写真家、小林紀晴が書く「写真はわからない」を読んだ

ここ最近写真にまつわる本をいろいろと手にとってみては、よくわからないなーと思っていた。まず写真を見てもわからない。ヒントを得ようと思ってそれらしき本を読んだら、今度は本に書かれていることがわからない。何言ってるのかさっぱりわからない。写真のよさってなんなんだ?八方塞がり。そんな中でまさに「写真はわからない」というタイトルの本を目にした。

やっぱりわからないのかー…。最初はこの本に手が伸びなかった。いや、だってわからないでしょ、どうせ、という気になる。わからなければわからないほど、写真から気持ちが遠ざかるような気がして。わからない本を読んで、わからない写真を見ても、より心が離れていくような…

でもまあちょっと間を空けて、結局読んでみた。相変わらず写真はわからないまま、かもしれない。でもこの本はとてもわかりやすかった。「わからない」ということについて、わかりやすかった。

写真はわかりにくい

なぜ「写真はわからない」のか。そのことについて端的に説明している箇所がある。

写真は他のメディアよりも観る側に託す部分が大きい。例に挙げてみたい。人が映画を観て涙を流すことは珍しくない。小説を読んで涙を流すこともある。漫画も同様だろう。音楽はどうだろうか。それもあるはずだ。では、果たして写真はどうだろうか。 写真展の会場で写真を目にして、人は涙を流すだろうか。かなり稀だと思う。 P39

写真は映画のような創作物に比べると、圧倒的に情報量が少ない。そこに実在する対象物を撮影しているだけで、メッセージ性というか、そこに含まれる恣意性も低い。物語のような手を加えられる要素が少ない。だから伝わりにくく、何を表現しているのかわからない。結局のところ読み手に委ねられる部分が大きい。身も蓋もないことを言ってしまうと、写真を観る目がなければ、写真はわからない。

さらに観る目がある受け取り手でも、さまざまに違った感想を抱く。それは本職の写真家や選評家に至ってもそうらしい。同じ写真でも、見る人によってまるで意見が違う。ましてやそれが "撮影者の意図" なんかと合致することは、そうそう稀ではないだろうか。

つまり専門家でも「わからない」。観る目があっても、合ってるかどうかなんてわからない。だから無理して頑張ってわからなくていい、わかったふりをしなくていい、というのが写真という媒体の特性だと言える。さらにこの本では、「わからないからこそ写真は面白い」と一歩先に踏み込んでいる。

「いい写真」ってなんだ?

著者はまさにその「わからない」部分にこそ、写真のよさがあると言っている。著者が言う「いい写真」とは何か?いい写真の条件は、「見た人間が全員同じ感想を抱かないこと」にあると言う。

絵ハガキやカレンダーの写真はつまらない、と聞いたことがある方もいるはずだ。「絵ハガキ写真」という言葉も存在する。きれいだが、深みが乏しく凡庸という意味で使われることが多い。一概にすべてそうだとは思わないが、観光用に撮られた写真は確かにそんな一面を持っている。できるだけ多くの人、万人受けする「美しさ」「爽やかさ」「明るさ」といったものが求められるからだろう P24

よく撮れている綺麗な写真は、万人受けする商材として一定の価値がある。しかし作品としてはどうか?まず、既視感があるものとして扱われる。二番煎じ、技術で撮れる、つまり「いい写真」とは言えない。「いい写真」の事例として、この本の冒頭では森山大道の「三沢の犬」が挙げられている。

森山大道「Stray Dog」(1971) | ASAMA INTERNATIONAL PHOTO FESTIVAL

「三沢の犬」は間違いなく「いい写真」といっていい。では、なぜそういえるのか。写真に抱く感想、感じ方が人によってまるで違うところが重要だ  P24

共感とは対極にある

「写真はわからない」けれど、著者は「わからないから面白い」と言う。これは世に言うところの「共感」とは真逆の発想だと言える。「わかるー」ではないのだ。「わかるー」からこそウケるわけではない。「わからない」ものがいい。

「いい写真はわからない」。なぜか?それは写真に答えがないからだ。一つの答え、同じ答えでもって横につながる共感がない。「いい写真は解釈の幅が広い」とも言える。しかしなぜそれが「いい」とされるのか。共通の答えがなく、共感を呼ばない写真がなぜ「いい写真」なのか?

それが第4章「窓と鏡」の章で触れられている。写真には「窓」と「鏡」の役割がある。窓は内側から外の世界を眺める役割、鏡は自らの姿を映す役割。「窓」の写真にも「鏡」の写真にもそれぞれいい写真はあると思うが、ここで語られている「いい写真」とは、必ずと言っていいほど「鏡」の要素を含んでいる。

それは観る者が、自分の心の中を覗いたような気持ちになること、つまり見知らぬ誰かが撮った写真が、まるで自分のことのように感じられるからだ。極端なことを言えば、自分が撮りたかった写真のように感じられるときではないだろうか  P113

見た人たちがそれぞれ別の感想を抱き、他者との共感を呼ばない写真。しかし写真と、その被写体と、撮影者との間に何か繋がりのようなものを感じる写真。撮影者と、そこにある被写体が自らの写し鏡になるような写真が、「いい写真」とここではされている。

この手の話は、以前に「失われた時を求めて」を読んだときにも出てきた。芸術とは、自らの記憶を呼び起こす装置になり得るもの。呼び起こされる感覚、記憶は見た本人とその経験に由来するから、他者と共通するわけがない。鏡に映る姿は自分でしかない。作品を通じて自分を見つめ直すことができるもの、あの日あの頃の、あの感覚を呼び起こす作品が、良作だとか名作だとか呼ばれている。

でも写真には情報量が少ない。映画や小説のように、詳しくわかりやすく書いてくれていない。「そこに映る自分の姿」に到達するまで、時間がかかったり見る目を問われる部分が大きい。だから「写真はわからない」。一見するだけでは、何がいいのかわからない。

でもその「良さ」にまでたどり着けなくても、「いい写真」とはなんなのかは、なんとなくわかった気がする。「わかる写真」ではなく「わからない写真」にこそ、きっと「良さ」が潜んでいる。

小林紀晴

著者の名前にピンときた人もいるはずだ。僕は小林紀晴を「アジアン・ジャパニーズ」で知った。著者の写真は見たことがない、写真集は持っていないという人でも「アジアン・ジャパニーズ」を読んだことがある人が一定数いる。僕は旅行者なりたての頃に読んだ。「深夜特急」「何でも見てやろう」に並ぶ、バックパッカーのバイブル的な本である。

他にも「愛のかたち」という本を読んだ。これは写真家、古屋誠一とその作品群「メモワール」を追いかけたノンフィクションで、けっこうすごい本だった。古屋誠一と「メモワール」についても、この「写真はわからない」で触れられている。興味が湧いたら「愛のかたち」もおすすめです。

「アジアン・ジャパニーズ」は主にタイやインドを舞台とした1が有名だけど、2も3もあることを後から知った。2,3もこれから読んでみようと思う。小林紀晴の本は、僕は毎回面白く読めている。

今週のお題「名作」