知らない名前を会話に出すな

これが実によくある話なんだけど、どういう頭してんのか理解できない。例えば

「〜がさあ、もう離婚しそうなんだって」

という話を振られたとしよう。こういう話の前提として、話題を振られたほうがその〜さんを知らないと、当然会話にならない。だから僕はいつも

「〜って誰?」と聞く。このやりとりがめちゃくちゃだるい。

「〜っていうのは職場の同僚で、」

おいおい普通に説明してくるのかよ、だったら初めから言えよ、なんで俺が会ったこともないそいつの名前知ってる前提で話してきたんだよ、まださ、業界用語とか知識の前提だったら相手が知っていると思って話すことはあるけど、個人名とか、お前の友人で俺が知ってる人間かどうかなんて最初からわかってるでしょ?何で最初に説明しないわけ?バカなの?とは言わない。大人げないから言わない。でもこういうやりとりはいい加減うんざりするから、そのままスルーするパターンを試してみた。

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最近読んだ本の話

歴史とは何か

「歴史とは何か」をもうすぐ読み終える。最初の方の話は入りやすかったけれどだんだん難しくなってきて、歴史とは科学であるとか、進歩と歴史とか、歴史における偶然とは何か、テーマとしては面白いものの読み進めていてもなかなか頭に入らない。このエドワード・ハレット・カーという著者は膨大な人名とその人たちの主張、論文が頭に入っているようで、次々と名前が挙がってはその意見に賛同したり真っ向から反対したり話にならないというように辛辣な言葉で一蹴したりしている。学会ってそういう意見のバトルが繰り広げられる場なんだなーこえーなーという印象を覚えるだけで、どっちが正しいとか間違っているなんて判断もできない聴衆の気持ちで読んでいる。著者の知識量に圧倒される。

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「仕事ができる」が基準の全てという人

僕は仕事ができない。それは別にいい。僕が仕事ができない人間だからといって、尊大な態度でゴミのように扱ってくる人はいるが、それもまあ仕方ないから、別に構わない。構わないけれど、ちょっともったいないと思う。仕事ができない人の中にも、優しい人だったり楽しい人だったり、仕事以外のことで頼もしかったり良いところがある人はいっぱいいる。僕はそうではないけれど、そういう人たちを、ただ「仕事ができない」というだけで見下し、見限ってしまい、価値が無いと判断してしまうのはやはり傲慢な態度であり、そういう態度で人との出会い、付き合いを活かしきれないのはもったいないと思う。

そりゃあ職場に限って、もっと言えば職務を遂行するに限って言えば、仕事ができるに越したことはない。仕事ができなければ、職業人として困る存在だろう。無能だ、役立たずだ、と言って切り捨て、仕事ができる人間を替えゴマに持ってくれば、それで全てが解決する。しかし、仕事上の関係であったとしても、人間同士の関わり合いはそれだけではないはずだ。それが例え上司部下、先輩後輩、顧客取引先の関係であったとしても、仕事を円滑に遂行するにあたってのコミュニケーションは欠かせない。コミュニケーションを通じて他人を活かすのも自分の能力であり、助けるのも育てるのも能力だ。地味なフォワードに絶妙なパスを通し得点に繋ぐミッドフィルダーもいれば、地味だったフォワードを得点王に育てるコーチもいる。他人を殺すのだって自分の能力の無さだと言える。もちろん適性はあり、どうしても活かしきれないことだってあるだろう。自分の競争に苛烈なあまり、できない他人にかまっている余裕がないというのも、自分の能力の無さを現している。使えないからといって切り捨ててしまうのは、それ自体が無能の証明でしかない。使えない人間は自分自身ではないだろうか。他人とはそういう意味において自身の鏡である。

特に残念なのは、プライベートな場においても「仕事ができないやつは何やってもダメ」という態度を一貫して崩さない人だ。それはまるで、運動できないだけのクラスメイトをバカにする小学生のようだ。人を判断する全ての基準が仕事の出来不出来になっており、逆に仕事ができる人に対しては人格からセンスから何から全て肯定的に評価する傾向がある。仕事ができる人でもプライベートや人格に問題がある人はいくらでもいる。もちろん何もかも素晴らしい人はいて、何もかもダメな人だっているだろうし、仕事はできないけど何かがすごい人もいる。何故、それぞれの項目ごとに評価できないのか。立場や関係性に応じた優先順位はあるだろう。しかし、仕事の出来不出来なんてどうでもいい状況においてまで「仕事ができる」という評価基準を持ち出し、他人を評価するにあたってそれを絶対視する人がいる。また、プライベートが杜撰だからという理由で仕事の評価まで落とす人もいる。それはやはり正確ではないだろうし、項目ごとに、当人に見合った評価を下さないと、せっかくいい仕事をしていたり、仕事以外の面でいいところがあるにも関わらず、偏った目線で他のことまで評価してしまうのはどう考えてももったいない。仕事ができてもクズだ、という人に対してやはり仕事は任せたほうがいい。仕事はできないけど良い人だ、という人とも仕事以外で良好な関係を築けるだろうに。

優れた女に対する男のプライドという構図

世の中にはわからない物事がたくさんあって、その中の一つがこの、優れた女に対する男のプライドという構図だ。こんなもの実在するのかどうかさえ疑わしいが、例えば、高学歴女性はそれだけで相手のプライドを傷つけるからモテないとか、カップルや夫婦において、女性のほうが学歴や年収が上だと男性のプライドが傷つくとか、そういう話をよく見かける。この、女性より優位に立ちたいという男性の願望みたいなものは本当に存在するのだろうか。プライド?それプライドなの?そんなことに固執している方が余計に器小さくて惨めじゃない?自分より学歴や年収低い人が相手ならプライド守れんの?そんなプライド守る価値あんの?よくわからない。個人的には、年収や学歴の高い女性、その他見た目でも身長でも人脈でもカリスマ性でもなんでも、自分より優れた相手なんて良いことしかないから大歓迎で、そういう意見が当たり前だと思っていた。だって、論理的に考えても自分より優れた相手が身近にいるってことは良いことしかないだろう。自分のわからないことを理解している人や自分の知らないことを知っている人であったり、自分の届かないステージで自分にはできない活躍をしている人が身近にいるということは、すなわち自分に持ち得ない世界が目の前にあるということで、刺激になるし勉強にもなる、得られるものしかない、ボーナスステージみたいなもんじゃないか。それを「プライドが傷つく」ってなんだ。本当に理解できない。そんな人が存在するのか?それでは、その人は相手に一体何を求めているのだ。もちろん「優れている」という面は、相手を選ぶ基準ではない。相手が自分より優れているから、それで得することが多いから相手を選ぶわけではない。相手にコミットメントするにあたっては、考え方や生き方など、対象の人格と自分がマッチするかどうかという部分が大きい。だから、その他の優れた面なんていうのはボーナスでしかない。そのボーナスが査定基準においてマイナスに作用するなんて、一体どういうことなんだろう。生活レベルが違いすぎるとか、価値観や世界観に大きな隔たりがあるというなら理解できなくもないが、それだったらそもそも付き合う前提にさえ入らないだろうし、それでも付き合うならお互いの歩み寄りでなんとかなるだろう。相手と同じステージに立ちたいと思って奮い立つとか、知性に対しても仕事に対しても前向きになることだってできる。そうではなく「自分より上の相手はプライドが傷つく」とか「自尊心が傷つく」って一体なんだ。本当によくわからない。どのような心理メカニズムが働いているんだ。誰かわかりやすく説明してほしい。自分より優れた相手なんて大歓迎じゃないか。

これからの旅行の話をしよう

旅行についての話題は事欠かない。日本を訪れる外国人旅行者のニュースや番組をテレビで見ることは多いと思うが、昨年度2015年の訪日観光客数は過去最高記録となった。一方日本人の海外旅行者数はというと、ここ10年それほど変化がない。旅行者は増えていないが、ブログやTwitterなどを見ていると海外在住の日本人を数多く見かける。「若者の日本離れ」なんてことも言われ、海外で暮らす日本人は増えた気がする。統計を見てみると、案の定、海外在留邦人の数は右肩上がりになっている。2015年度の数字は131万7078人、昭和43年以降最多、この5年間で11%増えている。企業の海外事業拡張に伴う出張や転勤が増えた影響も大きいだろう。

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訪日外国人客、次なる目標は3000万人:日経ビジネスオンライン

出入国者数 | 統計情報 | 統計情報・白書 | 観光庁

なぜ彼らは日本を「捨てた」のか海外に移住した日本の若者たち | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

海外在留邦人数調査統計 統計表一覧 | 外務省

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関係ないこと

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その時は好奇心から尾行していて、中に入っていくのを見定めた上で後からついていこうとしたとき、向こうからこちらを見ているものがあった。好奇心とはいいつつも、それは半ば職業病のようなものであり、ついていかざるを得ない事情のようなものがあったと言っても嘘にはならない。事前に何ら正式な手続きがあったわけではない。しかし正式な手続きというのは形だけを装うものであり、その実態は現場と行動が先にあるものなのだ。それを型にはめ込む作業がいわゆる正式な手続きとなり、後からいつでも用意できるもので差し当たって重要ではなかった。それが差し当たって重要だったことなどいまだかつてない。時間を巻き戻して紙一枚にハンコを押せばそれで終いである。とにかく今この瞬間には書類もハンコもない、しかし職業行動のあるべき形はむしろこの形のない部分にこそ存在する。今この時こそが中身ある本物なのだ。

相手はこちらに気づいていなかった。そんなはずがない。現時点で向こうは追われる身ではなく、思い当たるフシも存在しないはずだ。しかしそれでも人間というのは、常日頃から警戒を怠らないものである。世の中に誰一人として、全く何事も後ろめたいことが存在しない人なんているだろうか。物を盗んだこと、姦淫を犯したこと、法に触れること、社会正義に則らないこと、人に迷惑をかける行為、誰もがそういったことをないがしろにして、自分の都合を優先するものだ。だから、現実には誰ひとりとして後ろめたいことがないなんていう人は存在しないはずである。あるとすれば、それはもう、ただの開き直りと言ってしまっていい。

そして人は、後ろめたい気持ちがあったとしても、自分の都合を優先するのだ。後ろめたい事実はなかったことにしたい。少なくとも、他人の目に触れない場所に、そっと隠しておきたい、そういう心理が尾行されている者の背中や尻に動きとなって現れるものである。その罪の大きさに寄らず、本人が抱える後ろめたさが大きければ大きいほど、尻の動きは活発になり、そこから漏れ出す、こっちを見るものの目つきも鋭さを増すのが通例であった。彼自身はそのことに自覚がない。しかし彼の背中と、その尻の動きは彼の罪ではなく罪の意識のを大きさを物語るように大きく動き、眼光で睨みを利かすのであった。我々はそこから逆行することにより、明るみに出ていなかった事実にたどり着くことが通常の定形コースなのである。その第一段階がこの尾行と言うわけだ。

尻から漏れ出す眼光は、大まかには二種類に分けられる。弱すぎてデカイものと、強すぎてデカイものだ。小さいものは仕事にならず、相手にしないためここでは対象外となる。よって眼光の奥にある大きさを見定めることが肝心になってくる。眼光には強いものも弱いものもあり、強いから、弱いからといってそれがいわゆる罪の大きさとは比例しない。強い眼力を追い続ければ、デカイ仕事に行き当たる確率が高いかというと、全くそのようなことはない。重大なできごとほど、日常の中で平然と行われるものである。トーストに塗るバターをカットするように、人の業をカットする人間は常日頃からそういうことに慣れきってしまっており、トイレへ入ってため息をつくかのように無意識に行われていることが多い。感覚が麻痺してしまっているか、元からそういう習性であり自覚がないのだ。その場合彼の尻は微動だに振れない。しかし、その奥から異様とも言える臭気が漂ってくる。ただ目の光だけに捕らわれることなく、同時に漏れだすにおいに敏感になることは、現場に入る鉄則として早い段階で身につけることではあるが、今日のそれは意識するまでもなく、揺れもしない尻から漏れだした眼光とそのハッカのような硬い臭気が何メートル先からでも伝わってきており、通りすがる者が思わず振り返るほどであった。

短編小説の集い「のべらっくす」第22回:感想編

今回第11回以来、1年ぶりぐらいに参加したのべらっくすでした。「海」っていうテーマは万人にとって馴染みと思い出があるため非常に書きやすく、ぱっと思い浮かんだ内容ですぐに書き終えることができた。さて、自分の解説はあとに置いといて、他の人の作品を見てみよう。

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最近フォローしたTumblr

電柱で御座ル九
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電柱好きということで、電柱を中心とした街の風景をひたすら投稿されている。特徴はその投稿数が多いことと、そのあまりに素朴な写真だろうか、京都を中心に活動されている。ときどきリブログもされている。写真が大きく、刺激も少ないため延々とつぎつぎ眺めていられる。

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Googleフォトでスライドショーが作られる

Googleフォトを利用していると、自動的にスライドショームービーが作成されている。これは「こんなの作れますよ」という機能の説明を兼ねたムービーであり、だいたい同じ頃の写真を勝手にスライドショーに抜擢してテキトウな音楽を背景に作成される。

キューバの写真が30秒の短いムービーに仕上がっている。音楽は許せる範囲だが、寒色のフィルタが完全に外している。

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