「AI翻訳で英語学習は不要になる」は本当か?

今の高校生ぐらいから、英語学習は不要になるなんていう話がどこかに書いてあった。学術的な話をするわけではないから、ソースは検索してほしい。その根拠は「AIによる自動翻訳が10年後には当たり前になる」であろう予測を見越してのことだった。文章の翻訳については、Google翻訳が飛躍的に進化したことを去年あたりに見たが、音声の翻訳も自動化されるであろう、同時通訳はAIに取って代わるだろう、という予測が、英語学習が不要になるという話の根拠となる。

今のGoogle翻訳並に誰にでも開かれて、イヤフォンマイク(近未来ではそんなデバイスが使われていかもしれないが)で話したことが相手のイヤフォンには自動的に英語に書き換えられて聞こえてくる。相手が英語で喋った内容がイヤフォンからは日本語で聞こえてくる未来。近い将来にそうなれば非常に便利だなー。意思疎通のために、膨大な時間と費用をはたいて英語を学習するなんて馬鹿らしくなる。

ただし、便利な自動翻訳に頼って英語学習をしないことの弊害も、実はある。言語は単なる意思疎通のためのツールかもしれないが、その背景には歴史や文化に培われた精神がある。それは言語を学習することで同時に学べることでもある。いわゆる英語的発想ってやつだ。ここまでのことになると、日本語をAIで英語に置き換える自動翻訳では取って代われない。

英語を学んでいると、「何故ここでそんな発想になるんだろう」「何故ここで笑いが起こるのだろう」「何故これで怒るのだろう」という場面にたびたび出くわす。言葉にはツールとしての用途だけでなく、感情や文化が乗っかっている。これは日本語に吹き替えられた洋画やドラマを見ていても感じる。

さらに、自ら英語で話す場面を繰り返していると、いつの間にか自分が英語的発想の元で、英語的表現を行っていることに気がつく。「こんなこと日本語だったら絶対言えない」ということを英語なら平気で言ってたりする。そうやって初めて英語話者として迎え入れられ、話が通じることもある。

このような部分はやはり、AIによる自動翻訳で代替できないのではないだろうか。もともと日本人が日本語的表現で話して、それを英語に置き換えている限り、それがたとえ文法的に正しい英語であったとしても英語的にはならない。お互いの会話が成り立たないこともあるんじゃないかと思う。

異言語同士、外国人同士で会話を成立させようと思うと、その背景にある考え方や習慣、文化の違いが重要になってくる。相手がアメリカ人だからといって、英語的発想で日本語を話してそれをAIに置き換えてもらうなんてことは、そのまま英語で話すより難しい。相手の文化に精通してなければ尚更だ。

だから、AIによる自動翻訳が発達したからといって、英語学習が無用の長物になるかというと、そうでもないんじゃないかなー。やはり自ら話すことに比べると、どうしても文法の違いなどからタイムラグが生じるだろうし、密な関係で具体的な話をすればするほど、食い違いは広がっていくように思う。

こういうことって日本語同士でもよくある。男女間なんかでよく見かける。同じ言葉を発していても、お互いがとらえる意味は全然違う。だとすると宗教も文化も背景も何もかも違う外国人同士が、AI翻訳によって言葉を置き換えるだけで、果たしてコミュニケーションは成立するのだろうか。

自ら英語を学ぶことによって、表現の根底にある英語的発想や精神性、文化的側面などを、ある程度自分の表現パターンとして取り入れることができる。AI翻訳が発達すれば、確かに多くの場面において英語を話せる必要はなくなる。同時にそうなるとむしろ、自分で英語を話せる人、翻訳できる人の重要度は増すのではないかと思った。エキスパート以外は淘汰されるかもしれない。中間層が一掃されてここでも二極化の格差社会か。