ映画。「孤狼の血2」がそろそろやるらしくて、どうするんだろう?と思う。続きの内容なんて作れるのかな?

物を買わないようにしたい

最近は物を買いすぎて困っている。生活に困るほど買い漁っているとか、置き場がなくて困っているわけではないんだけど、なんというか、物をたくさん買うことへの罪悪感がつのりにつのっている。例えば子供の頃、つぎつぎと新しいゲームソフトを買って親に怒られたような、あの感じ。せっかく買ったのに全然遊ばず(高かったのに)、新しいものが出たらまたすぐ買ってしまうやつ。浪費、無駄遣い、なんでもいい。そういう罪悪感が僕の体の中に充満している。

無駄遣いが一番ひどかったは20代前半で、会社員の頃だった。買っていたのは服、カバン、帽子、靴など。全然履かないまま今もまだ残っているものもある。だいたい10万単位で買いまくっていた。まあそういう時期って、誰しもあるんじゃないか。人それぞれタイミングと対象が違うだけで。

その後買い物はしなくなり、浪費対象は旅行へと向かった。旅行はまあ、そりゃあ普通に金がかかる。しかしそれでも、年に数回の長期休暇にしか日程が組めないわけで、行った先で散財するわけでもなく、旅行ばかりしていた頃は意外とお金が貯まった。お金がかからない旅行をしていたのも大きい。旅行にお金をかけるとそれなりの見返りを求めてしまうもので、トラブルやアクシデントが楽しめなくなる。タダ同然の旅行であれば、不手際さえ楽しい。

定職がなくなり、まさに旅行中心の生活になってからは、物を買うことが格段に減った。その当時は「物より、思い出」を地で行ってた。後には何も残らなかったが、自分にとっては本当に有意義だった。同じ浪費(消費)でも、物を買うより体験に使いたいと思っていた。単純に貧しくなったのと、引越しが多くて物を多く所有できなかったことも大きい。

そうやって物を買う生活は一度終了した。しかし最近になって、物を売るようになった。物にたくさん触れ、物の良さを再認識してしまうことで、とうとう再び物を買う生活に戻ってしまった。今しか買えないものを、投資と言い訳してまで買い、当分は全然売る気がない。今僕の身の回りは、物であふれかえっている。高額商品ではないがそれなりに価値があり、いいものばかり。決して浪費ではないが、それにしても買いすぎている。

やっかいなことに物を買う人の本を読んだことで、勢いを増している。その他にも「断捨離は悪」と言うような人たちをフォローしていたり、彼らは物を買いまくることを全肯定どころか推奨している。自分のかつての価値観と相反した影響を受け、戸惑っている。

「値段で迷うなら買ったほうがいい。安いから買っておこうはやめたほうがいい」というような言葉も出てきた。欲しいと思い始めたらきりがない。問題は、この感情をどう処理するのか。買うのか、買わないのか。最近は「買う」を選びがちだった。昨今の、旅行もできない・体験もできない、物を買うことでしか気持ちを昇華できない状況も、大いに影響している。

ガスコンロがセンサーで弱火になるのを防ぐ裏技

裏技でもなんでもないが、意外と知らない人がいるのではないかと思って。僕も知らなかった。ガスコンロの取説なんて読んだことなかったから。

家庭用のガスコンロには温度感知センサーがついており、250℃を超えると弱火になるとか、290℃を超えると一旦停止するとか、なんかそんな機能があるはずだ。僕は普段、朝食の食パンを焼くのに網を使ってガスコンロで焼いている。結婚祝いに友人からもらった、パンを焼く専用の網です。

しかし困ったことに、毎回ガスコンロの高温感知センサーが反応して止まってしまう。焼いていると火が消える。またコンロを付け直し、消えては付け直しを繰り返さないといけない。非常にめんどうだ。しかし安全を配慮したガスコンロの機能だし、こういうもんだと思って、消えては付けてをはや2年ぐらい繰り返していた。

また、最近はコーヒーの生豆を買って自宅で煎っている。このときもガスコンロを使っているのだけど、同様に温度が上がりすぎて、センサーが火を弱めてしまう。放っておけばまた元の火力に戻るんだけど、火が弱くなったり強くなったりを繰り返していると、うまく豆を煎ることができない。自宅でコーヒー豆を煎るときは、一定の火力で煎るためにセンサーの付いていないカセットコンロを推奨する、という記述を見かけるぐらい。

なんとかならないものか。と思って、初めて検索してみた。ガスコンロ、センサー、止まるなどなど。今まで何も調べずに、ただただ苦労していたのが、検索しただけで一発で解決した。

ここの「高温炒め 3秒押し」を押すだけ。以上!これでセンサーが勝手に弱火に切り替える機能を切ってくれる。高温になりすぎると火を止める機能は残っているから、そんなに心配もない。また、一度高温炒めを使っても毎回リセットされるから、センサーをオフにしたいときだけ「高温炒め 3秒押し」をやればいい。こんな便利な機能があるなんて、全く知らなかった。知らないまま2年間めんどうな思いをしていた。万事解決。今は快適なガスコンロ生活を送っている。コーヒー焙煎のためにカセットコンロを使用する必要はなかった。

なぜ、ダイエットなのか(昨日の続き)

63キロなんて、大して太っていないと思うかもしれない。少なくともBMIでは肥満にあたらない。それでは、なぜダイエットを始めたのか。きっかけは人間ドックだった。肝臓の数値が基準値を超えており、要再検査と出た。それで、市内の内科にその結果を持っていって再検査することにした。ふたたびエコーを受けたり、血液検査を受けたり。

再検査の結果としては、軽度の肝機能障害。うっすらと脂肪肝らしきものが見られる。原因として、おそらく帰国してからこの2年で急に5キロも太ったせいかもしれない、ということだった。食生活など、生活習慣の変化による急激な肥満。それがこの肝臓の数値に影響しているのではないか、という診断結果だった。

医者からは、3,4ヶ月後にまた様子を見ましょうと言われた。このままひどくなっていくと困るから、食事のバランスや運動を増やすなど生活習慣を改善した上、徐々に数値を良くしていきましょうと。それでダイエットをすることになった。

以前の体型に戻すのであれば、僕は単純に昼食をなくすことを提案した。前は食べていなかったし、少なくとも僕にとっては食べ過ぎであった。しかし奥さんにとって一日三食は当たり前で、食事を減らすのはかえって健康を損なうのではないかという懸念があった。その後僕がビールばかり飲んでいたらすごく怒られた。体質改善する気はあるのか、と言われた。

そのときはだいたい毎日ビールを2本飲んでいた。柿の種などのおつまみも食べていた。昼食を減らすぐらいなら、先にそちらをやめて欲しいというような意味合いだったのだろう。ただそうなると、僕のはけ口がなくなることも奥さんは心配していた。僕はおととしから禁煙をしており、来月で丸2年になるけれどいまだにタバコの夢を見る。そこでお酒まで辞めろと言っていいものか悩んでいたらしい。抑制しすぎることで、ストレスでかえって体を悪くしないか。

でも僕がそんなことを一切気にせずに、お酒ばかり飲んでいたから頭にきたらしい。「そんな一方的に言われても」と僕は言い返して、散々言い合いをした。結果、体質改善をするならやはり昼食は抜く、お酒はこれまでより控える(今は週の半分ぐらいしか飲んでいない)、運動はなるべく時間をとる、という形に落ち着いた。昨日書いた日記の通り、運動する時間は全然取れない。だから今は、比較的穏当な食事制限だけを行っている。

とりあえず一ヶ月で3.4キロ落ちた。今のペースでこのまま2ヶ月、3ヶ月と体重が減り続けるとは考えにくい。先月は落ちやすかった部分だけ落ちたのだろう。今後は極端な暴飲暴食を避け、今ぐらいの体重を維持できればいいのかなと思う。次回の検査で、多少なりとも体質も改善していれば、奥さんの心配のタネも一つ消えるなーと期待している。僕自身が体型を気にしているとか、体重を気にしているとか、体調が悪いとかそういうことはない。