人生を謳歌するということ

変な話、僕は仏教で言うところの輪廻転生みたいなのを少し信じているフシがある。それについてまともに勉強したことはなく、根拠みたいなのも持ち合わせていないんだけど、僕がよく口にする言葉として「人生5度目だから」というのがある。

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どういう時に使うかというと「よくそんなこと知ってるね」とか「よくそんなことわかったね」って言われた時に返す。「人生5度目だから知っている。今まで何度もそういう状況を経験してきたから答えは見えていた。それは経験値の違いから来る達観に過ぎない」そういう意味で使っている。それはつまり、実際に自分が経験してもいないことについて、なんとなくわかった時、答えを導いた時、例えそれが正解でなくても、自分なりに熟成された意見が出た時に使う言葉だったりする。知らないけれど、なんとなくわかった。経験していないけれど、知っている気がする。それはおそらく自分が今の人生を生きる前に経験してきたことで、残像として残っているのだろうと。ただ実際には、単に理屈から導き出された回答であったり、本や伝聞といった他人の考え、経験に則って自分なりに解釈して導き出された答えであったりするだけで、生前の記憶なんてものはない。

言うまでもなく、これはある種の宗教観であり、僕が具体的に信仰は持ってないと言いつつも心の何処かにこの仏教的な概念が生きている。自分に答えが降りてきた時、「どうやってそれを導いたの?」と聞かれて答える「人生5度目だから」という言葉。自分でも理由が説明できない時によく使う。経験はしておらず、造詣が深いわけでもない。パッと話を聞いただけで判断する時、それが疑いどころのないぐらい正解に近かった時、まるで自分の魂が予め答えを知っていたような錯覚に見舞われる。だから「前の人生で経験している」なんて冗談が出てくる。

人がそういう風に言うのを僕は聞いたことがないけれど、おそらく他の人にだってそういう瞬間があるだろう。新しいひらめきとかそういうものではなく、経験によって培われるはずのものを、何故か知っていたということ。それが誰かを助けたり、慰めたり、驚かせたりするということ。それらは多分、僕が前の人生で導き出せず、失敗し、辛く後悔したことなんだろう。だから、死んでも忘れずに心に残っている。そしてその糧を誰かに繋げたいと思っている。もしくは単に寂寥の念に駆られてふと顔を出したか。諦めが悪い。

来世で会おう。後生だから。今世でできなかったことは、来世に繋げばいい。人生は短く、一度の人生で経験できることは限られている。全ての享楽、痛み、苦しみを今世で全て体験し尽くそうと躍起になることはない。背負わなくていい。圧倒的に時間が足りない。生きているうちに沢山のことを諦めるだろう。夢や、些細な願望、当然のように期待していた未来など、その中で今回の人生のうちに経験できることは限られている。その内のほとんどは望んでもいなかったことに違いない。それに良いとか悪いとかはない。

人生の目的、人間の生きる目的、果ては生物が繁栄する目的、そういうことを子供の頃誰しも考えたことがあると思う。人は何のために生きているのだろうって。人間は神という万能な存在に憧れるようにできている。慕い、敬い、愛する。神が人間の作り上げた虚像だとしても、人がそういう存在に憧れるのは嘘ではない。何でも知っている人、何でもできる人、際限なく優しい人、自分を救った人、世界を救う人。自分の人生だけを目一杯楽しめればそれでいいっていう人もいるかもしれないが、時折自分の力の無さに愕然とする。もっと頭が良ければ、もっと自分が強ければ、解決できたのに。自分の願望として、その先に秀でた自分を想像するのは珍しくない。その行き着く先が神だったりする。

人は等しく神に近づこうとしている。それはおそらく、動物の中でも理性を持ち得た人間だけが行っている。理性とは、功利主義的な考え方のことではなく、僕が思うには常に正しくあろうと考え続けることだと思う。本能に従わず、欲望に囚われず、正しいことを模索しようとし続ける姿が理性ある姿だと思う。その先にはまさしく神の姿がある。全知全能で、ありとあらゆる問いに答えを投げかける神の姿が。しかし人間は万能ではなく、答えを導けないこともあれば本能や欲望を抑制できないことだってある。そういった動物的側面からなかなか抜け出せない。動物が間違っているとは思わないけれど、少なくともそこに理性はない。理性に則った意志も正義もない。

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そもそも何が正しくて何が間違っているか、正解なんて無いと諦めたりもするだろう。善行とは何であり、悪行とは何なのか。そんな判断さえつかない。僕が本で読んだ、善を定義づける言葉としてこういうのがあった。

宇宙は単純なものからより高度な物へ進化している。この進化に沿うものは善であり、進化を妨げるものは悪である。 

善悪を判断するときに、その思想、行動が宇宙の拡大を促しているか、妨げているか、それで決まるというものだけど、僕には非常に曖昧でわかりにくい。宇宙って何?って話になる。宇宙は世界でもいいだろう。宗教的な言い方をすれば、神がその判断を下すか否か、が善と悪を分ける手段になるのかな。偽政者はよく、自分の判断を正当化するために神の言葉を借りたりする。人は神を真似る。神に近づこうとする。神の意志に外れていないか確認する。理性を保っているかどうか。

僕も、いまだに学び続けている。10代で学ぶはずだったような些細な事を。僕は多くのことを学ばずにここまで来てしまった。残された時間がどれだけあるかわからないけれど、いろいろ見過ごして失敗してきた。世の中、今更気づくこと、いまだにわからないことで溢れている。それを僕一人の人生として見ると、取り返しのつかない遅すぎたことだと思う。もっと早くに解っていれば、気づいていれば、自分の可能性なんてものがあったかもしれない、少なくとも後悔はあるだろう。現実としてはどうしようもなかったことが多い。そうやって諦めてきた。人生で諦める必要なんて無い、という発想もあるかもしれないが、今からだと間に合わないことの方が多い。F-1レーサーやワールドカップ選手にはどう転んでも今からなれない。人生を初めからやり直したってなれないだろう。ただ、本気で望むなら、今から始めてもいいと思う。この人生でゴールに辿りつけなくても、自分がその舞台に立てなくても、自分がなりたい姿、在りたい姿、理性に則って築いてきた理想というのは、他の誰かか、もしくは次の人生に引き継がれると思う。一代で上手くいった人だって、その前に何代も苦労を重ねて徳を身につけたかもしれない。今自分が正しいと思う姿を諦めることはない。それが例え成し遂げられなかったとしても、少しは神に近づいているかもしれない。そして今の人生で痛みや苦しみとともに学んだことを、僕は次の時代に向けて大切にしたいと思う。