macOS Big Surのクリーンインストールに手こずった

昨日の夜から今日にかけて、ひたすらmacOSのクリーンインストールをやっていた。

まずバックアップを取るためにタイムカプセルを起動したら、バックアップには4時間かかると言われた。地道に待っていたら2時間ほどで終わる。次に12GBのBig Surをダウンロード。30分ほどでダウンロードが完了し、インストールした後に再起動、 command + R でディスクユーティリティを起動する。Macintosh HDDを消去して、Big Surをインストールしようとしたら、ディスクが見当たりませんと言われた。

ここで僕はパニックになり、一度電源を落とした。再び電源を入れると command + R でも何もつかなくなり、サポートを参照してくれみたな英語の表示が出る。わけわからなくなってもう一度電源を切り、再びリカバリーモードに入ると、今度はなぜか、このMacを買った当初のEl Capitanに戻っている。さっき時間かけてダウンロードした12GBのBig Surはどこかへ行ったらしい。

しかたがなくEl Capitanをインストールする。そのためにまずMacintosh HDDを作成し、Wi-Fiのパスワードが通らなかったりして、非常に時間がかかる。なんとかEl Capitanのインストールを終え、Big Surにアップグレードしようとするも、ソフトウェア・アップデートに表示されない。Mojave以降しか対応していないらしい。El Capitanからだと、App Storeの方からインストールできるのかな。再びBig Surのダウンロードが始まる。12GB。インストールしようとしたらできない。ディスクを暗号化していたせいらしく、暗号化を解除してようやくインストール。

Big Surを入れると、ここで振り出しに戻った。今El Capitan→Big Surとアップグレードしたところなので、ゼロからBig Surを入れるためもう一度クリーンインストールする。リカバリーモードに入り、ディスクユーティリティからMacintosh HDDを消去、作成、インストール開始。無駄に時間がかかった。朝の8時だ。

その後片っ端からIDの認証作業を行ったり、アプリケーションを次から次へと入れ直したり、OSを入れ替えて最初にやるべき設定を行ったり、とても時間がかかってようやく完了。今日から僕のMacBookはBig Sur。Appleシリコンチップじゃないよ。

昨日夜通しこんな作業をやっていて、めちゃくちゃ寒くて、頭痛くなった。ねむい。ひたすらねむい1日を過ごしていた。夜になっても頭痛いまま、目は赤いまま。胃は荒れている。なぜこんな苦労をしてまでOSアップグレードを行っていたかというと、GarageBandとiMovieを使いたかったから。OSが古いままだとApp Storeからダウンロードできない。来週にはもう使うため、やや急ぎでもあった。先週はフリーソフトで間に合わせたけれど、どうせならGarageBandとiMovieを使ってみたい。

Big Surそのものは、リリース当初なんかいろいろ言われていたけれど、今のところは何も不具合なし。

f:id:kkzy9:20201130211420p:plain

とりとめない

インドカレー屋でカレーを食ったら、ナンが多すぎて腹一杯になった。後に胃もたれした。ナンの油で胃もたれしたのか、カレーで胃もたれしたのか。インド人のウェイトレスが、日本語が下手ですみませんと言っていた。日本語学校へ通ったりしているのだろうか。この人は前来たときはいなかったような気がする。新しい人っぽかった。3辛を頼んだが、そんなに辛くなかった。5辛でよかったかもしれない。

今日は久しぶりに寒かった。11月も終盤にさしかかり、冬到来を感じる。歩道には銀杏の葉っぱが落ちまくっている。紅葉シーズンも終わったと言われた。前回の休日は、何をすることもなく終わってしまった。なにかしたっけ。どこにも行かなかったっけ。どこかへ行ったとして、金を使うだけだ。自然の中へ入ればいい。もしくは手元にあるものを消化するとか。そうだ、確か休日には本を読んでいたんだ。それでよかった。

思春期の頃、中学生ぐらいの頃だろうか、最も性欲旺盛だ立った頃、目に映る仲の良さそうな男女は皆、性愛関係にあるものだと思っていた。恋愛経験が乏しいとよく、自分と目が合っただけで相手が惚れていると勘違いしたり、自分に優しくしてくれた人は気があるのか?ヤれんのか?なんて勘違いをする。その延長で、仲良さそうな男女は皆、そういう関係なのだと思っていた。友達同士であれ、先輩後輩であれ、上司と部下であれ、仲がいいってことはそれぐらいの関係は簡単にあるのだろうと。いやらしい目でみるというよりかは、そう思い込んでいたフシがある。エロ本の見過ぎだったのだろうか。

というか、今でも少しそう思っている。男女が仲良さそうにしていると「できてんのか?」と勘ぐるのと同じ。僕の場合「カジュアルにセックスぐらいしてるだろ」と思い込んでいた。海外の映画やドラマを見すぎていたのかもしれない。海外も、実際はそんなことはない。人による。少なくともアジア人がその環に混ざることはほとんどない。白人女性と結婚しているアジア人男性もいるから一概には言えない。前の会社の人と話したとき「ガイジンはみんな簡単にやるんだろ?」みたいに言われたが、そんなことはなかった。

名古屋に住んでいたとき、頻繁に白人の路上売春婦を見かけた。他の街、少なくとも地元京都や大阪に住んでいた頃は見たことなかったから驚いた。あれは名古屋特有のことなのだろうか。他の街にもいるとは思うけれど、北米で見かけたのと同じような立ちんぼ、モロ白人の路上売春婦を名古屋では何度も見かけた。華やかな場所ではなく、暗い通りに立っている。街灯の下でもない。派手で薄着だった。

記念日を大事にする女

「記念日」をテーマに挙げられたが、記念日について何も思うところがないため、Googleで検索してみた。するとこんな内容が出てきた。

いろんなこと言ってる。一見根拠があるようなタイトルの記事も、内容は極めて薄かった。どれが正しいかというと、どれも人による、場合による。大事なことは何も言ってない。感想としては、本当にどうでもよかった。

僕自身はというと、数字にあまりこだわりたくない。年齢もそうだし、記念日もそうだ。ただの日付、記号でしかない。そんなものよりも、日々の生活とそこにある実感を大事にしたい。時間は刻一刻と流れている。記念日なんて関係なく、毎日を等価値に見ている。プレゼントをあげるなら、記念日という記号にこだわらず、あげたいときにあげたい。

日付という記号から、生活のいろどり、情感を見出すことは僕にはできない。だから記念日を大事にしている人がどういう感覚なのか、僕にはちょっと理解が及ばない。記念日以外は特別じゃないのだろうか。記号がないと、思い出を振り返ったりしないのだろうか。僕は数字や記号よりも、実態を大事にしたい。

記念日を大事にする男性はモテると書かれていた。だとしたら、それはヤリチンの最適化による結果だろう。中には本当に記念日を祝うことが趣味の男性もいるかもしれない。でもそういう人以外は、記念日を大事にすればモテると思って、よりたくさんの女性とセックスするためにヤリチン最適化した結果だ。

総合的に見て、釣っぽいタイトルのヤフー知恵袋が一番マトモだったなー。

ジャンボシアターについて

「90年代のこと」を読んでいたら、ジャンボシアターのことを思い出した。ジャンボシアターとは、ジャンカラことジャンボカラオケ広場の系列店だったレンタルビデオ店。実家の近くにあって、よく通っていた。高校生のときに潰れた。

映画館は年に数回行くか行かないかという程度だった。しかしジャンボシアターは毎週通っていた。今のような配信サービスが始まる前、レンタルビデオ店へはDVDに変わってからも本当によく通っていた。それこそ毎週ぐらいに。就職してからも大阪に住んでいたときは天六のゲオばかり行っていた。深夜でも開いていて便利だった。名古屋にいたときは金山から尾頭橋のツタヤに通っていた。今はもうないらしい。ドン・キホーテはまだあるようだ。

中学生ぐらいから自分の名義で会員証を作り、自転車で5分ほどの距離にあるレンタルビデオ店、ジャンボシアターに週1ぐらいのペースで通っていた。なぜ頻繁に通うかというと、返却期限があるのもそうだけど、同時に自分が借りたかったものが返ってきているかチェックするためだった。そのために何度も店に通うのだ。ガンダムもZガンダムもリアルタイム世代ではなく、全てレンタルで見た。ビデオ1本に2話とか、長くても4話しか入っておらず、ガンダムはだいたい50話ぐらいあるからめちゃくちゃ通わないといけない。ZZまで見て、0080と0083は途中でリタイアした。エヴァンゲリオンは世代だったけど僕はリアルタイムで見ておらず、後にジャンボシアターで借りて見た。

ジャンボシアターは、旧作なら1本100円で一週間借りることができた。当時良心的だと思っていたが、Netflixが月1,000円程度の今の感覚だと、高いのか安いのか判断することが難しい。とにかく100円とかなら中学生にも平気で手が出る価格帯だった。新作は1本500円とかした。新作1本借りる価格で旧作が5本借りられる。しかも新作の貸出期間は2泊3日とかだった。新作を借りたければ親を巻き込んだり、友人同士でお金を出し合って一緒に見た。「ほんとにあった呪いのビデオ」は新作が出るたびに友人と二人で借りて、そのまま僕の家で見ていた。

いつかの夏休み、ジャンボシアターは意味のわからないセールをしていた。一週間100円だった旧作が、0円になっていた。店に行くと、セールを知った人の行列ができていた。ちょうど夏休みだったから、そのときは本当に借りまくった。週に1回どころか、最初のうちは見ては返して借りて見ては返して借りて、毎日通っていた。それが一ヶ月ぐらい続いた。なんでそんな無茶なことをやったのだろう。いくら客をさばいても店側の利益はゼロだった。僕らにとっては非常にありがたかった。最後の方には借りたいものがなくなっていた。

ジャンボシアターは、ビデオからDVDへ移行する途中で潰れた。潰れたと言っても母体であるジャンカラの会社は残っているから、レンタル事業から撤退したことになる。店が潰れただけ。ジャンボシアターで借りたビデオは数えきれない。映画もたくさん見ていたが、それ以外にもアニメだったり心霊投稿ビデオだったり、パンクラス、リングス、脩斗、UFCも片っ端から借りて見ていた。高校のときは格闘技ブームだったなー。AVは全く借りていない。借りられる年齢になる前に潰れたか、既にインターネット上で見るようになっていたか。

僕にとっては、映画館よりもレンタルビデオ店の方が馴染みがあり、思い出深い。中学の時に、友達の家に5人ぐらいで泊まって、夜通し何本もホラー映画を見ていた。それは全部ジャンボシアターで借りたものだった。一緒に借りに行って、みんながそれぞれ選んだ。確かシャイニングとかを見ていた。ジャンボシアターがなくなってからも、ビデオからDVDに移行しても、長いことレンタル店へ通う生活は続いた。

レンタルDVD店は今もあるのだろうか?最後に行ったのはいつだろう。4,5年前だろうか。行かなくなる前後は、借りに行っても見たい映画や映像作品が全然なかったことを覚えている。借りようと思っても、そもそも置いていない。全然見たくない作品ばかり仕入れては、棚に並べられていた。その頃にはもう、レンタル店は映画や映像作品が好きな人が行く場所ではなくなっていた。何も知らない人が、ただなんとなく借りて、見て喜ぶだけのものが置いてある。その当時まだNetflixに契約はしていなかったが、レンタル店は終わったと思った。

90年代のこと―僕の修業時代

90年代のこと―僕の修業時代

嫁呼称問題について

自分は男性だからかもしれないが、妻と呼ぼうが嫁と呼ぼうが奥さんと呼ぼうが、そこに前時代家父長制の名残りがあろうが、性差別的意味合いを含んでいようが、本人さえよければ何でもいいと思う。インディアンだって、ネイティブアメリカン、アメリカインディアン、どちらを支持する声もあるそうだから。

たまにトピックとして挙がってくるのは、誰かの奥さんを何と呼べばいいか問題。旦那さんでもいいんだけど、気にする人に向けた適当な言葉が見当たらない。旦那さん、奥さんと呼ばれるのが嫌なら、何と呼べばいいか本人から提示してもらうしかない。結局めんどくさくなって旦那さん、奥さんになる。

自分は最初、自分の奥さんのことをパートナーと表記していたが、字面が長く、意味も伝わりにくくあんまりだなーと思って使うのをやめた。今は奥さんで統一している。人の奥さんを指すときもわざわざパートナーとは言わない。本人が呼ばれたくないなら変えるが、じゃあなんて呼べばいいかは本人に提示してもらうしかない。もしくは社会的に適当な言葉を作って広めてください。統一規格となるまで。Ms.は使われてるんだよね?多分。Mrs.は死語になった。

妻、嫁、奥さん以外にどんな候補があるのか検索してみたが、今のところめぼしいものは見当たらなかった。お連れ様だって、接客ならそれでいいかもしれないけど、知り合いには使えない。他人の奥さんや旦那さんのことなんて、話題に挙げないのが正解なのかもしれない。

もう、ポンタとかでいいじゃないですか。「嫁、妻、奥様、旦那、主人、夫は明日から禁止です!パートナーのことはポンタと呼びましょう!」と菅ちゃんあたりが言えばいい。色紙に「ポンタ」と書いてテレビに出るとか。

「都会なんて夢ばかり」を読んだ

まず最初に、フォークなんて今の時代に歌っている人がいるんだーと驚いた。全然知らなかった。だから最初にCDを聞いた。聞いてみて、確かにフォークってこんな感じだった気がする。でもフォークがなんたるかは全然知らない。さだまさしも南こうせつもモノマネやコントで見たことがあるぐらい。僕の世代の人は「LOVELOVEあいしてる」で吉田拓郎を知ったと思う。馴染みがない。長渕剛もフォークなのか?

湿度の高い歌だった。日本的だと思う。日常生活の機微を歌っているという感じがした。言われてみれば私小説っぽいところはある。他のジャンルに比べて、共感を呼びやすいかもしれない。本の内容は、歌を補完するようなものだった。本と歌をいったりきたりすると、その空気であったり世界観がよりクリアに見渡せる。

本の中身は、世田谷ピンポンズの東京での暮らしを綴った日記、記録といった感じ。上京組の心理とか心情ってこういうところあるのかもなーと思う。大学進学で上京した人より、ミュージシャンとか芸人とか目指して上京している人だったら、自分の仲間が書いた本のように読めるんじゃないか。初期ブログ的でもあると思う。

実に庶民的で、ちっぽけだと思う。世田谷ピンポンズの歌っていることや、書いていること、体験したこと、生活、どれも特別なことはない。ただその、歌を作って歌っているということは特別だと思う。中身はそうじゃない。普通。この本に書かれていることも極めて普通の日記。だからこそ、誰でも読めるし、誰でもその情景を思い浮かべることができる。

すごくダサくて、かっこいいことをやろうとしていないところがいい。特に、この本の序盤のダメな空気が、かっこわるくて非常によかった。大学へ入ったけれど友達がいなくて、彼女もいなくて、自意識が強くて、世間に対する羨みと憧れだけがあって。ネットだけが唯一、二次的に人と関わる手段だった大学生の頃。世田谷ピンポンズには、ぜひずっとそのままでいてほしかった。そのままの状態で歌を歌い続けてほしかった。

後半になり、彼女ができてバンド仲間ができて、バイト仲間ができて、もうこんなのは全然読みたくない。歌が評価されたり、CDが出る下り。ライブが受け入れられるところなんか、僕の観点からは全く面白くない。世田谷ピンポンズが人と関わるようになり、世に出て少しずつ認められていく過程は喜ばしいことなのだろう。それはわかる。いい話だということも。

でも序盤のどうしようもなくダメで、鬱屈としていて、かっこわるい世田谷ピンポンズこそが輝いていた。そのときのことを、うまくいってる今となってもこれだけ克明に綴っているのだから、大切にされているんだなと思う。僕は何もできない、何をやってもうまくいかない世田谷ピンポンズこそを、もっともっと見たかったです。

f:id:kkzy9:20201118155038j:plain

フィーリングって言葉はあってるのか

フィーリングという言葉は「なんとなく」みたいな意味で使われているけれど、英語のfeelingに本当にそんな意味があるのだろうか。僕はずっと違和感を持っていた。「なんでそう思ったの?」「フィーリングだよ」みたいなことを言われるたびに、なんだよフィーリングってと思っていた。なんとなくフィーリングって言ってるだろ、と。なんとなくフィーリング。

果たして、世の中にそういう違和感を持つ人はいなかったのか。疑問を解き明かしてくれる人はいなかったのか。なんとなくフィーリングって使ってるやつをしょっぴくフィーリング警察は出動していないのか。抽象概念警察に投稿したい。フィーリングって意味あってますか?feelは感じるだけど、feelingがなんとなくそう感じた、みたいな意味で使えんのかって!!??ちゃんと解説している内容がありました。

やっぱり全然違いますね。feelingとフィーリング。

カタカナでは「フィーリングで話した」「フィーリングで書いた」など深く考えずに感覚で何かをすることを表すことができます。with feelingにすると次に紹介する「実感を込めて、気持ちを込めて」の意味になってしまいます。「フィーリングで話した」「フィーリングで書いた」などは状況にあわせて意訳するしかありません。近い表現はいくつかあります。「off the top of one’s head」は即席で、思い付きでといった意味です。

要するに「直感で」とか「なんとなく」って意味なんだろうけれど、何故それを「フィーリングで」などと言うようになったのだろう。僕が子供の頃はフィーリングなんて言わなかったような気がする。けれどやっぱりフィーリングカップルあたりがきっかけで使われるようになった和製英語なのだろうか。

それ以外にも、フィーリングっていう言葉が気に入らない理由をはっきりと自覚させてくれる内容があった。

フィーリングの使い方 この言葉は「物事が自分にフィットするか?」という文脈で使われやすいです。まさに、フィーリングが合うかどうか。その対象としては、物質や、空間、状況、もちろん人間関係など、ほとんどのものが当てはまります。

頭が悪そうだからだ!フィーリングって言う人からは、何も考えてねーぞー頭悪いぞーっていうニオイがぷんぷん漂ってくる!くせえ!アホくせえ!

直感を大事にする、だとこの感じが当てはまらない。でもフィーリングっていわれたとたん急にアホっぽくなる。なんだろうこの感じ。フィーリング!

同じ日々上等

なんでもない日記を書くのが難しくて、なぜなら何も覚えていないから。単調な日々は、気づいたら夜の2時になっていることも少なくない。あれ、今日は何をしたっけ?いつもと同じ。毎日同じことをしている。書くことがない。書いてしまえば毎日同じことを書くことになる。そしてそのうち、いつの日記なのかわからなくなる。そうやっていつの日記であるかなんて、些細なことになってくる。今日が今日であることに意味はなし。同じ日々上等。

最近読んでいる本

最近「インドで考えたこと」を読んでいる。この本は著者がインドに行って、簡単に言えば文化の違いに圧倒されたということがつらつらと書いてある。そして我が日本を振り返ってみてどう思うか、まさに外から日本と、日本人と、客観視した本だと思う。それもアメリカやヨーロッパではなく、インドという客体のそばから、なるべくその目線を借りて、そこと比較して。

著者がインドで圧倒されたのは、人種の多様さ、気候の厳しさ、街の不整然さ、そこから生まれ、成り立ってきた人間たちと、生活。単に「文化の違い」では片付けられない壮大なものだった。これは本当に、日本に住む人は全員体感して日本に持ち帰って欲しいと思うやつだ。そして日本社会の秩序をぶち壊してほしい。

それは僕が伝統とか秩序をそんなに好ましく思っていない人間だから、そう思うのだろう。保守的な人はインドにいても日本人であり、同じ人間の営みとしてではなく、飽くまで外のこととしてインドを見る。そして日本に帰るとまた元の生活に戻る。むしろ日本の秩序をより守ろうとする。結局は経験、体感ではなく、思想の違いに落ち着く。そこはインドだからそうなのであって、インドの必然を日本に適用できない。そう考えるのが保守的な人。リベラルだったら、インドでできることは日本でもできる、ととらえるんじゃないか。

この本は1957年に発行されたものだけど、独立という言葉一つとっても日本とインドでは全然違うと書かれている。多言語、多人種、多宗教のインドにとって、独立とはindependeceではなくintegrationだと。日本で言うところの天下統一に近いが、インドには日本のような統一言語がない。言語形態も母語も全然違う人達が入り混じっている点において、日本の天下統一とは違った難しさがあるだろう。

どちらがいいというわけではないが、我々日本人は実際のところはインドで暮らすほうが大変だろうな。お金が有り余っていたとしても、日本で暮らすほうが楽に決まっている。インドはたまに行くぐらいが丁度いい。逆にお金が全然なかったらどうだろう。もしかするとインドのほうが暮らしやすい?すぐに死ぬだろうな。健康問題等で。シャンタラムを読んだ人なら誰でもインド生活に憧れる。

バンコクぐらいだったら住みたい。インドは、ずっと住むにはちょっと苛烈すぎる。1ヶ月ぐらいなら住みたい。やっぱり旅行が一番いい。バンコクは、イメージとしてはもうすっかり刺激がなくなってきたんじゃないか。僕らが求めているアジアの魔窟は、やはり統一前のサイゴンなのだ。ぜんぜん違う話になった。

そういう場所って今でもあるのだろうか?マニラあたりは、まだまだ結構そんな感じかもしれない。発展と無秩序の入り混じったような都市。香港もかつてそのイメージだった。やはり小さい街のほうがそれっぽいのか、ムンバイとなるとどっしり構えた大都会をイメージしてしまう。深センは全然違って、整った街だった。

インドで考えたこと (岩波新書)

インドで考えたこと (岩波新書)

初めてパーマをかけた話

30代も後半なんだけど、一ヶ月前に初めてパーマをかけた。髪は肩につくぐらいの長さだったのが、パーマをかけて縮んだ。

パーマをかけたいなんて思ったことがない。今回は奥さんの遊び心で決まった。パーマどころか髪についてずっと無頓着だった。脱色もしたことない。ピアスもタトゥーもない。そういうのに凝るのは、自分の中でなんか違うと思っていた。髪が長かったのも伸ばしていたのではなく、切らなかっただけ。整っていない。あえて人工的な造作を加えるのではなく、そのままでいたかった。

で、パーマをかけて一ヶ月の感想、めっちゃ楽だ。パーマはもうだいぶ落ちてきているけれど、身だしなみ程度に髪を整えなくていいのがめちゃくちゃ楽。ずっとてきとうにほったらかしにしておいても問題ないのが楽。

髪に無頓着とはいえ、寝癖のままだったり伸び散らかし放題だと周りに言われたり、気をつけることもあった。そういうのが面倒で帽子をかぶることも多かった。パーマをかけているだけで、髪を整える作業が全部必要なかった。めっちゃ楽です。手を抜くためにパーマをかけるという手段があるなんて知らなかった。

自分としては、あえて無理矢理人工的な造作を加え、見栄えを良くしようと頑張るのが嫌だった。昔知り合いのモテない人が「モテたいと思って」パーマをあてていたことがあった。それみたいで嫌だった。他にもなんか、自己主張みたいで。

ただ今回パーマをかけて気づいたのは、元からパーマだった人(天パという意味ではない)のことは、そういう髪型なんだなということさえ意識してなかった。それが最初から普通だと思っていた。パーマが過剰だという認識は、急にパーマをかけた人がたまたま似合ってなかったとき、その必死さに引いていただけかもしれない。

僕は今回パーマをかけてみて、人から「あ、パーマかけたんだね」と言われることがなかった。「髪伸びたねー」とは言われたけど、気づかれなかったか、馴染んでいたのか、あえて言うほどでもなかったのか。とにかくそんなに違和感をもって迎えられなかった印象がある。

こんなに楽で、なおかつ違和感を持たれないんだったら、今後も続けたいと思った。

仕事で自己実現はあきらめた

僕らの世代以上だと、多分多くの人が、仕事で自己実現しなければいけないと思っているだろうし、もしくは仕事で自己実現したいと思っているだろう。スティーブ・ジョブズのスピーチでもそんなことを言っていた。僕もそう思っていた。何かしら一旗揚げようなどとは考えていなかったが、この世の中で生きていくには、仕事で自己実現を目指さないといけないのだろうな、ぐらいに思っていた。それが当たり前のことだと。

仕事で自己実現とは、何も経済的に成功することだけを意味していない。そうではなく、ただ仕事を通じて、何かを成し遂げるとか、自分という存在に確証を得るとか、誇りを持つとか、そういうのが自己実現にあたると思う。日本的な言葉だと、一人前になると言ってもいい。いっぱしの存在になるなら、現代社会ではまあ仕事を通じてということになるのではないか。

仕事を通じて自己実現をするためには、手応えを感じていなければならない。ただ仕事をこなすだけではなく、そこになにか矜持であったりが必要になってくるだろう。僕はそれがあまり育たなかった。何をしていても、時間をかければ上達はしていたと思う。具体的な結果にも現れていた。でも、そういうのはあまり関係なかった。自分はそういうのから下りたいと思っていた。

そのうちにもう、仕事で自己実現しなくてもいいんじゃないかと思えてきた。やりたい人だけがやればいい。仕事で自己実現することが社会の構成員として求められていることなら、僕は社会から出る。じゃあ他に何で自己実現するのか。もう自己実現そのものを目指さなくなった。何かを成そうなどとは思わない。時間がくればくたばるのみ。

どこかの段階で、何者かになりたい、何者かにならなければいけないと思っていた。自分は何者でもない自分に立ち返った。

世の中を良くしたいという気持ち

先日フェミニズムに関しての話を聞いていた。その人は自分の大事な人が傷つくような社会は間違っているから、社会が良くなるように働きかけをしたいというようなことを言っていた。端的に言って、世の中を良くしたいという気持ちがあるらしい。

僕にはそれ、全く無い。世の中を良くしたいという気持ちが全く無い。そういうことをしみじみ実感した。例えばその男女差別だとか、人種差別がなくなればいいなーとは思うけれど、そういう社会を実現するために何か働きかけをしようなどとは全く思わない。その人だってもしかすると、自分の身内に関わる具体的なできごとがなければ、僕と同じだったかもしれない。

世の中を良くしようとする働きかけは、例えばデモやロビー活動、署名運動、表現活動、政治家や財界、周りの人や世の中に訴えかける活動、勉強会や講演会を行って意識の共有を図ったり、などがあるのだろうか。それをやっている人についてどうこう意見は持っていないが、自分は全く興味ないなー。

多分、世の中を変えるとか、良くするとか、そもそも世の中に対してあまり興味がないんだろうなと思う。僕はしかたなく生きているけれど、こんな世の中さっさと滅びてしまえばいいと思う。世の中が良くなることなんって、これっぽっちも期待してない。だから世の中を良くする働きかけなんて絶対にしない。

僕がこの世の中に対してあるのは、怨恨だ。世の中が僕を認めようが認めまいが、これから世の中がどれだけ良くなろうと、僕が世の中を認めることはないし、許すこともない。どちらかというと、呪っている。でもそういった姿勢を具体的な行動で示すほど、積極的でもない。ただ憎悪しかない。意識すると疲れるからなるべく無視しようと試みている。

ハーレム願望について

一人の男性にたくさんの女性が群がったり、囲ったりしている状態はハーレム状態と呼ばれている。男性向けのマンガやアニメには"ハーレムもの"と呼ばれるジャンルがあり、一人の主人公を巡って多数のヒロインが競い合う。ジャンルフォーマットとして典型になったのは「ラブひな」あたりからだろうか。ウィキペディアにも項目があった。

ハーレムもの - Wikipedia

去年見たバチェラーなんかも、いわゆるハーレムものにあたるのかもしれない。マンガ・アニメに限らず一定の需要があるということは、ハーレムに憧れる人が多いということなのだろう。男の夢?なのか?

個人的には、ハーレムに対する憧れはない。まず僕はキャパシティが乏しいため、人の名前をたくさん覚えられない。だから浮気とかもできないと思う。名前を間違えるだろうし、誰と何をしたとか全部ごっちゃになってしまうから、一人としか付き合うことができない。願望以前に、能力の欠如があった。

男性に限らずそういう状況に憧れる女性もいるのだろうか?ハーレムの男女逆版を逆ハーレムと言うそうだが、先日まで見ていたバチェロレッテはまさにそんな感じだった。バチェロレッテは複数の男性の中から一人を選ぶ番組だったけれど、本人がとてもつらそうだった。しょっちゅう泣いていたし、みるみる顔はやつれていった。逆ハーレムの状況を楽しむタイプの人ではなかったように見えた。

複数の男性が一人の女声を巡って争う、みたいな描写は逆ハーレムとまで言わずともよく見かける。マンガ、アニメ、映画、ドラマ、小説、そういう状況を楽しいと感じる人がいるのだろうなー。自分には全くわからなくて、めんどくさくないのかなーと思う。めんどくさいと感じるのが、甲斐性がない証なのだろう。

やはり、選び放題なのが嬉しいのだろうか?それとも複数の人から自分が求められている実感が嬉しいのだろうか。どちらの人もいるだろうし、同じ願望でもどちらであるかによって、全然違うなーハーレム願望。選び放題が嬉しいのは、いろいろな相手と遊びたい性欲かもしれない。求められて嬉しいのは、いろんな人に愛されたい、いわゆる承認欲求かもしれない。僕はそのどちらも乏しくて、ハーレム願望をいだかないのだろうか。

大統領選挙だ

大統領選挙ということで、検索して前回の大統領選挙の日記にたどり着いている人がいた。

今回の大統領選挙については何も知らない。ヒラリーはもう出ないのだろうか?前回の大統領選挙でトランプの不正が疑われ、ロシア疑惑?選挙後もいろいろ訴訟などあった気がしたが、それから4年経ってしまった。今回はバイデンというじいさんだ。じいさんということ以外、どんな人なのか全く知らない。副大統領をやっていたらしい。オバマの頃だろうか。

これを書いている現在、バイデンじいさんが264票獲得しており、トランプじいさんよりリードしている。当選には270票必要らしい。トランプじいさんは「不正だ!」と発展途上国の候補者みたいに駄々をこねている。

f:id:kkzy9:20201107002626p:plain

アメリカでは今も毎日10万人近いコロナ感染者が出ている中で、大統領選挙。テレビの映像を見ていたら、ホワイトハウスの前にめっちゃ人が集まっている。すげーっす。意外と結構マスクしている人が多い。日本人の報道の人も現地入りしていたりして、本当に命がけだなーこんな仕事嫌だなーと思うばかり。このままバイデンじいさんが大統領になるのだろうか?バイデンじいさんのことは何も知らない。

アメリカ大変そう、と思うばかり。向こうに住んでいる日本人とか、平気なのだろうか。ヨーロッパはアジア人差別が再発しているっぽいけど、アメリカはどうなんだろう。差別嫌だなーと思う。上っ面だけ取り繕った差別主義者ばかりなのだろうか。そうではない人のことも知っている。

愛されたいと思ったことがない話

奥さんがバチェロレッテを見ていて、台湾でタコを上げるくだりかなにかのときに、タコ(灯籠?)の両面に、「お互いにとって愛とは何か」を書くみたいな場面があった。スギちゃんと呼ばれる上島竜兵みたいな男性は、「花びら」と書き、バチェロレッテは「生きる」と書いていた。「花びら」とは、つかもうとしても手元に収まらず、待っていれば手元に落ちてくることもあるもの、みたいな意味らしい。「生きる」とは生きることそものもが愛みたいな意味だったかな、忘れた。

そこで自分にとって愛を一言で表せば何になるだろう、と思った。自分だったら何て書くだろう。愛とはなにか。すぐに思いついたのは、「空気」だった。どういう意味なのか詳しく書いてくれと言われたから考えてみる。

空気と言ったのは、あって当たり前のもの、みたいな意味だったと思う。自分にとって、ということだけれど、生きていく上で愛なんてものを改めて意識することがない。空気と同じように、当たり前のようにその場に充満している。愛と誠。

愛と平和が充満していない人も環境もあるだろうとは思う。現在の地球上に、大気は無条件で充満しているけれど、月や火星がそうではないように。宇宙空間が不安と混沌に満ちているように。自分は地球環境のようなぬるま湯、ゆりかごで生きているため、愛と平和を改めて意識する必要がない。そこにある空気と同様に、目に見えず、あって当たり前、分け与えるという概念すらない、共有財産だとさえ思わない、存在を意識しない空気。息をするように愛と平和。

Zガンダムにおいてクワトロ大尉がダカールで演説を行ったときは(ダカールの日)、このように表現していた。

人は長い間、この地球というゆりかごの中で戯れてきた。
しかし!時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ。
その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ。
地球を自然のゆりかごの中に戻し、人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星では無くなるのだ。
このダカールさえ砂漠に飲み込まれようとしている。それほどに地球は疲れきっている。
今、誰もがこの美しい地球を残したいと考えている。
ならば自分の欲求を果たす為だけに、地球に寄生虫のようにへばりついていて、良いわけがない。

この後クワトロ大尉(シャア・アズナブル)は地球に隕石を落として寒冷化し、人の住めない星にしようとするんですけど、意味わからないですね。

ここから得られる教訓はつまり、なんだろう、愛に甘んじていれば空気は汚染されるということなのか。宇宙空間で暮らすスペースノイドは、空気(愛)が無条件でもたらされない環境で耐え苦しみながら生きているというのに、地球で暮らす人間たちは空気(愛)を貪るばかりで地球環境を汚染してしまっている。地球を元の姿に戻すため、一度野に返そうという話。この例え全然わからなかった。

つまり、愛と平和はあるものにとっては空気のように当たり前であっても、無いものにとっては非常に得難く、獲得、維持するために大変な苦労を要するものだということだろう。

自分は本当に、愛がどうとか考えたことなかった。愛するとか、愛されるとか自然なこと過ぎて無意識だった。もっと空気を意識して生きていきたいと思います。ありがとう空気。