年配に対する不信感について

先日、twitterにてある人と、年配の人に対する不信感について、世代論を交えて話していたが、それ以外にも思い出したことがあったので、残しておきたい。

 

年配に対する不信感というのは、主に学校と、会社と、メディアにて培われたように思う。
学校は、必然的に教師が対象となる。魅力的な大人像としての教師というのは非常に限られており、子供も馬鹿ではないから、全ての教師に対してそんな立派な大人像を求めてはいない。
現実は、もっと残酷だった。こいつ、ほんまに大人か?これが大人のすることか?ガキよりガキじゃないか?そんな思いがどれだけ過ったであろうか。
高校は自由な高校だったので、学校側からうるさく言われるようなことはなかったけど、小学校、中学校にて、そういった思いを抱いていた。大人にも、子供よりアホな奴がいて、子供より理不尽で不合理なやつもいる。僕は頭のいい方ではなかったけれど、生徒にバカにされるような大人は教職には向いていないと思った。
何も、理想は求めていない。せめて普通であって欲しかった。アホで無能でさえなければ。
一部でいい人がいたのは事実だけど、大部分で幻滅した。せめて害が無ければよかった。
 
高校大学ではそういう大人とは接点がなく、そのうち僕も大人になり会社に入って、いろいろな人と仕事をすることになった。
魅力あふれる人がたくさんいた。頭のいい人、覇気のある人、説得力のすごい人、すごく人が良くて周りをすべて味方に変える人、しかし、大多数はそうではなく、僕たち若い人にとってさえ、負担となるのが年配層だった。
年配層には有能な人の方が少ないように思う。それは若い人も同じだろう。しかし、若い人は無能であっても頑張る人がいる。無能で頑張らなければ辞めるか、クビになるか、潰される。それが若い人だ。年配はどうだろうか。のうのうと生きている。のうのうと生きる術だけを学んだからこそ、生き残っているのかもしれない。
 
新卒のときから、何度、年寄りの尻拭いをしただろう。
ただ、人には得意不得意もあり、有能無能もあり、自分も助けられることはいくらでもあったから(その人たちからは無いが)、そこは文句を言うつもりは無い。組織なんだから、助け合って当然だと思う。それが例え、助ける側が新卒で、助けられる側がベテランであっても。
 
ただ、許せないのは、そんなお荷物が、自分がお荷物であるという認識も無く大手を振って偉そうにしており、他人の仕事を増やすだけ増やして自分の仕事もろくに出来ず、そのうえ仕事量は僕の半分以下で、挙句の果てに、僕の倍ぐらい給料をもらっていることだ。
つつしみがない。罪悪感がない。恥も知らない。そういう人間が、社内営業だけを覚えたのか、そのまま居座り続けただけなのか、むかつくほど堂々としている。それがまた、極々一部の人であれば、中にはそういう人もいるだろうということで、仕方が無いと思う。しかし、その割合の多いこと。足を引っ張ること。全く淘汰もされない。そんな社会は腐っている。
僕は会社に入って、何度も何度も、年配の代わりに相手先に謝った。その都度悔しい思いをした。なんでこいつらのために。この、コストでしかなく、癌細胞でしかない日本の負債、年寄りのために、なぜこんなに苦しい思いをするのか。
 
有能な人も、いい人もいくらでもいる。それはわかっているが、割に合わない。それは、僕が一人で思い上がっているわけではない。取引相手からも、年配の方が無能なので今後取引はしませんと言われたケースが何件かある。
先日、辞める話をする際に、役員から呼ばれたときも、「上を見ればダメなやつはいくらでもいるから、何も辞めることはない」と言われた。そこに甘んじるのは耐えられないから辞めるんです。
 
魅力的であれとは言わない。本人の、資質の問題だからしょうがない。僕だって魅力は無い。
無能なのは仕方ない。僕だって無能だ。それが理由で人に迷惑をかけるのも、無能であれば仕方が無い。
頑張らないのも譲ろう。僕だって本当は頑張りたくない。年もとって、体力も無いかもしれない。僕だって無い。
ただ、偉そうにするのだけはやめて欲しい。つつしみが無いのだけは耐えられない。クズだと判断してしまうのはそこだ。
老害という言葉が、とても便利だと感じた。老害。とても使える言葉だ。
新卒がシュウカツに失敗して自殺している傍らで、そういう老人たちが寿命を延ばしている。一生懸命働いて、キャパオーバーになって過労死する中年、鬱病になる若者がいる傍ら、そういう老人たちが寿命を延ばしている。自分の金を守りながら、自分の地位を守りながら。
それに対する恨み、憎しみ、復讐心が、僕の年配に対する不信感の源泉となっている。