肩肘張らない「シン・ウルトラマン」の感想

奥さんがウルトラマンの予備知識ゼロだったため、シンウルトラマンを見る前にAmazonに100円払ってウルトラマン第1話を見てから臨んだ。大正解だった。というのも、公開初日に見た人から「1話ぐらいは復習しておいたほうが見やすい」と言われ、従ったまで。

ついでにYouTuberの動画で予習もしていった。劇場公開前のものなので、いわゆるネタバレはなしです。展開の予想はしている。これもシンウルトラマンを見る前に見ておいてよかった。大正解だった。

こっからは本編の話。ネタバレもしていきます。

  • 全体的な感想
  • 俳優や演技の感想
  • 本家ウルトラマンとの違い
  • 宇宙人SFとしてのウルトラマン
  • 小ネタ
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最近聴いているレコード

月イチでレコードを買ってもええやんと思いながら、ときどき買っては聴いている。中古だったり新譜だったり再販だったり、ジャズだったりソウルだったりアンビエントだったり。そういうわけで、最近買って聴いているレコードの記録。

Nala Sinephro - Space 1.8

ナラ・シネフロのスペースは去年の秋(2021年9月)にレコードが出て、気づいたらなくなっていた。今年にまた再販されたから、そのタイミングで購入。アンビエント・ジャズっていうことなんだけど、スペースというタイトルの通り宇宙っぽい。宇宙っぽいイメージとジャズは相容れないような気がするけど、聴いてみてああなるほどこういう感じか、と納得した。

Wee - You Can Fly on My Aeroplane

ウィーというグループ、全然知らなかった。アルバムは70年代にこの一枚しか出ていない。2008年に一度再販されており、そのときは2枚組で未発表曲も含まれていたようだ。今回僕が買ったのは白盤の1枚。とても分厚い重量盤で、ケースから出し入れすのが大変。甘茶ソウルと呼ばれるジャンル。

Monica Zetterlund, Bill Evans - Waltz for Debby

ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビーの歌入り。こんなのがあることを全然知らなかった。安かったから買った。歌っているのは、モニカ・セッテルンドというスウェーデン人の歌手。この人の物語は2014年に「ストックホルムでワルツを」というタイトルで映画化されている。曲調に合ったソフトな歌い方をしている。

最近は Wu-Tang Clan An American Saga を見ているから、ウータンのレコードがほしくなってきた。

昨今のインターネットは速いらしいぞ

ここ最近はよく実家に帰っていた。実家の回線につなぐと、不安定でよく切れることに気づいた。かつて実家に住んでいた頃は、もっと安定していた。回線業者に連絡してみると「チャンネルを変えてみてはどうか」と提案された。電波の干渉が増えてるんじゃないかと。いろんなチャンネルを試してみたが、あまり変わらなかった。

実家の光回線は、契約してから10年以上放置されていた。うちの親はネット回線のことなんて何もわからないため、そのままにしてあったのだ。僕も最近のネット回線事情なんて、全く知らない。10年も経てば、きっと技術革新しているだろう。いろいろ調べてみた。

  • 1Gbpsがあたりまえ
  • Wi-Fi 6 なんてものがある
  • あとはIPv6
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これから夏に向けてやること

時間が吹っ飛んでいた。そろそろ自分に時間を使いたくて。

ワクチン3日目接種

何をするにもまず、ワクチン接種がいりそうだ。今のところ外国に行く予定はないけれど、海外渡航をするためには3回目接種が必須条件となってくる。受入国やその他空港などによって事情は違うと思うので、予定がある人はそれぞれ確認してください。

3回目ともなると、個別も集団接種も予約が取りやすい。去年みたいに一ヶ月待ちとか二ヶ月待ちの必要はなく、月内で予約が取れた。

最近も知り合いに感染者が出て、まだまだ全然身の回りに存在することを実感する。ワクチン接種済だったから無症状と言っていた。ヨーロッパの方では「まだ罹ってないの?」と言われることもあるとか。それぐらい感染が身近なことになっている。2年前はあれだけ大騒ぎしていたのが、ワクチンのおかげでこれだけ軽々しい話題になった。

佐藤健寿展 奇界/世界 に行く

佐藤健寿展 奇界/世界

兵庫県西宮市の大谷記念美術館というところで6月5日までやっている。その後は6月18日より高知県立美術館へ移動する。西宮なら日帰りで行けるけど、高知に旅行がてらに訪れるのもいいんじゃないか。今はローカル美術館めぐりがちょっとした遊びとしてもてはやされている。僕個人的には、図録がほしい。

佐藤健寿が何者かって話はこのあたりを参考に。

写真家、佐藤健寿についてのメモ - Letter from Kyoto

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO に行く

BRIAN ENO AMBIENT KYOTO – ヴィジュアル・アートに革命をもたらした ブライアン・イーノによる音と光の展覧会 BRIAN ENO AMBIENT KYOTO 2022.6.3金~2022.8.21日 11:00-21:00 京都中央信用金庫 旧厚生センター(京都駅徒歩5分)

ブライアン・イーノについては、先日のアトロクでも西寺郷太さんが「最高の家庭教師」として紹介していた。デヴィッド・ボウイ回なのに半分ブライアン・イーノ回になっていた。コーナーの最後でも AMBIENT KYOTO について触れていた。何やら京都でブライアン・イーノの展示会があるらしい。

6月3日より8月21日まで開催されているから、てきとうに空いているタイミングでいいかなと思う。前売りチケットを購入できるけれど、全部の日程で満席なんてことはきっとないだろう。これは地元京都でなければ行かなかった。京都で開催してくれて嬉しい。

今はウータン・クランの伝記ドラマ、Wu-Tang: An American Saga を見ている。シーズン1の6話ぐらいまで来た。見ていてなかなかおもしろい場面に行き当たらないんだけど、90年代ヒップホップの空気を感じられるファンドラマとして見ていられる。役者はゲットダウンの人などが出ている。

映画シン・ウルトラマンも見に行くのだろうか。今のところ未定。5月13日より公開予定。IMAXレーザーも4DXもMX4Dも見たことなくて、一度見てみたいと思いつつも現行のドクター・ストレンジには興味がなくて。

マンガで見かけた絵金祭り、今年は開催されるのだろうか。

土佐赤岡絵金祭り 公式ウェブサイト

夏に向けて、これからやりたいこと、行きたいところはまだまだ出てくるはず。

なんもしたくねー

父が亡くなった。ガンが見つかった時点で、助からないのは確実だった。残された時間は短く、あとはどう過ごすか。僕は最近時間の自由が効く方だったから、病人の父をけっこうサポートした。病院通いであったり、実家で過ごすにあたっての補助だったり。

具体的には、まず病院からの連絡は全て僕が受けた。入院中は2日に1回ほど病院に通い、洗濯物を交換し、本などの差し入れを持っていった。コロナ禍なので一般人は病棟に入れず、差し入れも看護師を通じての受け渡し。面会もできず、通話で話すのみ。入院中、父は検査を繰り返し、化学療法を行い、食事がままならなくなりみるみる痩せていった。

入院期間が終わり、通院生活が始まると、父の体調は一旦落ち着いた。食事ができるようになり、外を散歩したり、酒やコーヒーを飲むこともあった。親戚や知人に連絡を入れ、自宅を訪ねてもらったり訪ねたりした。父は入院前のように、冗談を飛ばすこともあった。僕は父のやりかけの仕事を手伝ったり、確定申告書を税務署まで出しに行ったり、散歩に付き添ったり、薬の管理やときどき食事を作ったりもした。

母は日中働いているため、夜父に付き添った。東京で勤めている妹は、リモートに切り替えて一週間おきに東京と実家を行ったり来たりしていた。僕も今住んでいる家と実家を行き来する日々だった。奥さんは初めから全面的にサポートしてくれた。退院後の化学療法が始まると、父はまた一気に体調を崩した。化学療法は中止となり、在宅の緩和ケアに切り替わった。

副作用の期間を抜けてからも父の体調は戻らず、病気の進行による衰えが目に見えてきた。父の苦しみを少しでも軽減しようと、薬を変えたりリハビリの運動を頼んだり、点滴のタイミングを変えたり、在宅ケアでやってくれることをいろいろ試した。母は少しでも口に入れやすい介護用の栄養ドリンクを、あれこれ検討して用意した。妹と奥さんは父の足のむくみを取るために頻繁にマッサージを行った。僕も母親もやった。

先日父が亡くなった。僕が奥さんと葬儀社に相談に行っている間、自宅で母と妹が看取った。口から吐いた血を妹が浴び、壮絶だったらしい。そこから通夜、葬式と、怒涛の日々が続いた。現時点でまだまだやることがあるけれど、なんもしたくねー。今年の連休は、去年おととしよりも何もしない。保険、相続、不動産、名義変更、解約、やらないといけないことだらけだけど、なんもしたくねー。

なんかやりたいこと

あったんかなー。自分にとってやりたいことは、即物的なことしかなく、その場の思いつきでやってきた気がする。自分の意識は、今と結果にある。未来はあまりない。未来の何かに向けて行動するということがずっとなかった。やりたくないことをやらない、やめる、その結果がある。先々に向けて、何かをやってきた覚えがない。考えたこともない。そういう生き方、思考パターンではなかった。

だから自分にとってのやりたいこととは「今やりたいこと」で、やりたいと思ったら大体すぐやっているから、「やりたいことがある」という状態があまりない。「もう既にやってる」になる。準備段階もあまりない。今すぐできることしかやりたいと思わない。それが例えば旅行の準備といった、やりたいことに至るまでの過程だったとしたら、それはもう既にやりたいことに含まれているから、やっていることになる。

そんな思考・行動パターンだから、「やらなくて後悔」というのはまずない。タイミングを逃した、ということはあっても、行動しなかったことが悔やまれることって思い浮かばない。やりたいことは、やればいいんだから、やらなくて後悔するというのは、僕としてはけっこう理解できない。なぜやらないのか?僕なりの理解では、それはきっとやりたくないんだろう、と思う。怖いとか恥ずかしいとか面倒とか勇気が出ないからやりたくないという気持ちが、やりたい気持ちに勝ってしまう≒やりたくない。

なんかやりたいことあるかな、なんて考えたら、やっぱりないな、と思う。今じゃないな、と思うこともある。それはやっぱり僕の中で究極に強い気持ちであるめんどくさいが勝る。あとはなんかそんなやりたいこととか言い出したら、今の生活が犠牲になってしまう。例えば僕はただやりたくて外国で3年ほど暮らしていたけれど、今はそんなこと絶対できない(もうやりたいとは思わない)。

やりたいことは、なんとなくやりたいというよりは、明確な意思だったり理由があることが多い。10年ほど前、日本の生活が本当に嫌になり、環境を変えたら何か違うかもしれないと思って、外国に住んでみた。いろんな国、仕事、環境を試してみた。結果としては、ある意味で違うには違うけれど、同じと言えば同じだった。環境を変えるということは、あまり自分に影響しなかった。

なんかそういう明確にやりたいことが思いついたら、行動するかもしれない。そしてすぐ飽きてやめるかもしれない。自分にとってのやりたいことって、そんなもんだなあ。

2022年にiPhone6s

現在奥さんのお下がりの iPhone X を使っているのだけど(奥さんは12Max Pro)、昨日家の中で落とした拍子で画面に線が入るようになった。割れたとかではなく、画面内に縦線が入る。スクリーンショットを撮ると線は写らないから、液晶が壊れたのだろう。再起動などをしても治る気配がない。

これまでガラスが割れたことはあったが、こんな形でiPhoneを壊したのは初めてだ。iPhone X は2017年の商品で、今年は2022年だから奥さんと僕とで丸4年以上使ったことになる。液晶が壊れたんだったら、さすがにもう買い替えていいだろう。現行で買い換えるとしたら、最新スペックなんていらないからSEでいいやと思った。iPhone SEの第3世代をAppleのページで見てみたら、高い。6万円近くするSEなんてSEと呼べるのか。

型落ちのSE2だと、新品で4万円、中古品で2万円からあった。もともと必要のなかった出費だから、なるべく低く抑えたい。どうせケースに入れて使うんだから、もうこれは中古品でいいんじゃないかと思えてきた。外装に傷があろうとなかろうと、どうせ隠れてしまう。そう思って今ヤフオクやメルカリを見まくっている。これを買ったとして、どれだけ長く持つかわからない。

まだ購入していないけれど、買って手元に届くまでにもしばらく時間がかかるだろう。 液晶の壊れた iPhone X は眩しくて使えたもんじゃないから、急を凌ぐため以前に使っていた iPhone 6s を引っ張り出してきた。Xのデータを全て6sに移す作業をやる。幸い6sでも最新のiOSに対応している。移行手続きはスムーズだった。

iPhone6s ともなると2015年の製品で、7年前となる。データを移し替えていざ使ってみたら、バッテリーが全然もたない。バッテリーの消耗も70%と著しいが、それ以上に現行のOSやアプリが大容量バッテリーを前提とした仕様になっているため、満充電しても6s程度のバッテリーではすぐに使い切ってしまう。これをこのまま長く使い続けるのはしんどいと感じた。

型落ちを中古で買ってまでiPhoneを使おうとするなんて、おそらくAndroid勢の人からすれば狂気の沙汰だと思われるんじゃないか。僕も一時期Android機を使用していたけれど、結局iPhoneに戻った。近年では僕みたいにAndroidを使ってみたけどiPhone戻りした人も多いと思う。もちろん Google Pixel などの台頭でそのままAndroidへ移行した人も多い。特にスペック重視の人ほどAndroidへ流れている。

僕は使い勝手のシンプルさと安定性を重視して、Androidはやめてしまった。高くて低スペックでも、結局iPhoneを使っている。ブランドというよりは本当に慣れであったり、いまだにMacBookを使っているからその互換性を取ったという具合。Airdropとか使いたいじゃないですか。

「光りの墓」は爆睡映画だった

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作映画「MEMORIA」の公開に伴い、アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ 2022 という催しが行われている。僕は2015年公開の過去作「光りの墓」を見に行った。

【アピチャッポン イン・ザ・ウッズ2022 各劇場 上映情報】|ムヴィオラ|note

映画館で寝るっていうことはあまりない(たまにある)。今回の「光りの墓」はとんでもない爆睡映画だった。寝てしまう映画と言うと、普通は退屈な映画を思い浮かべるかもしれない。ある意味その通りでもあるんだけど、この「光りの墓」はむしろ「寝るための映画」と言ってもいいんじゃないか。

というのも、前の席の人もどうやら寝ている。隣の人も、どうやら寝たり起きたりしている。劇場に来ている観客の全員が、おそらく上映時間のどこかで寝ている。いくら眠たい映画といえど、そんなことが実際にありうるのだろうか?いや、この映画に関しては、どう考えても意図的に眠気を誘っている。映画なのに!

僕は見る前から「眠気を誘う映画」という評判を聞いていたので、気を引き締めて見に行ったつもりが、うっかり数分寝てしまった!いかんいかん、と目を覚まし、画面に目をやるが、集中すればするほど…眠い…何じゃこの映画は。そして観客もみんな寝ているではないか。まるで集団催眠術にかかっているような、異常な映画体験。

この映画をソフトや配信で、自宅で見ようものならきっと、最後まで見続けることができなかっただろう。映像そのものは意味がわからない。長いし、単調で、どうしても途中で止めていたと思う。ただわからない映画という感想だけが残ったんじゃないかな。しかし映画館はそうはいかない。

「光りの墓」は眠り病にかかった兵士たちを寝かす病棟が舞台の映画なんだけど、画面のこちら側にも眠気が伝わりすぎて、映画と観客席との境界がなくなっている。スクリーンと客席がこれほどまでに一体化した映画館は、これまで見たことがない。しかも寝ている。

内容については、特に触れるところがない。あまりよくわからない。「ブンミおじさんの森」のほうが見やすかったから、アピチャッポン映画を見たことがない人はブンミおじさんを見ることをおすすめします。「光りの墓」を見ようと思う人は、ぜひ映画館で、絶対一度も寝ない覚悟で挑んでみてください。

ブンミおじさんの森(字幕版)

ブンミおじさんの森(字幕版)

  • タナパット・サーイセイマー
Amazon

ヒトコトへの回答㉕:大人になってからの友人

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

72通目:大人になってからの友人

歳を重ねるにつれて虚しさを感じたり、孤独を感じる事が増えてきた。
何度かこの「ひとことどうぞ」に投稿しているのですが、また投稿しちゃいます。

24歳男です。社会に出て、仕事柄多くの人と会ったり知り合ったりするのですが、学生の時とは違い誰とも腹を割って話して仲良くなれていないような気がしています。
その気持ちって年々強くなっていて、例えば小学生の時は無垢に他人と積極的に関わり遊ぶことが心から楽しく充足感を感じていたと思うのですが、成長するにつれ進学するにつれ新しく仲を深める友人というのはどんどん少なくなり、社会人になってからは親しくなれたと思う人は誰もいません。

職場の人の「名前」「最寄り駅」ぐらいは知っていますが、それ以外に何も知らずただ一緒に仕事を進めている”だけ”という関係性なんです。
ここ数年ずっと話す人たち皆んな、名前は知っていますがそれ以外何も知りません。 本当に人っていうのがただの「記号」であり「情報」になってるんです。

違う目線で見ると、自分も誰にも心を開いていないんですよね。 進んで自分から情報を開示したりしませんし、積極的に他人と関わろうともしていません。
もう近代化が進んで合理的になっている現代で、みんな同じようだとも思うのですが、そうやって生活していると自分がプラスチックであるような非常に無機質な存在に感じます。

幼い時はそんなことありませんでした。新鮮なフルーツのような果汁をたくさん秘めていていつも新鮮で目が輝いていたように思います。
その時の記憶や感覚が残っているからこそ、成長してしまってこの現状がとてつもなくキツく不自然に感じています。
それを寂しさや孤独と書いたのですが、川添さんは大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?

私の性格上、どっちかというと1人で本読んだり物思いに耽ってるのが好きなんですけど、それでもこの感じている他人との関わり合いのギャップに酷く寂しさを感じ、年々酷くなっているように思います。まだ20代なのでこの先人生まだまだ長い、これはキツイなと思い、勢いで書かせてもらいました。

何度かもらってるそうです。どの投稿でしょうね。

今回の内容は「大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?」という質問だった。子供の頃とは違う、醒めた人間関係に物足りなさを感じている様子。なるほど、確かに仕事を通じて知り合ったり関わったりする人は、どうしてもビジネスフィルターがかかる。僕も仕事を通じて知り合った人と、プライベートな友人になるってことはほとんどなかった。同じ職場の人だって、同期入社だった人も、今は全く連絡取っていない。

僕がわからないのは、大人になってからの人間関係が無味乾燥としていて寂しいと言いつつ、なぜ自らその状況を維持しているのか。「心を開かず積極的に人と関わらないから、かつてのような人間関係を築けない」という原因が分かりきっているなら、打開すればいいのに、それをやらない。なんでだろう?

職場の人間関係がめんどくさくなるなら、遊びや趣味の場、交流の場に参加するでもいい。スポーツでも音楽でも芸術でも習い事でも、なんなら読書会のような社会人サークルでもいいし英会話スクールみたいなのもある。休日のうち何時間でもそういう時間に割り当てれば、その孤独や寂しさは解消できるように思うんだけど。

僕の周りでは、社会人になってからフットサルをやっている人が多かった。バーに通って店の人や客同士で交流している人もいた。トークイベントや映画館、舞台に通って共通の趣味の人を見つけている人もいた。キャバクラなんかに行ってる人もいた。今だったらツイッターやアプリを通じても交流相手を見つけやすい。

そういう何らかの活動に参加したり、関わる相手を見つけたりするのが嫌ならば、現状に甘んじるしかない。寂しかろうと孤独であろうと、それが「行動しない」という自分の選択の結果なのだから、納得行くはず。

僕自身の話。僕は学生時代の友人とも、ほとんど連絡をとっていない。数少ない人と、連絡するとしても年に一回かそのぐらい。だから「大人になってからの人付き合い」という変化はあまりないと思う。かつての友人との縁は、それぞれのタイミングで接点がなくなり途切れた。

大学を卒業して社会人になってからも、以前とあまり変わらなかった。大人になったことがきっかけで、人間関係が無味乾燥になっていった覚えはない。腹を割って話すとか、自己開示とか、普段から平気でやっているほうだと思う。だだ自分の場合はどちらかというと、他人と関わるためではなく普段からそうなだけで、何事も一人でやることが多い。

自分がやりたいことはだいたい一人でやる。一緒にやる人がいたら声をかける。けっこう気軽に声をかける。

人はいてもいなくてもいい、人付き合いそのものが楽しいってことはそもそもあまりない、大人になる前後で大した変化もない、寂しいとか孤独とか思わないというのが僕の回答になります。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

毎日のストレスと

日々のストレスを誤魔化すために飲酒量が増える日々、増えているのか、前々から変わらない気もする。かつては眠くなるまで酔って、酔った勢いでないと寝られなかった。酒代を節約するために、少量で酔えるウイスキーや焼酎ばかり飲んでいた。長らくボトルが家にあり、空けては買ってを繰り返していた。今は主にビールと酎ハイだから、アルコール摂取量は減っているんじゃないか?どうだろう。

禁煙を始めてから、あと2ヶ月で3年になる。かつては飲酒とタバコがセットだったおかげで、酔いが回るのも早かった。今は飲酒のみで、その分やはり酒の量は増えているだろうか。運動とかすればいいって定期的に思っているけれど、準備がめんどくさくてなかなか。食べ物の消化が遅くて取り掛かるのに時間がかかったり、酒が飲めなかったり、着替えたり余分に洗濯したりと、運動にまつわる余計なことが多い。

ストレスをやり過ごす、そういうスキルが全然備わっていない。ストレスマネジメントは、そもそもどれぐらいストレスを感じるかに大きく関わってくる。そこからさらにストレス耐性がどれほどあるか。ストレスそのものを避けることが根本的には大切で、自分の場合にはなるべくそれで対処してきた。原因を取り除けば、自分を変える努力も必要ない。これまでは手を抜いて、避けるという手段をとってきた。

日々ストレスに晒されるなかで、その多くは避けることができる。関わらなければいいだけ。もしくは、形だけ表面的に関わって、入り込まないようにする。本当に深く関わらないといけないことは、ごく限られている。今自分はそれに晒されているわけで、避けられない場合、ストレスマネジメントのいつもの手段が使えない。堪え忍んだり、酒で誤魔化すしかない。

ストレスだったりなんであったり、弱い自覚があるからずっとずっと強い人間になろうとしてきた。だけどあまりうまくいかなかった。ときどきモロにストレスを受けている人を見てゾッとすることがある。でも彼らは本質的に強い分、僕なんかと違って平気だったりする。事あるごとに泣き喚いたところで、平然と日常生活が送れているならそっちのほうが十分強い。

多くの時間を費やしているおかげで、それ以外のことにあまり時間が使えていない。それでも図書館で借りた「プロジェクトヘイルメアリー」を、期限までになんとか読み終えようともがいている。上下巻の上巻が終わりそうだ。この本については、事前になんのネタバレも見ないほうがいいと言われていたから、内容については伏せておこう。他の本は全然読めていない。映画はときどき、配信で見る程度。

あんまりだなあ。創作物を摂取することでなんとかかんとか、それもままならない。平穏な暮らしは続かんもんだ。

新しい MacBook Air を待ち望んでいる

先日Appleの発表があったけれど、MacBook Air の新しいデザインはなかった。僕は2016年の悪名高き MacBook 12inch ローズゴールド をいまだに使っており、その前はシルバーの MacBook Air を使っていた。現行の MacBook Air はシルバー、ゴールド、スペースグレイの3色で、あまり惹かれない。新しい色が出たら買い替えたいな、と思いながら何年も待っている。

パソコンの寿命はだいたい3年とか5年とか言われている。それは動かなくなるという意味ではなく、バッテリの保ちだったりスペックが追いつかなくなる理由から来ている。今使っているのは丸6年経ち、7年目に入った。

  • 高1からパソコンを使いはじめて(1999)
  • 大学1年でエプソンダイレクトのノートパソコンに乗り換え(2003)
  • 社会人1年目に iMac からのMac入門(2007)
  • 社会人5年目にMacBook Air(2011)
  • オーストラリアで買った今使っている MacBook(2016)

振り返っても今の MacBook を一番長く使っている。最近では「iPadで十分、iPhoneで十分」という人も多い。今の若い人はパソコンを使わない人が多いと聞く。僕はMacだからゲームはしないし、仕事でパソコンが必要というわけでもない。それでも普段遣いで、タブレットよりスマートフォンよりも長くMacを使用している。iPhone初期からの、母艦としてのMacの立場が変わらない。

そういうわけで、デザインの一新されたMacを待ち望んでいるのです!長らくウィンドウズを使っていたのに iMac を買うことに振り切ったときも、プラスチックからアルミ筐体に変わったタイミングだった。見た目から変わることで、気持ちの盛り上がりも大きい。

なぜ Air なのか。Pro はないのかというと、Proはでかくて重いから、持ち運びにくい。デスクトップは、そもそも今デスクがない。携帯性でiPadとキーボードも考えたことあるけれど、スペックの割に高く、やれることの範囲は狭い。Apple製品以外は、たまにはいいと思う。メインで使うのはできるだけ Mac がいい。

次期MacBook Airはデザイン一新、ただしM1チップ続投とのアナリスト予測 - Engadget 日本版

新型MacBook AirはM1搭載しデザイン刷新と予想〜M2とミニLED搭載されず - iPhone Mania

入院中の父に持っていった本、漫画

現在も入院が続いている。コロナではないが、コロナ禍ということもあって面会は全面禁止、病室は大部屋であっても仕切られており、患者同士のコミュニケーションがとれない。

父の入院生活は一ヶ月続いており、さぞ不安で孤独で、暇な時間を過ごしていることだろう。せめてもの暇つぶしにと思い、僕が本や漫画を持っていっている。差し入れは直接の受け渡しができず、看護師を介してとなる。

  • 父親のスペック
    • ねじまき鳥クロニクル
    • 高野秀行本
    • 風の市兵衛シリーズ
    • 独ソ戦
  • 漫画
    • ゴルゴ13
    • いちげき
    • イサック
    • チ。-地球の運動について-
    • 満州アヘンスクワッド
    • ヒストリエ
    • 狼の口 〜ヴォルフスムント〜
    • ギャラリーフェイク
    • へうげもの
    • 天地明察
    • 紫電改 343
  • 雑誌
  • 持っていってないもの
    • 戦争は女の顔をしていない
    • 東京の生活史
    • プロジェクト・ヘイル・メアリー
  • 考察:入院中のシニア世代におすすめの漫画
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寺社仏閣以外の京都観光・街歩き 2022

洛外から知人友人が遊びに来るとき、たいていオススメの場所を聞かれる。京都のおすすめ観光地、穴場スポット的なものを聞かれて答えるのは、非常に難しい。地元の人間は生活者でしかなく、普段生活の場にしかいない。

どこにでもあるようなカフェ、雑貨店、服屋、本屋などなど、外から京都に来てわざわざ行くような場所ではない。行ったところで「お、普通やな」「東京、大阪にもっといいところがある」「地元にもある」となるだろう。

そういうのをあえて知りたいという人が、果たしているのだろうか?BRUTUS、TRANSITの京都号あたりは、そういうのも含めてけっこう網羅していた。全部が観光客向けではなかった。

「京都ケチケチ買い物案内」はマンガだけど、好きな人は好きだと思う。

おしゃれなカフェとか飲食店は全然知らないが、身の回りの行ったことあるところ、ないところ、有名なところを、聞かれたときに知ってる範囲で答える用にリストアップしておく。このリストは機能するだろうか?

  • カフェ
  • ラーメン屋
  • 和菓子
  • 本屋
  • レコード屋
  • 映画館
  • 京都国際マンガミュージアム
  • 鴨川ジョギングコース
  • 2022年時点
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最近欲しい物 2022.02

買っていない欲しい物。そのうち買うものもあるかもしれん。ないかもしれん。あまり物を買う余裕がないから、欲しい物をただ並べるだけ。僕の代わりに買ってください。

  • レコード
    • 冥丁 - 古風 II
    • The Weeknd - Dawn FM
    • Grouper - Shade
    • 地球の歩き方 ムー
    • 私の文学渉猟
    • 新訳 ナイン・ストーリーズ
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ただ生きるだけのことが

最近は大変なことがあって、つくづく何で生きてるんだろうなと思う。生きていてよかったとか、生まれてきてよかったと思ったことは一度もない。ただ生まれたから生きているだけで、仕方なく生きている。自ら死のうとしたことはないけれど、死のうと思って死んだ人には「わかるー」と言いたい。いや、僕の痛みや苦しみなんてちっぽけなものかもしれないけれど、それでも。

生きていく上で避けられない苦しみがあり、飢えや困窮、人間関係、病気、戦争、災害、差別などなど、人によって違うけれど、なぜそういう苦しみを受けないといけないのか、何のために、と思う。それはある種、原罪のようなもので、生まれたときから避けがたく背負っている。例えば、死に至る恐怖や痛み、苦しみは、程度は人によるが、誰しもが避けられない。

世の中にはそういうものばかりがあって、つまり、生きていく上で痛みや苦しみばかりがあって、なぜそんなつらい思いをしてまで人は生きているのか、僕には全くわからない。その「なぜ」に興味があり、これまで人の苦しみを読んだり伺ったりしたこともあった。人がなぜ苦しまないといけないのか、なんのために。その苦しみの上で、どうやって生きているのか。どう乗り越えているのか。

結果的には、その答えみたいなものは見つからなかった。ただそこに苦しみがあるというだけ。そして人によってはそれが乗り越えられるたぐいのものであり、程度によっては一生癒えない心の傷になり、自ら命を絶つ人や、精神を患う人がいる。困難に意味はなし。痛み、苦しみに意味はなし。生きていける人はそれでも生きていける。何らかの形で壊れる人が脱落する。ただそれだけ。

生きていて、いいこともなくはない。でも苦しみの量、質と比べると、とてもじゃないけど割に合わない。

自分はこれまでそんなにひどい目に遭ったことはない。戦争も災害も経験していない、重い病気や怪我や障害も、いじめも差別も拷問も飢餓も何もない。ただそれでも、誰しもが経験するような苦しみで、つくづく生きることが困難に感じる。なぜこんなにつらい思いをしないといけないのか。きっとホルモンのバランスが悪いのだろう。セロトニンあたりが出にくいのかもしれない。

こんなに苦しいのであれば、僕は本当に生きていたくないわけで、でもなんでこう、生きるということが必然的に苦しむ構造になっているのかが、まったくわからない。そういう人と、そうじゃない人がいる。僕はたまたまそういう人だった。ただ生きることが苦しい。ときどき、こんなに苦しいんだったら人類みな滅亡したほうがいいんじゃないかと思うけれど、世の中にはそんなに苦しくない人がいて、そういう人生エンジョイ勢にとってみれば、滅亡なんていい迷惑なのだろう。

それよりは安楽死・尊厳死などという議論のほうが、まだ現実的だ。安楽死は、自分でできれば一番いいんだろうな。ただの自殺とどう違うのか。手段の違いだけ。周りのことなんて考えなくていいと思う。ただ人の手を借りるといろいろややこしいから、自分で行使できるのが理想だ。集団自殺とか、全員が全員真剣なんだったら、別にいいんじゃないかと思う。

この手のことを、十代の頃からずっと思っていた。ここ1年は人生の苦難みたいなものを遠ざけていたから、最近また現実の痛みを実感しており、昔からこんなことばかり考えていたことを思い出した。ただ生きていることがつらく、苦しい。人間の生なんて、絶対に肯定できない。