気づけば若い頃から聞いていたトム・ヨークもチバユウスケも、ぱっと見爺さんになった。歳も取るわけです。
加齢について、今までも何度か触れてきた。つい最近にも触れた。
だいたい似たような、ちょっと違うことを書く。歳を取ることの特徴のひとつとして、同じことを何度も繰り返してしまうのがある。それは前にやったことを忘れているから。加齢による健忘と言うのか。
今日が誕生日というわけではない。気づけば40を越えていた。あれ、自分今いくつだっけ?と思うことも増え、自分の年齢も覚えていられなくなった。ずっと最近まで、まだ39歳だと思っていたが、40を迎えたときにはちゃんとそれを自覚していた。単にその時のことを忘れていただけだった。二重三重構造で記憶の思い違い、年齢の勘違いがある。これも全て加齢による衰えだと雑にまとめてしまっていいものだろうか。
そうやって最近改めて自分が40を越えていたことを自覚したわけで、年齢なんかただの記号だと日頃のたまいつつも、それなりに思うことがある。まず一つ、去年に父が亡くなった。71歳だった。父の年齢を基準に考えれば、人生の折り返し点なるものは、とおに過ぎている。ましてやこれから先、変化のない日常を過ごしていくことになると、体感時間は加速度的に過ぎていく。気づいたら僕も70歳かもしれない。
父が亡くなるまでは、祖父が亡くなった年齢を一つの目安にしていた。父方の祖父が89歳、母方の祖父は93歳で亡くなった。しかし実の父がそれから20年も早く亡くなり、あてにならなくなった。もともとあてになるもんでもない。事故や天災にでも巻き込まれたら明日にでも死ぬ。ただまあ目安と考えるなら、残された時間は30年となる。この30年はそれなりに短い。
これからはただ衰えるに任すだけで、特に向上するわけでもない肉体と精神を背負っての30年となる。その時間を過ごす心持ちが、あまり期待できない。楽しかった時間は、もう過ぎたのではないか。あるいは生きる喜び、みたいなことはこれからも見いだせるのだろうか。そういうことを考える。
同時に、これまで本当にそんな楽しかっただろうか。若さがあった頃は、体力、勢いに乗って、今ならもうできないことをやっていた。例えば先日日記に書いたバックパッカーなんかは典型だと言える。今からでもできなくはないが、若い頃やっていたのとは質が違うものとなる。
若さゆえの苦しみもあった。自分は意外と、年をとってからの方が楽になったと思うこともある。結局どちらとも言えない。加齢への不安だったり、気持ちの落ち込みは20代にも30代にもあり、同じ不安を巡り巡っているだけで、本質的にはあまり意味がないと言える。若い頃が人生のピークだったと思う人も、それから解放されれば、これからの時間も意外と有意義に過ごせるかもしれない。
身体の不調は顕著になった。女性は30代から、男性は40代からと言うらしい。目に見えて体調が悪いというわけではないけれど、健康診断の数値などが改善しなくなった。ここ数年はコロナだったおかげで運動量が減り、体力も落ちた。意識的に維持管理をしないと、簡単に身体に響くような気がする。
これは長生きしたいとか、早く死んでもいいとかそういうこととは少し別の話だと思う。生き死には別として、日々を快適に過ごしたければ、少しでも体調は整っていたほうがいい。体調の良し悪しは、寿命うんぬんよりも毎日の気分に影響する。気分が悪いと、性格も悪くなる。すると余計に物事がうまくいかなくなる。健康で体力があれば、なんとかなるような気がする。若い頃は放っておいてもその状態だった人が、加齢による衰えで人格が変わってしまったとしたら、体調を維持管理することでまたある程度元に戻れるかもしれない。
僕はどちらかというと、若い頃のほうが不安定だった。体力や機能が衰えたとしても、今のほうが安定はしている。
残された時間を生きるにあたっての、ささやかな娯楽は何だろうかと思い浮かべてみた。一つはテクノロジーの発展で、今までになかった技術が開発され、世の中が変わっていく様子を見るのはおもしろい。今までだと、自分の生きている間ではインターネットやスマートフォンが大きく世の中を変えた。些細なことも、配車アプリなんかは日本でも海外でもめちゃくちゃ便利で、昔では考えられなかった。今だとChatGPTやMidjourneyのようなAI技術、仮想通貨といったもの、もしくはまだ知らない何かが未来をどのように変えていくのか。今の段階で想像もできない未来を体験するのは、これから先を生きる楽しみの一つである。
技術だけでなく、それに伴う文化の移り変わりも見たい。人々の意識だったり、それに影響を与えた、もしくはそれらを反映した芸術を見るのも心躍る。過去からの変化を系譜を追ってたどり、変化のきっかけや要因となったことを探りたい。時代の転換は、こまごまとしたことなら短いスパンで起こっている。僕が高校生ぐらいまでは、テレビの時代だった。インターネット以降にそうでなくなり、動画配信、YouTube、ニコニコ動画が起こっては消え、TikTokも映像文化に位置づけられる。新しいものを見る喜びは、生物の進化の源泉であるように思う。自分はいつまでフォローできるだろう。昔は良かったなどと、言うつもりはない。