再読「キャッチャー・イン・ザ・ライ」感想・書評

「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」を読み終えて、再び村上訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読みたくなった。普通は順序が逆で、キャッチャーに含まれるはずだった解説を一冊の本にしたのがサリンジャー戦記だから、これから読む人は先にキャッチャーを読んだほうがいい。村上訳キャッチャーは大学生の頃に一度読んでいた。当時の印象としては「ぬるい」というものだった。野崎訳ライ麦畑のトゲトゲしい文体が好きだったから、それに比べて村上訳キャッチャーは印象が薄かった。

現代語のキャッチャー

今回読み直してみて、野崎訳のライ麦畑と村上訳のキャッチャーに感じた違いは、時代性だった。1960年代に訳されたライ麦畑と、2003年に訳されたキャッチャーでは、そりゃあ60年代の訳が攻撃的になるだろう。訳の違いは原文がどうこうというよりも、翻訳された時代の日本語の違いを現しているように思う。時代における日本人の気質の差とか。村上春樹自身は翻訳夜話2にて「原文にかなり忠実に訳した」と言っていたから、現代人であれば村上訳の方が読みやすいことだろう。

ただそれにしても原文の古さがある。キャッチャーがサリンジャーの手によって書かれたのは1951年、まだ戦後間もない頃で、出版されてから60年以上経っており、もはや古典の域だ。それをいくら現代日本語に訳したからといって、元が古典であることを意識しなければならない。まだビートニクもヒッピームーブメントも始まる前のアメリカ、ニューヨークは、僕らのイメージにあるアメリカともう全然違う。

ホールデンの地獄めぐり

翻訳夜話2に書いてあったが、キャッチャーは地獄めぐりの話だ。ちょうど同じタイミングで僕はNetflixの「13の理由」を見ていて、また私生活においてめんどくさいことが二つばかり持ち上がっていて、その上でキャッチャーを読むのはなかなか堪えた。同じ時期に僕は僕で地獄めぐりをしていた。そしてちょうど「13の理由」を見終え、キャッチャーを読み終え、私生活の方でも地獄を抜け出してきた。図らずとも同じタイミングだった。この一ヶ月ほど大変だった。

そんな個人的な話は置いといて、主人公ホールデンの地獄めぐりはなんだったかというと、高校を退学になり、実家のあるニューヨークへ向かうが実家には帰れず、ホテルを転々としながら知り合いに会い、散々な思いをして疲れ果てるという話。ただホールデンにとってはなにもこの3日か4日だけが地獄というわけではなく、ずっとそういう時間が続いている。高校は3つほど退学になっており、キャッチャーの回想は精神病院かなんかで行われている。翻訳夜話2では精神病院か結核病棟かわからないみたいにも書かれていたが、精神分析医がどうこうと書かれているぐらいだからおそらく精神病院だろう。小説で切り取られたのは地獄めぐりの間のごく一部なのだ。

インチキとはなんなのか

ホールデンは、若者にありがちな神経過敏、潔癖と言うには過剰なほどで、それが原因で世の中のあらゆることが嫌になり、ヤケクソになっている。彼の嫌うインチキとは一体何なのか。別の言葉でどう言い表せるだろう。インチキとそうでないものの例を挙げてみる。

インチキなもの

  • ハリウッド映画
  • ペンシー高校の広告
  • サーマー校長
  • アックリー(寮生)
  • ストラドレーター(寮生)
  • アーネスト(同級生)
  • バーの三人娘
  • アーニー(ピアニスト)
  • モーリス(女衒)、サニー(娼婦)
  • サリー・ヘイズ(ガールフレンド)
  • ラント夫妻(舞台俳優)
  • カール・ルース(知り合い)

そうでないもの

  • 秘密の金魚(DBの小説)
  • DB(兄)?
  • アリー(死んだ弟)
  • フィービー(妹)
  • セルマ(校長の娘)
  • スペンサー先生?
  • アーネストの母
  • 尼僧
  • ジェーン・ギャラガー(幼馴染)
  • 博物館
  • ジェームズ・キャッスル(死んだ同級生)
  • アントリーニ先生?

インチキなものに漂うのは、薄汚さ、我欲、見せびらかし、嘘騙し、商業的といった要素だ。反対にインチキではないものに代表される要素は、高潔さではないか。インチキを取り除いた清廉さ。翻訳夜話2ではやたらイノセントと強調されるが、無垢な子供だけでなく、俗世間にまみれても芯に高潔さを残した大人は対象になっている。?付きもいるが。

果たせなかった折り合い

サリンジャーその人はというと、結局世の中と向き合うのをやめ、ホールデンの願望を地で行く生活に進み、歪んだ形で生涯を終えたと言われている。キャッチャーで提示されていなかったホールデンの歩むべき方向性は、サーマー校長のようにならなくとも、DBやスペンサー先生、アントリーニ先生のように、芯を保ったまま俗世間と折り合いをつけることだったのではないだろうか。

17歳のホールデン少年にとってはそれすらもうんざりすることで受け付けなかったかもしれないが、少なくともサリンジャー自身が歩んだその道は正解ではなかっただろう。キャッチャーは失敗物語だと言える。挫折経験だと。その先にある道標のようなものは「フラニーとゾーイー」でうっすら示されていたように思った。しかしサリンジャー自身のことを考えると、それも不十分だったのかもしれない。

[asin:4560090009:detail]