いかにして人に迷惑をかけるか

「人に迷惑をかけるな」というのはこの日本において長い間至上の命題かのように謳われている。そして「人に迷惑さえかけなければ何をやってもいい」という解釈が大手を振っている。疲れた人々はとばっちりで迷惑を被ることを極度に嫌う。「好きにしていいから迷惑だけはかけるな」なんて冷たくあしらったりもする。しかし、現実を見ると多くの人が、少なからず人に迷惑をかけている。「迷惑さえかけなければいい」どころか好き放題やって誰が誰に迷惑をかけ倒しているのが現状のように思う。人に迷惑をかけず、慎ましく生きるなんて言いながらそれを地で行っている人がどれぐらいいるだろうか。仮にいたとしたら、彼は人の迷惑を被るだけの、大いに損な役回りだ。人に迷惑をかけずに何かをする、生きるということがいかに難しいか。迷惑の基準なんて人によって全然違う。何をしていてもどこかで迷惑がかかる。社会に必要ないと言われ自殺したって、後始末の迷惑がかかる。誰にも迷惑をかけないなんていうことは不可能じゃないだろうか。世の中は互いに迷惑をかけ合って成り立っているというのが事実ではないか。だから「人に迷惑をかけるな」なんていう言葉には意味がないと僕は思う。我々が学ぶべきなのは「いかに迷惑をかけないか」という作法ではなく、「いかにして迷惑をかけるか」ではないだろうか。言い換えれば、どういう迷惑のかけかたなら許容されるのか。

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もちろん人と関わるつもりがなければそんなことは学ぶ必要はない。山、もしくは無人島にでも籠もり誰とも会わず自給自足していれば考えなくていいことだろう。しかし人と関わる以上、我々はいかようにしても迷惑をかけざるを得ない。自らが何かを行い、誰かに迷惑をかけ、それはどういう形であれば許容されるのか、そしてその活動により人からどうやって見返りを得ることが出来るのか。この手法というのは、僕は全然わかっていないからむしろ教えてほしいものだ。ただ実例というのは世の中にいくらでもある。例えば、会社の営業など。営業というのはその性質上、基本的に嫌われるものだ。慣れないうちから進んでやりたがる人も少ない。営業が得意な人というのはおそらく、言い方は悪いが迷惑をかけるのが得意な人だろう。相手の迷惑を気にしていてはガンガン営業なんてかけられない。しかしそれは、相手の迷惑を顧みないという意味ではない。そこには何らかの形で迷惑を許容させる手法がある。もしくは当の本人も、相手もそれが迷惑だなんて思わせない技術がある。そのうちの一つはもちろん、利益だろう。迷惑の代償としてなんらかの利益をもたらす。それは社外においても社内においても同じことになる。そういう手法を学びたければ、会社内や社外において「人にうまく迷惑をかけている人」を探し、参考にしてみてはどうだろうか(必ずいる)。ただそれを真似るだけではうまくいかないと思う。人には得手不得手があり、彼らの手法を自分がやっても通用しないということは大いにあるため、そこで「自分ならどうすればいいか」ということを考えるのが肝心になってくる。最初は他人の手法を真似してみるのも勉強になると思う。やることは本質的に同じであり手段の違いだけだから、他人の手法からもなんらかのヒントが得られるだろう。その上で自分に合った手段を確立するまでは、迷惑をかけながらも「いかにして人に迷惑をかけるか」を試行錯誤するしかない。「迷惑を迷惑と思わせない」更に「迷惑をかけて感謝される」ところまで持っていくのがこの試みのゴールとなる。

これらのことは、僕が町中で写真を撮っていた時に思い浮かんだことだった。風景や建物を撮っていればなんでもないが、人が相手になると時々撮られるのを嫌う人がいる。それは写真の利用のされ方であったり、撮られることそのものがなんとなく嫌だったり、各々の理由があると思う。こちらは迷惑をかけているつもりがなくても、相手からすれば迷惑と感じることだってあるだろう(写真に限らず)。そういった場合にどうすれば彼らが迷惑を許容してくれるか、迷惑を迷惑と感じないようになり喜んで撮られてくれるか、そんなことを考えていた。昔旅行をしながら写真を撮っていた人は、撮った写真を相手に送ったりして喜んでもらっていたという例がある。ニューヨークの有名な写真家なんかだと彼に撮られること自体が名誉になり、街の人達は喜んで撮られるという例がある。もっと簡単な例だと、シャッターを切ったあと目が合いはにかむと、相手も笑顔を浮かべてくれたというようなこともある。誰が誰に対してどういう形で有効に作用するかはわからない。しかし何か、人と関わって物事を成そうとするのであれば、「いかに迷惑をかけないか」ということをずっと考えていても何もできない。「いかにして迷惑をかけるか」つまり、自分の都合である迷惑をどうやって相手に受け入れさせるかを考え、試行錯誤してうまくいけば、少しずつ物事が成就していくのではないだろうか。