カンボジア人の話が壮絶だった

今バイトしている(もうすぐクビになる)ラーメン屋の店長はカンボジア人だ。トロントに10年住んでおり、先日市民権が降りたと言っていた。彼はおそらく30代半ばぐらいだろう。彼の人生について先日話を聞いた。予想していたような話(ポルポトがどうとか)はなかったが、割りと壮絶だったのでご紹介したい。

 

彼は裕福な家で育った。父がカンボジアでタオルか何かを作る会社の社長をしているらしい。シェムリアップのリゾートホテルにはだいたい彼の父の会社からタオルが納入されているそうだ。兄弟が5人いるらしい。カンボジアでは大学へ通い、ITの勉強をしていた。そして大学を卒業後、カナダの語学学校に通い、卒業後カレッジへと進学した。なぜカナダへと渡ったのかは知らないが、兄も既に来ていたらしい。兄は卒業してカンボジアへと帰ったが、彼はトロントに残った。

裕福と言ってもカンボジア人だから、どうしても為替レートで不利だ。彼はバイトをした。学費を稼ぐためだった。大学へ行きながらもトロントでバイトしていた。そこまでは日本の大学生と大差ない。まあ外国の大学というのはかなりシビアだから猛勉強しなければいけない。早く単位が取れたら早く卒業できるし、遅ければ学費だけを垂れ流す事になってしまう。でも彼はその学費を稼ぐために働きながら勉学に励んだ。

トロントの大学では、貿易を学んでいたらしい。彼は卒業後、貿易の仕事についた。彼が何でそれを辞めたのかはわからないが、その後学費のローンを払うためと、兄弟や家族へ金を送るためにバイトを掛け持ちした。皿の会社や、パン工場で働いていたと言っていた。21歳頃の話だそうだ。僕も日本で働いていた時は労働時間が長く、社畜だなあと思っていたが、彼はだいたい朝7時から夜の2時まで毎日働いていたそうだ。バイトの掛け持ちだから休みはない。

パン工場で彼は今の彼女と知り合った。同じカンボジア人だった。彼女もバイトを3つ掛け持ちしていた。ほぼずっと働き詰めだったそうだ。しかし彼女は別のカンボジア人が作った会社(皿の会社)でマネジャーをやることになり、他の2つのバイトは辞めた。彼も働いてた皿の会社だ。その後彼も皿の会社で支部のマネジャーになる機会が訪れた。ある前任マネージャーのパフォーマンスが悪いため、後任を探しているという話が舞い込んだ。彼はかなり必死で働いていたため、評価されマネジャーとなった。その時の、皿の会社のエリア統括マネジャーが今のラーメン屋のオーナーだそうだ。

彼はマネジャーになり、数ヶ月で前任の3倍の利益を上げた。その当時も彼はハードワークだったらしい。その後エリアマネジャーだった上司が独立してラーメン屋を立ち上げ、彼も前の会社での繋がりで引き抜かれ、最初は週2で働くようになった。後に彼は皿の会社を辞め、毎日ラーメン屋にて働くようになった。同様に必死で働いたから、店のスーパーバイザーという役職をもらった。今は支店の店長として朝10時から夜12時まで週七日休み無しで働いている。カナダでの10年をずっとそんな感じで過ごしていたみたいだ。

僕にはちょっと考えられない生き方だ。なぜ彼がそんなに必死で働いてるかというと、一つはお金のため、兄弟の生活費か学費か何か知らないけれど「自分の国は貧しいから兄弟にお金を送らないといけない」と言っていた。これは多分今でも続いている。もう一つは、早く昇進するため。彼は仕事に人生を費やし、それこそ自らが擦り切れるようになるまで働き、見事なパフォーマンスを見せた。彼が必死になった通りに彼は昇進した。その後も仕事は増え続けたが、彼はへこたれなかった。

日本人で英語を身につけ、スキルを磨いて2年や3年で永住権を取った人もいるが、そちらの方が珍しいのかもしれない。彼は日本人の社畜並に、時にはそれ以上働き続け、10年かかった(在学中も含むが)。移民の現実というのはこういうものなのかもしれない。