自殺について

自殺についての話題が活況なようだ。自殺については思うことがある。僕は試したことがないけれど、知り合いが失敗している。薬を大量に飲んで救急車で運ばれ、入院した。

自殺について思ったことは、それに同意してはいけないということだった。どんな状況であっても、他人が同意してはいけない。僕は同意してしまった。
彼女は問題を抱えていた。それは解決のできない問題だった。僕は何も手伝うことはできず、ただ見ていることしかできなかった。

「この問題を回避するにはもう死ぬしかない」と言われた。僕は当時高校生で、経済的な面や精神的に幼かったことも含め、全く歯が立たなかった。いや、今その状況に立たされたとしても同じことだろう。日々彼女に積み重なる問題に対して解決の術はなかった。誰も彼女を救うことはできなかっただろう。結局彼女は実行してしまった。

助かったわけだけど、僕は同意するべきではなかったと思った。自分が何もできなかったとしても、止めたことで無責任だと言われたとしても、相手の問題を知っていたとしても、相手が自分を恨んだとしても、自殺には同意しない。むしろそれが唯一できることであったような気さえした。自殺を止めるという行為はエゴでしかない。相手の意に反する、自分は相手に生きてほしいという願望の押し付けだ。人は他人に対して何もしてあげられない。相手を理解することもできなければ、問題を分かち合うことも(仮に僕がなんらかを背負ったとして彼女自身の問題は軽減する類のものではなかった)、人が他人にできることというのは、自分の思うところの、勝手なエゴの押し付けしかないんだと思った。それが良いものか、悪いものか、そんなことは判断はできない。

彼女は今でも生きている。いまだに問題は解決していないが、時間が和らげてくれることもあるかもしれない。彼女の場合は和らいでいないと思うけれど、とりあえず生きているんだ。生きていていいことなんかないだろう。生きるということは程度の違いこそあれど、そういうことだと思う。本音では、死んで楽になるならそれもアリだと思う。映画なんかで死にかけの人は撃ってくれと言うあれ、あれと同じ。ただ、それを決めるのは本人であり、タイミングであり、事件であり事故であり病気である。他人がそれを目にしたら、同意しないことだ。それが相手にとって悪いことであったとしても、エゴの押し付けにすぎないことであっても。僕は今彼女が生きていてただ嬉しく思う。たくさんの問題を抱えており、その解決に手を貸すことができなくても、たった1日でも多く笑える日があればいいのに、と思う。その努力は僕に可能な範囲で行う。

自殺に同意しないことは責任逃れではない。むしろ同意しないことにより大きな責任があるだろう。誰かの自殺に同意しなかったからといって、生き残ったその人を救うことはできず、その後の人生をすべて背負うことも実質不可能だ。自殺を止めるということはそれなりの重みを伴う。だとしても、今後自殺には同意しない。自分たちはその場でかろうじてできることをするしかない。それで僕が相手に殺されても文句は言えないだろう。その時は一緒に死ぬのもいいんじゃないか。その人が同意してくれるのであれば。