人間暇だとどうでもいいことばかり考えるというのは真理であり、日々を忙しく過ごしていればあれこれどうでもいいことを考える日まもなくただがむしゃらに時間だけが過ぎていく。そういう過ごし方もまた生活であり、節目節目で時間をかけて節目に真正面から向き合わないといけないが、それは忙しいついでにできることであり、どうでもいいことを考えるまでの余裕は必要なくしっかりと、合間合間に意識さえ保っていれば順調に、なるように進んでいくのではないだろうか。そりゃあ失敗とか不運とかはあるかもしれないけどさ、暇を持て余してどうでもいいことばかりを考えるのに時間を費やすのは無駄で不健全で、何も残らない。必要なのは、節目に定めた規定事項を黙々と進めることであり、それをまた節目ごとに定期的にチェックして、調整と見直しをはかることぐらいでそれ以外の時間は全て盲目的な前進に注ぐことが効率と能率を上げるコツであり、暇な時間をどうでもいいことに割くことなんていうのはやはり無駄でしかない。さて、何から始めようか。嫌なことが多すぎる。その嫌という感情でさえ暇からもたらされるどうでもいいことか、それとも無視できない重要なポイントなのか、乗り越えるべき課題なのか、結局のところそれはどれもが答えであり、同時に答えではなく、どの方向からもその先に行き着く者は行き着き、そのためにはとにかくどの方向を選ぶにしても前に進むことが肝心で、その場に立ち止まって暇を持て余しながらどうでもいいことばかり考えていればそのまま死んでしまうのだ。思いついたことは、やればいい。あとはそれを続けるように補助するだけ。そうやって暇な時間を少しずつ削っていき、無意識な時間を増やして定期的にチェックする。これが自己管理であり、コントロールであり、それをなんのためにやるかなんて、それは結局のところどうでもいいことを考えないためだけに行うことなのだ。あー飽きるなー我に返ると飽きてしまう。我に返らないことが肝心か、果たしてそうか。あっちこっちふらついても良いではないか。正解はなくて、大切なのは自分で自分をしっかりと認識できているかどうかということで、コントロールできているかであり、そのためには都度機械的に見直して受け入れ、今後の対策と方針を練ることが要かもしれない。他人のことだったら、なんとなくできそうなのにな。客観視というのは難しくて、目で見ようとするのではなく事実を根拠としたデータから割り出すのが現実的な対策であり、他人のことだったら考えられることも自分のこととなると偏向がどうしてもかかってしまい。現実を見ないことと対策をしないことは別であり、あー嫌だなー嫌気しかない。嫌なんだ。しかたないよ、嫌なんだから。嫌なことしかない。嫌でさえなければなあ。なんでこんな嫌なんだろう。そういうのは全部知っている。嫌だろうがしょうがない。嫌だろうが、嫌であろうが、それでもやはり嫌なんだ。嫌なことは嫌だ。どうするか、この嫌気を無視するために無意識に没頭するのが正しい。それは無視しているだけでなくなっているわけではない。嫌と向き合うことは嫌という事実を受け入れることは、もしくは嫌という感情に立ち向かうことか。そのどちらもできない。適者生存と幸運、無情かつ無常、どのように成り立っているんだっけ、疑問を持ったら終わりだ。わしゃー知らん、知らんぞー

自分の目、他人の目

性的ショッキングな妄想を垂れ流すのは意外に恥ずかしいもので、それを恥と感じるのは他人が達成している現実に対して、自身は未達成な願望でしかないという面、欲情を垂れ流しているその姿が気持ち悪くて、それはまさに汚物であり、他人に嫌悪感と恐怖心を与えるものであるからそういうものを魅せつけるというのはやはり恥ずかしいことであり、その恥じらいが快感に変わるヘンタイの所業をいかに理解するかという境地に立たされるのであった。全裸で走り回れば社会的に抹殺される。恥というのは二種類あり、他人の目線ともう一つは自分の目線である。自分の目線とは、自分がそれを見た時にどう思うか、というもので、たとえ隠れてやってもごまかせるものではない。

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「若き写真家が見る歪んだ世界」シリーズがおもしろい

デジタルカメラやスマートフォンのカメラが普及し、職業写真家でなくとも写真を撮ることが身近である現代において、さらにInstagramなどの表現媒体も広まり、写真家ではない人たちも、忘年会や七五三、結婚式や旅行の記録としての写真ではなく、表現としての写真を撮ることが日常的になった。良い機材とタイミングが合えば良い写真が撮れる。それは一見するとプロがお金をもらって撮る写真とそう大差ないのでは、とさえ思えてくる。違いがわからない。そもそも普段、広告に利用される商業写真以外で、フォトグラファーが撮る写真というのを見る機会に乏しい。彼らは一体どのような写真を撮るのか、きっかけはなんなのか、どういう物の見方をして、どういった作品が出来上がるのか。写真そのものを見る機会もなく、ただ写真を見てもそれがなんなのかさっぱりわからない僕らにとって、写真家自身の経歴と解説を混じえながら作品を紹介している「若き写真家が見る歪んだ世界」シリーズがおもしろい。

若き写真家が見る歪んだ世界 | VICE JAPAN

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メルカリを利用してみた(配送編)

前々回の出品編、前回の残念なところに続き、配送編で一旦締めくくりたいと思う。その前にまず20日ほどメルカリを利用してみた結果報告。服を中心に30品ほど出品して売れたのはたったの3品だった。内訳は靴が二足とウェストポーチひとつ、計19,500円。より多く、高く売るための反省を書いてみたい。

  • より多く、より高く、
  • 決済から配送編
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自我を差し置いて

蝉の鳴き声が聞こえる。蝉の鳴き声を意識して聞いたのは久しぶりだった。幼い頃、もしくは学生時代において夏の風物詩、季語のようだったのに、いつ頃からか蝉の鳴き声を聞くことがなくなった。蝉はもう絶滅したのではないだろうかとさえ思っていた。だから今こうやって蝉の鳴き声を聞くことに、かえって違和感を覚える。なんだ、まだいるじゃないか。あの空白は一体なんだったのか。名古屋に住んでいた頃、ベランダに落ちた蝉の死骸がいつまでも風化せず残っていた。それは冬になってもそのままで、季節感も何もない。いつまでそこにいる、と思っていても撤去しないかぎりそのままそこにある。ただ、蝉の鳴き声については意識していなかった。死骸の記憶はあるのに、鳴き声については覚えがない。周りの風景に一体化していたのか、それとも本当に聞こえていなかったのか、日本の夏から蝉は絶滅したと思っていた。しかし今はそれを聞いているため、蝉は確かに存在する。一人だけ遠い昔に戻ってきたような気持ちになる。

なんでもない写真を延々と眺めている。それは自分が撮ったものではないけれど、まるで自分の視点で見ているかのように、なんでもない。既視感と言うのか、特別なところが何もない、どこにでもあるような写真を見ている。それらを眺めても、何かこれといった特徴がない。珍しい物があるどころか、何を撮ろうとしているのかもわからない。何かを撮ろうという意思を感じられない。刺激もない。徘徊者がただ目に写った景色を遠くから眺め、撮っただけなのだろう。自分だけではなく、人もこうやってなんでもない景色を見ているんだな。それは一見どこにでもあるようで、まわりまわってそこにしかないものになっている。唯一無二を収めたような写真がもうありきたりに見えてしまうのと反対に。

今日もどこかで、ということを見聞きすれば日常という感覚が曖昧になる。各々の日常があり、日常そのものに普遍性はなく、どこまでが日常でどこからが非日常なのか。代わり映えしない日々こそが幻想ではないか、日常は変化に満ちている。今もどこかで、変化がある。変化こそが日常?そんなことはないだろう、だったら非日常とは何か。振れ幅の違いか、それとも、予測範囲で分けるのか、そこを越えると非日常と呼ぶのか、珍しい変化、予測範囲外。それとも心境だろうか。状況ではなく心境が日常と非日常を分ける。落ち着いていられないから非日常、冷静に対処できれば日常、受け入れることができれば日常、信じられないから非日常。思い返せば全てが日常になる。過去の出来事は、たとえそれが滅多に無いことで、受け入れ難いことであっても、もう特別には感じない。またこれからもあるかもしれない。だったらそれは既に日常の一部に組み込まれてしまっている。やがてその日常がなくなってしまったことと気づいて再び非日常に振り分けられる。

Freetel低速モードでポケモンGOできたよ

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なんだかんだ暇を持て余して結局やってしまっているわけですが、ポケモンGOプレイにおける心配事はまず、通信量とバッテリー残量でしょう。バッテリーに関しては設定でバッテリーセーバーをオンにするかバッテリーチャージャー持ち歩くしかない。

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最近でもない気になった記事

地雷に注意 ボスニアで「ポケモンGO」利用者に警告 - BBCニュース

ポケモンゴ関連には疎く、作っている会社が任天堂ではなくIngressを作っていたGoogleの分家であるNianticという会社だということぐらいしか知らないから、おそらくIngress的なゲームなんだろうと思っている。そこでボスニアのニュースがあって、地雷云々よりもボスニア人がポケモンで一喜一憂するのがあまり想像できない。じゃあカンボジアとかどうなの。というか本当に流行ってるの?

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いろいろどうでもいい気持ちが強くて。昔、稲中卓球部というマンガの田中が何かもどうでもよくなったというどうでもいい話があったけど、まさにあんな感じで、もっと言えば自暴自棄まで行かない、出不精な自暴自棄、消極的な自暴自棄、少し前にブログ記事のお題で「もし100万円もらったら」みたいなのがあったけれど、その100万円でケツを拭くような自暴自棄、いや、そんなことしないな。100万円もらったら旅行する。しかし今そういったどうでもいい状態に陥っている。今?ずっとか?そうかもしれない。考えれば考えるほどドツボにはまり、しかし人はそんな状況でも生活のために働くのだろう。飯を食うために。それが惨めでならない。そこに何か生活の意思でもあれば、例えば家族を養うためであったり、欲しいもの、目的、やりたいこと、なんでもいいけれど何か一つでもあればそんな惨めな気持ちにはならない。旅行のためにバイトをするほど旅行が楽しかった時期はもう過ぎた。惨め、惨めとは少し違う。ただ嫌なだけだ。そんな生活に、そんな人生に何の意味が、そんなことばかりが頭を駆け巡って、そうやって一部の人はニートになり、路上生活者になり、残飯を漁りながらほそぼそと死んでいくのだろう。それこそが自分に嘘のない、正当な、真っ当な道であるようにさえ思える。そういう気持ちから抜け出すには、その先を考えなければならない。その先、その先に何があるのだろうか。一つ、山奥、二つ、危険地帯、三つ、奴隷、どれーも嫌だなーだったらここに留まろうということになる。人事だから、所詮人事だからどうとでも言える。何を犠牲にして何を得るか、得るものがなければただ犠牲にするだけ、ああ、何か欲しがりたい。本音を言うと、その欲求が欠けている。必要な物は食事だけで、それ以外に何か、求める物がいる。そんなものいらない。欲求が足りない。やりたくないことを書き連ねていったら何も残らなかった。まだ我に返れそうで、ときどきそれを客観的に見ている。ブクブク太る。

レズ風俗とあきらめの境地

承認欲求について調べたり考えたりしたのは、今話題の「レズ風俗」を読んだからだった。現代における承認の欠乏がよく書かれていたと思うけど、自分がこれに共感したという部分は全くないなあ。こういう人もいるよね、とは思った。ただそこに過剰に出てくる「承認欲求」という言葉が気になり、そんなに欲しいの?そもそも承認欲求ってなんだ、と思って調べたまでだった。調べた後にこのマンガを最後まで読んで、承認欲求についてはこのマンガのほうがかなり理解し易い内容になっていた。いくつかレビューも読んだ。

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何故、人は承認を求めるのか

承認欲求という言葉が独り歩きしており、いたるところで見かけるがいまだにその意味がよくわからない。「承認が欲しい」という文字通りの意味はもちろん理解できるけれど、それは一体何のためか、考えたことあるだろうか。生理的な欲求かもしれない。しかし、その生理的な欲求にさえ、原理が存在する。欲求が生まれ、満たされることによって生じる何かがある。それは一体何なのか、その感情的な部分を説明する理屈を探してみることで、承認欲求の正体をつかむことができるんじゃないかと思った。

  • Google先生に聞いてみた
  • 「承認欲求うぜえ」は自分の鏡
  • 承認欲求は必要
  • 承認のその先に何があるのか
  • 承認を求めないために
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メルカリの残念なところ

メルカリでやっと一個売れた。しかしお金はまだ振り込まれていない。前の日記ではアプリのインストールから品物の出品までを書いた。そして今度は買い手がついた品物の配送編を書こうかなと思っている。お金が入って配送して評価を付けるまで。そこまで無事たどり着ければやっと一個の手続きが完了する。とりあえず今の段階で感じたメルカリの印象を追記しておこう。

  • もはやフリマ感がない
  • 暗黙のルールがえげつない
  • 現状を打破するには
  • システムの使いにくい点
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