自分の目、他人の目

性的ショッキングな妄想を垂れ流すのは意外に恥ずかしいもので、それを恥と感じるのは他人が達成している現実に対して、自身は未達成な願望でしかないという面、欲情を垂れ流しているその姿が気持ち悪くて、それはまさに汚物であり、他人に嫌悪感と恐怖心を与えるものであるからそういうものを魅せつけるというのはやはり恥ずかしいことであり、その恥じらいが快感に変わるヘンタイの所業をいかに理解するかという境地に立たされるのであった。全裸で走り回れば社会的に抹殺される。恥というのは二種類あり、他人の目線ともう一つは自分の目線である。自分の目線とは、自分がそれを見た時にどう思うか、というもので、たとえ隠れてやってもごまかせるものではない。

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友人が友人同士の飲み会に参加したとき、そこに僕は参加していなかったんだけど、その席にアラブ人がいたそうだ。友人たちは酒を飲み交わしていたがアラブ人はイスラム教徒だからということで頑なに断っていた。酒を勧める友人たちに対して不機嫌になることもなく、にこやかと、やんわりと断っていた。そこで一人が

「ここはイスラム教の国ではない。君が酒を飲んだからといって誰も君を非難しないし、罰せられることもない」

そう言った。それはしつこく勧めるというより、彼自身の意見としてそのアラブ人に興味本位に投げかけただけで、悪意があったわけではない。ただ単に、そこまでして酒を拒む理由を知りたかっただけの問いかけであった。

「他にアラブ人はいないし、君が酒を飲むところなんて誰も見ていないんだから」

そのアラブ人は微笑みながら彼にこう言った。

「アッラーが見ている」

他人の視点、自分の視点、それ以外に神の視点というものがそこにはあった。もちろんそれは恥を忍んでということではない。戒律を守るか背くか、という形式の違いがある。他人の目を気にしているわけでも自制心が強いわけでもない。彼は神の視点を持ち合わせていた。アラブ人全てがそうではない。同じアラブ人でも外国では羽目をはずして酒を飲み交わす者も多く存在する。信仰心の違い。

他人の目を気にして隠れてやることというのは、自分ではその願望を認めていることになる。人前ではできないことも、誰も見ていなければ平気でできる。家の中では全裸で生活するという人たちがいて、彼らはそれが当たり前だと思っており、社会的制約がなければ家の外でも全裸で生活したいと思っている。しかし実際には許されないため、しかたなく外では服を着る。これは見られることが恥ずかしいからといった理由ではない。社会生活を営む上での妥協だ。外へ出たら服を着なければいけない。僕が寝る場所を探していたとき、一人の男性から誘いがあった。彼はそういうスタイルの生活をしていた。つまり、全裸であることが自然であるという意識のもとに、自宅では全裸だがそれでもいいなら来たまえと、声をかけられた。同時にそれを僕に対して強要することはないと付け加えていた。僕はそれが面白いと感じてその人の家に飛び込もうという気にはならなかったが、残念ながら遠隔地であったためお断りした。

自意識とはかくの如く違うものか。文面で確認できるもの、言葉として表に出ているもの、雰囲気で縛るもの、徐々に曖昧になっていくがそれら全て周囲に強いるための共通のルールとして、認識の共有が求められている。対立する自意識の調和を図るために。さて、ここで一つ、青少年を性的対象とするか否かということについて考えてみよう。我々が育った90年代末期というのは不況が深刻であり、高校生の売春が盛んに行われ話題になっていた。当時私はまだ幼く、そういう環境に属してたわけではないが、世間では社会的な悪、秩序を乱す行為が日常的に行われ、表立って報道されていた。ここに他人の目線と自分の目線の対立がある。人の見ている前でそういうことはできない。違法、恥、評判、様々な制約がある。しかし人前でなければ平然と行われている。ということは、外面では反対しながらも自意識ではそれを求めている。ここに存在する対立構造を具的的に列挙してみると、若い女を抱きたいという欲望、抱かれもいいから金が欲しいという欲望、それに対して法律の制約、子を持つ親、周囲の大人、若い世代の嫌悪感、不信感。

そこに一つの疑問がある。バレなければいいと思って実行する当事者たちは、果たしてそういう嫌悪感や不信感を持っているだろうか。自分以外に同じようなことをしている人に対して「や、似た者同士ですね」「わかるわかる」と同調することができるだろうか。建前上は反対するかもしれない。しかし本心ではおそらく同意しているだろう。どうだろうか、もしくは、世の中には自分はよくても人はダメという人種が存在するため、自分がやっていることでも他人がやれば平然と批判するかもしれない。このあたりは非常に複雑であり、隠れてやることに喜びを見出している人もいるかもしれない。見つからないようにバレないように本性をさらけ出すことが喜びであり、表に出て逮捕されるような人物は認められないとか、表面化して堂々と主張することを良しとしないとか。

もし自意識を強く持っていたら、自制心があれば人が見ていない場所でも欲望をコントロールする。誰かが見ているかは関係なく、自分が自分を常に、正しくあろうと監視している。人前かそうでないかで振る舞いが変わるのは処世術であり、人の見ていない場所でその人物の本性がある。匿名インターネットなどがわかりやすい例で、欲望と憎悪と怨恨に満ちあふれている。それらは彼らの自意識であり、人に見せられない本性である。表面だけを見て人を判断するということは、その人の表面を判断しているに過ぎない。表面を保っている多くの人が、隠れて欲望をむき出しにしては逮捕されている。下手を打ったねえ。

計算高い人は、有利であろうと努力する。人からこう見えたほうが有利であろう。他人からはこう見られたい。自分の本性が知れてしまうと社会的に不利になってしまうため、本来の自分の姿を隠そうとする。他人から見える自分を作り上げ、本来の欲望渦巻く自分の姿は自分だけが、もしくは限られた人が知っていればい。お互い隠し合う条件で契約成立。限られた場所で己の本性をさらけ出し合う。その欺瞞に満ちた姿が現代における中道であると言えるだろう。誰もが自分を律することなどできず、誰ものが他人の眼前で欲望をさらけ出すこともできない。欲望と制約の狭間で悶え苦しみ、抜け道を探し、こそこそと楽しみながらも表では善人の振る舞いをする。それは周りを不快にしないための心遣いかもしれないし、非難されて自分が傷つくことを避けるための防衛手段でもあるだろうし、投獄されないための偽装手段ということもあるだろう。本性が一体何処にあるか、本人は知っている。それは彼の内面にある。妄想の中にある。隠れた行動の中にある。世間の見えないところで渦巻いている。匿名インターネットで可視化されている。

この日本という国はとりわけ建前を保ちたがる傾向がある。何よりも和を乱す輩を許さないというのが日本の宗教であり、世間からの抑圧が強く、同調圧力が強く、おかげで本音と建前、人から見える自分と本来の自分に差がつきやすい。和の制約に疑問を持つ人もいれば、後生大事につかまつるたてまつる人も多い。和の制約がなければ我々は一致団結できないだろうか。狭い制約にこだわっているうちに、我々は世界どころかこの日本においてさえも、和の制約を信仰する一宗教団体と化してしまう恐れがある。他人の目を気にしすぎる世の中がなくなればいいのに。