家族について

自分は家族をないがしろにし過ぎていたのかなあと今更ながら思う。ろくな関係を築いてこなかった。それ以前にろくに会話してこなかったし、家族との関係性についてろくに考えてこなかった。僕は家族の誕生日を祝ったり、母の日や父の日を祝ったりしない。おそらく最後にやったのは小学生の頃だろう。僕には妹がいるが、彼女ともまともに向き合ってこなかった。やはりそれは、彼女が母や父とは違い、家族としての愛情があっても、人間として尊敬を抱けないからだった。探せば見つかる部分もあっただろうに。

家族との関係が築けなかった理由の一つとして、自分が家族に理解されなかったということがある。お互いに理解してこなかった。僕は小学生の頃、母親に対して自分の考えをさらけ出したことが何度かあるが、まったく理解されなかった。その時に諦めたと言っていい。話し合うことは無駄だと。自分はその当時理解を必要としたし、理解されようとしたが、無理だった。この諦めというのはその後、否定的な意味ではなく「理解なんてなくてもいいんじゃないか、それでも僕らは家族なんだから」という前向きな物に変わった。

それ以降、家族に対する向き合い方というのは定型的なものになった。話が合うことしか話さない、友人のような関係だった。数多くの批判や憤り、矛盾などを噛み殺すような感じで「言っても無駄だから」とあまり真正面に向き合わなかったような気がする。そして僕はそれで良かったと思う。形だけでも関係を断つようなことはしなかったし、思いの丈を吐露することもなかったおかげで、憎しみ合うようないがみ合うようなこともなかった。人間の良好な関係というのは「何もかもお互い言いたいことをさらけ出す」というものではないだろう。子供だったらまだしも、僕はもう中年だし、わがままを言ったり駄々をこねたり理解を求める年齢ではない。

理解を求めるというのは途方もない苦労が伴うにも関わらず、結果が得られない。いくら長々と説明したところで肝心な部分は何一つ伝わらない。伝わったとしても理解されない。それは別に僕の意見だけではなく、お互いのことだ。そしてお互い自分の考え方から都合の良い判断を相手に下す。これは何も家族に限ったことではない。人間同士なら誰とでも同じ結果に至る。だから、他人に自分勝手な判断を下されたくなければ、自らをあまり露呈しないことだ。僕はそのおかげで色々と都合の悪いことを経験してきた。

家族については、他の人と同様に人間関係を諦めつつも、もう少し家族らしくしても良かったのかなあと思う。そこに理解はなくとも、少なくとも情のようなものはあったのだろうし、相手の情を多少なりとも受け止めたってよかったんじゃないかと思う。僕が先日、数日だけ実家に滞在し、離れる際に母親が泣いているのを見て、そんなことを思った。