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面白いかどうか

これはやっていて楽しいとか興味深いとか好きかどうかとかではなく、笑いの方だ。僕は関西人だから、子供の頃から周囲では面白いということが至高であるとされてきた。むしろ面白くないということが最も価値がないとされてきた。などと言ったところで僕らは芸人ではないから、面白くともどうにもならない。面白ければ何でもかんでも許されるというわけではない。それでも人は面白い人であることを目指した。至高の笑いを。

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だから僕が、関西圏以外の人から「意外と面白い人なんですね」とか「やっぱり関西の人ですね」なんて言われると「えっ?」って思う。僕は何も普段からインテリぶっていたりオシャレぶっていたり、センス良いふりや芸術に嗜みがあるとか、意識高い人をこき下ろすような普段からハイクラスにいる人を装っているつもりはない。ずっと、自然に笑いだけを追求している。全然おもしろくねーぞって言われたらそれまでなんだけど、僕を面白いと思わなかった人のケースはとりあえず置いといて、僕らからすれば笑いの高みを目指すことは子供の頃からの修練であり、習慣であり、改めて言われると「それは僕らにとって普通のことなんだよ」と思ってしまう。僕は普段から笑いを取ろうと励んでいるつもりはないけれど、どうしても各所そういう部分が出てしまう。そのせいで辛辣な言葉を吐いたり不謹慎なことを言って「ウゲッ」って思われることも多いが、同時にその関西人としての当たり前の笑いが通じなかったり通じ過ぎたりする傾向がある。そのせいで周囲から「あの人は痛い」とか「ちょっとおかしい」とかそういう評価を受ける。

僕らは何も、自分にしかわからない笑い、自分らに共通する笑いを提供しているつもりはなく、ただその場に応じたボケと冷静なツッコミがぽろぽろ口からこぼれるだけだ。それは正直なところ、笑いといった段階ではない。単なるコミュニケーションの一貫である。地元の人間なんかと話していると、自分たちは相手に対してかなり厳しいことを、要所に斬りこむような発言を繰り返していたりする。それはよく知った仲であるとか友人だからというのはあるものの、内心お互いでちょっとムカついていたりする。でも僕らはそれを笑いに変える。いかに笑いとして切り返せるかで己の技量が試される。例えば先日トロントに来ている地元の友人と会話していた際に、僕は今髪が長いから飯を食う時に邪魔だという話をしていたら

「じゃあフェラする時も邪魔やろ?」

と言われ、「ああ、こうやって?」と僕は髪をかきあげてフェラをする仕草をした。そんなことがあってから彼がやたらとこの髪の長さとフェラのネタを要求するようになってきて、あまりにもしつこいから僕はフェラなんか一度もしたことないとか言ってめんどくさがっていたんだけど、

「最近顎が疲れてて」

とか自分からそういう切り返しをするようになった。こういうやりとりの応酬というのは初対面の人とやるとただの変態だったり下品なだけのゲイだと思われかねない。どうでもいいなそんな話は。とにかく真面目に反論したり怒ったり泣いたりするのは、それらを笑いに変えることができない「おもんないヤツ」だ。そこで人は「レベルの低い人」と判断される。関西人皆が皆そうではないが、大体において関西人というのは生まれながらに求道者であることを求められる。

もちろん、人には触れてはいけない部分というのはあり、なんでもかんでも笑いにできるわけではない。僕らは一般人で芸人ではないんだから、そこまでの高みは要求されない。それにしてもかなり突っ込んだところまで笑いを試されるのは事実である。どこまで笑いに変えられるか、彼はどこまで面白さを追求できるか。人間を、笑いの閾値を測られている。そこで一定の判断をされてしまうと、それ以上の笑いというのはもたらされない。

だからいかに自分を卑下することなく、欠点を笑いに変えられるか、汚点をネタに出来るか、弱点を強みに持ってこれるかというのが、生きていく上の命題になったりする。もちろんその際にはお互いの人間関係や場の空気、下ごしらえなどが重要になってはくるんだけど、基本的にそういう準備はできない。その場限りの真剣勝負となる。だから後で修復しようと躍起になることも多々ある。人を茶化すような笑いというのは頻繁に行われる。僕は大人になってから関西圏を離れるようになり、また、関西人以外との接点が増えることによって、その加減というのをある程度知ることになった。無碍に人を傷つけたりするようなことは、かなり減ったと思う。相手に非があろうとも、相手が傷つくから。世の中においては、笑いよりも面子を大事にしている人の方が多かった。

僕が好きな芸人は上岡龍太郎です。あれだけ真剣に笑いをやっている姿というのは、まさに高みにある人の姿だ。彼の師匠であり、トリオの仲間でもあった横山ノックの葬式における上岡龍太郎氏の挨拶などは、ある種の感動さえる形だった。ああいうことが言える人になりたい。彼はその道のプロであったから、一般の知識人が有するユーモアとはレベルが違う。笑いで死者を見送ることがどれだけ難しいか。僕は笑いのわからない人にはなりたくないし、面白くない人はやはり尊敬できない。自分よりかっこいい人、頭が良い人、優れた人に憧れはするものの、面白い人に対するほどではない。センスや才能や人生経験が豊富にあったところで、何でも笑いに変えられる力には勝てない。

僕はこのブログにも笑いのエッセンスというのをふんだんに振りまいているつもりだ。それが読む人にとって面白いか面白くないか、真面目ぶってボケをかましているか、怒り心頭なふりをしてネタを披露しているか、それが気づかれているか気づいていないか、通じているのか通じていないのか、僕には知る由もない。もちろん笑いの要素などカケラもなくアホみたいに真剣に書いていることも多い。ただもうその辺りどっちがどっちなのか僕が説明するわけにもいかず、判断というのは読み手に委ねられてしまう。だから僕が何かを書いていても真剣に受け取らず、真に受けず、「またしょうもないことをほざいとるなあ」と軽く笑い飛ばしてもらえれば光栄の至であります。

あと、外国人を笑わせるのは難しい。言葉の壁もあるけれど文化の壁があり、言っていいことと悪いことの判断が極めて難しい。そのギリギリの部分というのがやはり笑いにおいてはもっとも重要な部分であり、怒りに転じるか笑いに転じるかというのは言う側の腕が試される。なかなかチャレンジできないし、僕はカナディアンに本気で怒られたこともある。安全なボケというのは、実はあまり存在しない。無難なのは、やはり自分をネタにすることだろう。僕は普段非常に大人しく、日常的に何気なくボケを連発するような大阪人気質の人間ではないから、そういう前提で突然わけのわからない発言をすると「はあ?何言ってるの?」というような感じで、見え見えのボケではなくても笑いに転じるということはある。前振りと積み重ねが大事です。