「パーティーが終わって、中年が始まる」を読み終えた

phaさんの本はこれまで、「ニートの歩き方」「持たない幸福論」と「曖昧日記」1,2を読んできた。僕が読んだ以外にも10冊以上の本をコンスタントに書かれている。かつてニートを自称されていたのが、割と早いうちから著述業が本業になっている。はてなダイアリーで見ていた当時は、この人がこんなに本を出すとは思っていなかった。ブロガーでも本を出す人はたくさんいたけれど、記念のように一冊出るのが関の山で、こんなに本が出ているのはちきりんかphaさんぐらいじゃないだろうか。

若さの喪失

今回の「パーティーが終わって、中年が始まる」は、久々にAmazonで紙の本で購入した。phaさんの近況は曖昧日記を読んだり、ブログやツイッターをフォローしているから、なんとなく知っているつもりでいた。ニートを名乗るのをやめ、シェアハウス生活をやめ、40も半ばになりいろいろ落ち着いてしまった。そういう心情の告白みたいなものを、おもしろおかしくきれいにまとめたのが今回の本のように思う。

今回の本は、ある意味過去を裏切ると言ったら言いすぎかもしれないが、若い頃はこう言ってたけど、年取った今はこう思う、みたいな話がえんえんと続く。年をとってステージが変わったこと、今振り返る過去の自分、かつては見えていなかった世の中の現実みたいなものを、日々実感しているようだ。それで悲嘆に暮れるわけではなく、徐々に馴染んでいってるphaさんの姿も見て取れる。

テーマは、若さの喪失なんだろう。ある意味グレート・ギャツビー的だと言える。若かりし日々、この本ではパーティーと称されているが(これもギャツビー的だ)、激しくも楽しい狂騒の日々は、華やかでみずみずしく輝いていた。同時に、若さを失った今をそんなにネガティブにとらえてはいない。パーティーが人生の全てではなく、中年になってからの落ち着きにも良さを見出されている。僕はそこに、ある種の余裕すら感じる。

笑いどころがある本だった

この本にはけっこう笑いどころがあって、そういうところにも余裕を感じる。例えばphaさんはよく、無個性なチェーン店のファミレスに入り浸っていたが、物価が高くなってあまり行けなくなり、最近は個人経営で低価格の町中華に行くことが増えたそうだ。

昭和的な店よりも平成的なチェーン店のほうが好きだ、と思っていた自分が、令和の今になって、こんな昭和の遺産のような店に通うようになるとは思わなかった。 P54

こういう自虐ネタみたいなのは、かつてあまり見られなかったような気がする。回転寿司のくだりも面白い。店員とのやりとりが面倒で、全部自動化してくれたら楽なのにと思っていたのが、現在は本当に自動化されてそれに違和感を抱いている様子とか。

もうちょっと、人間らしく扱うふりをしてほしい。人間扱いを求めるならもっと高級な店に行けばいいのかもしれないけど、お金がないと人間扱いされないのは嫌な社会だと思う。 P58

老害みたいなことを言う。ユーモアうんぬん以前に、単純にこういう態度はかつての著書では見受けられなかった。若い頃はそんなことを気にしなくてよかったのだろう。

学生時代を京都で過ごした人の京都観

個人的には、京都についての記述も気になるところだった。僕は京生まれ京育ちだから、学生時代を限定的に京都で過ごしたphaさんのような人たちの視点を持ち合わせていない。この本で触れられている京都観は、学生時代のみ京都で過ごした人たちの間でおそらく共通認識として確立されている、独特の京都ノスタルジーだと思う。

phaさんは27,8で上京されているので、東京へ行ってからがこの本で言うところのパーティーだとすると、学生時代はパーティー前夜にあたる。このパーティー前夜がある意味一番楽しい時期だったり、パーティー本番とはまた違った特別な時間という認識を持たれているようだ。

真冬の極寒の午前四時、百貨店が立ち並ぶ京都の中枢、四条河原町の交差点に出る。さすがに誰も歩いていない。こういうときは何かを食べたほうが眠れるので、四条木屋町のすき家に入って牛丼を食べた。京都に住んでいた学生の頃は、よく徹夜麻雀をしたあとにみんなで牛丼屋に行った。河原町丸太町のなか卯とか。あれはなぜあんなに楽しかったのだろう。 P119

例えば進学で東京に上京した人にも、似たような思い出があると思う。学生だけで過ごした日々の、特別な時間。同じく京都の学生にもまた少し違った、土地ならではの感傷があるのかもしれない。

僕は大学時代も京都で過ごしたけれど、学生同士のコミュニティとは無縁で友達も全然いなかった。同年代の若者が出入りするような場所にも行かず、実家と学校とバイト先を往復するだけの普通の日々だった。僕にとっての京都は、地元というだけで特別でも何でもない。

だから僕にとって京都は、パーティー前夜には成り得ない。それはそれでいいんだけど、学生時代に京都で寮生活、シェアハウス、一人暮らしを満喫していた人たちの話を聞くたびに、同じ町にいながらこうまで別世界だったのかと、不思議な気持ちになる。あれ、僕もいたんだけどな、そこに。

老いっすー

最後に、そんな意図があるのかどうかわからないけど、無性に老いを感じた部分を引用しておく。

帰って、あれとあれをやらなくちゃ。洗濯と、なんだっけ。何かわからないけれどあれだ。買うものがいくつかあった気がする。こまごまとした、別に面白くもないもの。なんだかわからないけど、何かをいつもやっていかなくちゃいけないのだ。 P151

生活っていう感じがする。若い人は、こういうのやらない。老いるとだいたいいつも、こういうことやってるよな。こういのもかつての著書では決して見られなかった。尖っていたから成立し得なかったと思う。ニートではなくなり、シェアハウスもやめ、若さを失って生活も板についてきた中年以降のphaさんの新たなステージの著書は、こんなユーモラスなかたちで幕開けした。これからもほそぼそと応援しています。

追記

自分にとってのパーティーの日々は?思い返してみると、2010〜2020年の10年間ぐらいかなー。2010年に初めて一人で海外旅行へ出て、2013年に退職してカナダ、オーストラリアに滞在し、2016年に帰ってきて2018年にアフリカへ行き、2019年に帰国して結婚して新婚旅行に行った。その間に周ったのはせいぜい20ヶ国程度だけど、僕のパーティーは海外旅行とともにあった10年間だなー。意外とパーティータイムはあった。それがコロナ禍に入って、幕は降りた。これからはほそぼそと生きていくか。