「日の名残り」感想・書評

カズオ・イシグロの「日の名残り」を読んだ。いろんな意味でうまくできた話だった。展開が気になるおもしろさがあり、こっけいさを描いた笑いもあるかと思えば、仕事に打ち込み燃える姿や、政治にまつわる教養と緊迫感もある。さらにはそこに恋愛も加えられ、一人の人間が人生で経験する、あらゆる要素を自然に調和させたひとつの物語としてできあがっている。だからまず真っ先に「よくできた小説」だと思った。しかもそれが執事の物語だなんて、よくこんなおもしろく書けたもんだ。

あらすじ

時代は1956年、執事のスティーブンスはイギリスのダーリントン・ホールという邸宅に仕えている。この屋敷はアメリカ人のファラディという新しい主人に買われたばかりで、前の主人であったダーリントン卿は3年前に亡くなり、屋敷は執事のスティーブンスと他数人の召使い込みで売却された。過去には28人もの召使いが雇われていたこともあるダーリントン・ホールも、現在ではわずか4人で運営され、使われない部分は閉鎖されている。時代が変わり、貴族の社交界などはかつてほど行われなくなった。さらには持ち主が変わり、スティーブンスは新しい陽気なアメリカ人の主人に仕えようと、ぎこちないながらも努力の日々を過ごしている。

そんなある日、主人のファラディがアメリカへ1ヶ月ほど帰国することになった。そしてスティーブンスは主人から「休みをあげるしフォードを貸してあげるから、ちょっと旅行でもしてきたら?」と言われる。スティーブンスの方は、もともと大人数で運営していたダーリントン・ホールをたった4人で切り盛りすることに限界を感じ、人手を探していた。ちょうどその頃、過去に屋敷で働いてたミス・ケントンから手紙が来ていた。結婚して屋敷を去ったミス・ケントンもといミセス・ベンだったが、家出をしたり、なにやらうまくいっていないようだ。メイド長だったミス・ケントンが屋敷に戻ってきてくれたら100人力だと思い、この機会に会ってみようということになった。

そしてスティーブンスのイギリス国内旅行と、その道中で屋敷にまつわる回想が始まる。

仕事をおもしろく語る

僕自身はイギリス貴族や邸宅暮らしに全く知識がなく、執事の仕事なんていうものにも全然興味がなかったのに、読んでいくと「執事とは何か」みたいな話がおもしろく感じるのだ。仕事に誇りを持った人が他人の仕事ぶりを賞賛したり、自らの仕事を語ったりするのはおもしろいもので、それは職業に通じているからこそわかる見せどころや、語りの上手さからもたらされている。特に序盤の、スティーブンスが「執事としての品格が備わった」と感じられた日のできごとは、邸宅で繰り広げられていた国際会議の盛りあがりと執事の仕事のめまぐるしさと父親の死というあらゆるピークが同時にぶつかりながらも調和した、奇跡的な情景だった。ちなみに執事の仕事ぶりを褒めるときはこのような表現が定番として使われている。

晩餐会では大活躍だったわね、スティーブンス。あなたが少なくとも三人はいるように見えたわよ p156

仕事人間と感情豊かな人

それにしても、ここで描かれるスティーブンスという男はガチガチの仕事人間で、現代の日本人でもここまで筋金入りの仕事一筋な人はそうそういない。仕事ができる人間を高く評価し、手抜かりにあたっては礼儀正しくも皮肉をめいた批判をする。自身の失敗については過剰なまでに落ち込み、挽回しようと必死になる。一方でメイド長のミス・ケントンは、仕事ができるものの情感豊かな人物として描かれている。不満や怒りを露わにし、仕事上の正しさと自分の気持ちとの間で思い悩んだりする。そんな彼女に対してスティーブンスは、ある種無感情にも見えるような態度をとってきた。彼は決して無感情ではなかったが、仕事第一を全面に押し出していた。職業人としては有能だったが、結果的には数多くの誤解を招くことにもなった。そういった人間心理の行き違いみたいなものも、この小説の重要な一要素となる。

時代の移り変わり

ダーリントン卿の凋落も重要な要素だった。スティーブンスの前の主人であるダーリントン卿は、ノブレス・オブリージュに満ち溢れた人だった。高潔さの塊であり、貴族として常に正しく人々を導くのが自らの役割であると信じて行動していた。彼は過去の時代の象徴にも思える。ダーリントン卿が集会の席でアメリカ人に罵られたときに返した言葉がある。

あなたが"アマチュアリズムと軽蔑的に呼ばれたものを、ここにいるわれわれの大半はいまだに"名誉"と呼んで、尊んでおります。

さらにミスター・ルーイス、私にはあなたが"プロ"という言葉で何を意味しておられるのか、だいたいの見当はついております。それは、虚偽や権謀術数で自分の言い分を押し通す人のことではありませんか?世界に善や正義が行き渡るのを見たいという高尚な望みより、自分の貪欲や利権から物事の優先順位を決める人のことではありませんか?もし、それがあなたの言われる"プロ"なら、私はここではっきり、プロはいらない、とお断り申し上げましょう p148,149

このセリフにはダーリントン卿の人柄がはっきり現れている。かつての英国が本当にそうだったかは疑わしいところではあるが、やはり時代を象徴するような価値観であるように思える。この集会で議論されていたのは、第一次世界大戦後ドイツに課したヴェルサイユ条約があまりにも負担が大きく、人道的な見地から譲歩すべきではないかという意見をまとめる会合だった。反対していたのは大戦中フランスやイギリスに莫大な貸付があったアメリカだった。

その何年か後にダーリントン卿は失脚し、屋敷はアメリカ人の手に渡っている。現代までにおいても、アメリカ的価値観は世界中に浸透することとなった。そこには良い面もあり悪い面もあるが、時代の移り変わりと言えるのではないだろうか。

時代の流れに翻弄され、良いこともあり失敗もあり、過去がなつかしく思うことも大いにある。仕事一筋で自分を押し殺してきたが、もしあのとき別の道を歩んでいれば、敬愛していたダーリントン卿を助けられたかもしれない、レジナルドを見殺しにしなくてすんだかもしれない、人間同士の関係にもう少し踏み込めたかもしれない、スティーブンスが悔やむことは数え切れない。それでも、過ぎ去った時間は戻らない。今を生きるしかない。それに今だって、全てが悪いことばかりじゃない。これからだって、きっと。

過ぎ去ったことを悔やむだけでなく大切にし、これからを生きる。そういうことが書かれた小説でした。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

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著者のカズオ・イシグロはジャパニーズ・ブリティッシュ。日本生まれで両親も日本人だが、小学生の頃からずっとイギリス生活が続いたためイギリス国籍を取ったという移民の人。この「日の名残り」ではイギリスのブッカー賞という文学賞を受賞し、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされている。

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映画も見た。演技自体は良かったけれど、内容ははっきり言って小説のほうが良かった。