リハビリ日記

あまり更新されないけれどよく読んでいる日記があって、こんなエモーショナルな文を書きたいと思っているが、自分が得意なのはどちらかというと小論文みたいに説明的な文らしい。文に感情を乗せることが苦手だ。安全な、ありきたりなことしかここでは発言していない。最近人と話していたことで、自我の話があった。前にも似たようなことを書いたけれど、押井版攻殻的に、自分という枠組みから解き放たれたいと感じている。自分というこだわり、自我の中は窮屈で息苦しい。閉じてしまっていて面白味に欠ける。種のようなイメージだ。突き破って芽を出し、枝を生やしてのびのびしたい。そして実を付けまた種を落とし、絶対的だった自分が枠組みを越え、相対的に拡がっていけばいいのにと思う。今この瞬間にも拡がり、飛び散り、混ざり合い、自分は自分でなくなっている。長野一郎が言ってたことはそういうことじゃないかと思うようになった。

絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念も起らないのだと云うのです。

夏目 漱石. 行人 (Kindle の位置No.5977-5981). . Kindle 版.

2月も終わる。今はただ書類が届くのを待っている。来月から忙しくなるかもしれない。これまで半年ほどかけてやっていたことは、もう全部めんどくさくなって放り出している。それも最近になってから、ここ二週間の話。ここ二週間は特に気が乗らなくて、ぼーっとしていた。その間にインフルエンザの騒ぎがあったり、別のことをしないといけなくなり、せっかく続けていたことをやめた。ここで完全にやめてしまうと全部無駄になるから、また再開するか。地獄めぐりを抜けて、やや体力が戻ってきているはずだ。顔を見たら明らかに痩せていた。頬を触ると肉が落ちていた。

鴨川を歩いていたら声をかけられた。紺のジャンバーに角刈りのおっさん。40代だろう。僕はヘッドフォンをしていたから外したら「仕事探してませんか?」と言われた。僕ははにかみながら首を振った。おっさんは自転車でどっかに行ってしまった。何でこんな風に声をかけられたのだろう。僕の服装を見てみると、水洗いしても取れなくなったドロドロのブーツ、農業や旅行で汚れが落ちなくなったリュック、茶色のニット、サングラス、無精髭、パーカ、チノパン、多分浮浪者と間違われたんだ。バイトへ向かう途中だったからついていかなかったが、暇なときに声をかけられたら面白半分でついていってたかもしれない。タコ部屋に監禁されるのだろうか。

フォーシーズンズっていう歌をまた思い出していた。古い歌をよく思い出す。すべりだいとか。

やや暖かくなってきた。キャッチャーを再読していた。キャッチャーはクリスマスのニューヨークの話で、クリスマスのニューヨークと言えば-5℃とかだから、極寒のなかの出来事だと思うとけっこう大変な話だ。セントラルパークの池が凍るとか、ロックフェラー広場の前でスケートするとか言ってるから間違いなく寒いはずだ。寒さの感覚もちょっとおかしくなっている。寒い寒いと言いながら、極寒を経験してるとまあそこそこ平気だったりする。0℃は暖かい。0℃を超えたあたりで首の筋肉をこわばらせなくても外を歩けるようになる。トロントはもう暖かいそうだ。例年だと3月下旬までまだ雪が積もっているのに。セントパトリックデーが春の到来だと言われていた。何の日かというと、セントパトリックの命日らしい。

映画館に行く日が決まった。前の映画館から2ヶ月、その前はさらに1ヶ月、それだけで3ヶ月か。月日経ってるなー。で、日本に帰ってきたのが2016年の5月だから、もうすぐ2年。最初の1年は人と会ったりばかりしていた。ふらふらしていた。ここ1年は特に何もしていなかった。現状維持していた。でも最初の一年に比べたら、やや社会性を取り戻したような気がする。今日は久しぶりに英語を話した。おもったよりスムーズに口から出たが、語彙は枯れていた。「混んでる」が出てこなかった。fullとでも言えばよかったのに。もっと英語を取り戻さないといけない。取り戻さないといけないものは意外と多い。

「自分ひとりの世界で生きている」っていうのは、マンガ版「罪と罰」に書いてあったことだった。