自分のことなんてどうでもよくないですか?

自分と他人との関係とか、自分を主体にすることがあまりおもしろく感じられなくなった。そういうことをおもしろがって考えていた時期はあったのだろうか。多分幼少期や若い頃は「自分とはなんぞや」みたいなことだったり、他人と関係を築いたり上手くいかなかったり、自分を主体にした他人との比較みたいなことを考えていたのかもしれない。そして段々とそういうことに飽きてくる。自分とか、他人とか、どうでもよくなる。

自分でも他人でもない「何か」

すると興味の対象は「何か」になる。自分とも他人とも違う「何か」とは、自分に関連するものではない。「何か」を好きな自分や他人、が好きなわけではない。「何か」に夢中な自分や他人、がかっこいいわけではない。「何か」とは、自分の能力やステイタスを上げる、自分の付属物や延長上にあるものではない。そして他人と繋がるための「何か」でもない。他人との関係を育むための媒介ではない。他人を判断する基準としての「何か」でもない。「何か」は、自分からも他人からも独立した対象物として存在している。それに興味を持つということがすなわちhappyから分離したfavoriteである。そこには自分も他人もない。ただ対象と、それに対する自分の興味だけが存在する。

人との関係性の中に自分を見出すのが社会化された人間であり、そこから逸脱してしまうということはつまり、非社会化を意味する。社会的な視点から見る非社会化した存在というのは、異物である。そして社会化人間が至上の価値としてあがめている関係性というものをないがしろにする非社会化人間は、いわゆる異教徒にあたる。あまり理解はされないだろうし、迫害を受けることもあるかもしれない。しかしそんなものは割りとどうでもよくなる。

対象との向き合い方

非社会においては、対象と私の関係さえなく、必要としていない。そこにあるのは対象への一方的なfavoriteだけ。それは呼びかけではなく、リターンもない。ただ対象がおもしろければそれだけでいい。favoriteの世界はそうやって成り立っている。対象は映画や本といった消費コンテンツ、絵画や音楽といった芸術作品、その他スポーツだったり個人だったり、学問だったり幅広い。それらとの向き合い方は全て、対コンテンツとしてのfavoriteな向き合い方であり、自己や他者との間に築く人間関係のようなものとは根本的に違う。

対象への向き合い方は、生産もあれば消費もある。価値を生み出し、経済に乗っかり、当人を富ませる対象もあるだろう。逆に、費用を要するだけで本人が貧することもあるだろう。そしてそれ自体はあまり重要ではない。生産であるとか消費であるとか、経済うんぬんという話はfavoriteの外側で起こっている現象に過ぎない。外側とはつまり、自己と他者との関係性がはびこる社会のことだ。生活が必要であるため、そこを全くないがしろにできないのが現実ではあるが、全体における重要度は著しく下がる。favoriteが第一義的に重要だとすれば、自分や他人、そして生活というものがfavoriteに付随する要素としての二次的な重要度しかもたない。どうでもいいのだ。

悩むことに疲れたら

先日、人間関係に悩む人の話を聞いた。他にも普段から人間関係にイラだったり、落ち込んだりしている人をよく見かける。その人たちはあまりにも自己と他者の関係性の中だけに埋没して生きており、窮屈になっているよう感じられる。環境要因で必要に迫られているのかもしれない。もしくはただ、favoriteを見つけていないだけ。favoriteの中にはhappyもunhappyもない。ただ夢中があるだけ。その境地には自己も他者もない、ただ対象への没入だけが存在する。人間関係に思い悩むことが不毛に感じられる。happyを求める生き方に疲れたら、favoriteを求める生き方へシフトしても良いんじゃないか。