人の日記を読んでいるとすごく雑な日記を書きたくなった

別にその人の日記が雑だと言いたいわけではなく、とりとめのない、つかみ所のない、まとまりのない、つまり、悪い意味ではない。今日銀行へ行って口座開設をしたんだけど、すごく丁寧なお姉さんがいろいろ説明してくれて、最後に

「何か質問はありませんか?」

って聞いてくれたけど僕は

「もう十分です」

って答えてしまったんだ。そしてお姉さんは「もう十分…」って僕の言葉を繰り返していた。僕は「いや、違うんだそういう意味じゃなくて」って言いたかったんだけどとっさで出てこなくて、銀行を立ち去ってスーパーで買い物している時も「そうじゃないんだよ」と一人でずっと言い訳をしていた。僕のこの言葉や気持ちは永遠に伝わることがなく、お姉さんには不快な思いをさせたまま本当に悪いことしたなあと、自分だけでなく誰もを皆不幸に陥れる一言を放っていたのでした。

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こういうのは本当に、日常的にある。「余計な一言」ってよく言われるんだけど、それよりはむしろ言葉の選択を誤ってしまったために本来伝えたかった内容と全く逆の意味で相手に伝わってしまうこと。僕なんかはアドリブが本当に苦手で、日常生活においても台本をびっしり書いてその復唱を繰り返した上でやっと不自然な会話ができるから、台本に書かれていないことだったり想定していなかった事態や復唱をさぼっていたことなんかをぶっつけ本番で演じると見事に失敗する。ほら、何度同じ失敗をしているんだね、あれだけ手を抜くなと言ったのに。毎日が舞台。

浮ついたことを考えて頭ぼやけさして現実逃避したい。今日も。現実的な毎日の、人生の話とか書き出すとキリがなくて、どれもこれも解決の目処もなく、目前に迫ってくるまでただ見てみないふりをしながらその場しのぎの対策だけを用意しておく。なんだろう、明日に先送りするための準備みたいなの。今日やらなくていい、明日にしよう、って思えるだけで少し心の余裕ができ、冷静な判断と確認のさぎょうを行うことができる。あれ、これ本当に明日でだいじょうぶだよな?あさっては?さすがにまずい?とか。そして明日やるための足がかりだけ作っておいたりする。すると明日になったら「これをやるだけ、なんだ簡単じゃん楽勝」とか思ってものの数分で終わらせたりすることができる。だったら今日やれよって、今日やらないのが優雅。

昔からすぐにパニックになる傾向があり、そうなると正常な判断ができず記憶も曖昧で多くの失敗を重ねてきた。「あの時ああ言ったでしょ?」とか全部覚えてないから。残念だけど。それゆえに自分にとって冷静さを欠くことはいつも致命的だった。最後の一撃、ハイ終了。とっさの判断とか瞬時のひらめきとか、そういう思いつきや勘で上手く行動できる人がすごく羨ましい。敏捷性みたいなのがな恐ろしく無い。成功した試しがない。かといって考えに考えた結論が正しかったという覚えもない。大抵は時間切れでゲームオーバーだったような気がする。もしくは残念賞。

目前に迫る事象のうち、少なくとも楽しくて前向きで興味が持てることについてはそうそうに終わらせた。あとはどうにもこうにもめんどくさくて大変で、できれば一生無視していたい、知らない間に消えてしまってほしいやっかいな難題だけが目の前に残っている。これは僕の捉え方問題であり、僕個人がそういうのを毛嫌いしているから陰鬱なだけで、嬉々として取り組める人も多い。気持ち次第っていうのは、よほど追い詰められた状況でもなければ正しいと思う。「ライフ・イズ・ビューティフル」のお父さんみたいに振る舞うことだって可能なはずなんだ。その魂如何で。僕はそんな愛に満ち溢れた健全な魂は持ち合わせていないから、他の人が喜んで取り組んだり他愛のないことであっても戦々恐々としている。現実は結果次第、というところも大きい。その結果というのが、あまり良い結果を経験したことがないゆえに、どうしても身構えてしまう。目の前に、その先に待ち受ける苦難や痛みを容易に想像できてしまい、始める前から恐れおののき、一歩も足を踏み出せない。

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運が悪かったなんて一言で片付けてしまうと、それはもう人生全てを包み込んでしまう。僕は運が悪かったのだろうか?それとも良かったのか?運が味方してくれたことは?自ら切り開いてことは?今までに一度でも?運を他人と比較しても、それはもう変えようのないことだから、「現代日本に生まれた時点で統計的には運が良い」などという模範解答は人生に何ら意味をもたらさない。僕の人生を一言で言い表すとしたら「その場しのぎ」

明日もその場をしのがないと、すぐに終わりを迎えてしまう。インターネットがもう少し快適だったら、僕の人生ももう少し快適だったかもしれない。そう信じたい部分もある。常時接続的な意味で。

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僕は今、オーストラリア西部のPerthという街にある、とあるホステル(ゲストハウス、こちらでは何故かバックパッカーズという呼称が一般的)に滞在しています。7月2日に来たから今日で4日目かな。パースはトロントに比べて最低賃金が高い分、家賃も高かったりします。僕が住んでいたような$250/月なんていうのはありえない。このホステルでさえ$180/週もする。6人部屋なのに。快適な部分は、トイレットペーパーを買わなくていいところ、あと洗濯の洗剤を買わなくていいところ、フランス人のメガネの受付が美人なところ。ここには日本人が少しいるみたいだけどまだ話したことがない。同室はアイルランド人、カナダ人、フランス人、韓国人、台湾人、男女混合はオーストラリアに限らず珍しくない。彼らは2ヶ月とか4ヶ月とか、この部屋で暮らしている。みなこのパースの街でアルバイトをしているから、お金のことはあまり考えなくていいみたいだ。

同室のアイルランド人は毎日草を吸っている。別の部屋に滞在するドイツ人が大量に仕入れているらしく、ああ、ここもこんな感じなのか、それにしてもトロントよりはましだなと思っている。世間ではマリファナ合法化の流れが正しい方向性みたいに一部思われている。アメリカで二州合法化されたのは記憶に新しく、ウルグアイは完全に合法になったとか。ただ先日読んだ高城剛の黒本弐には「マリファナはあまりにも品種改良が盛んで必ずしも安全とは言い切れない」と書かれていた。タバコについても世間では、葉っぱそのものより味付けの化学物質、添加物が危ないなんて事がよく言われていた。それと同じ。農産物なのだから、安全のためには基準を設け、産地や農家、成分表などをしっかり確かめたほうがいいという野菜のような意見だった。正直僕にとってこの話は目からウロコだった。「マリファナはタバコより害がなく安全」っていう言葉を今までに飽きるほど聞いてきたけれど、それに一石を投じる話だったように思える。ただ誰の言葉であれ盲信するわけではなく、何がどう安全で、危険で、っていう話は要検証だとは思う。今みたいに違法だけど黙認されている、みたいな中途半端な状態はよくないのかもしれない。日本では捕まるけど、外国においても受け入れるなら、食品と同じで栽培から商品化にあたり農薬や添加物、品種の管理、遺伝子組み換えなど基準を設けるのが一番いいのだろう。仮にそういう流れになるとしたら10年はかかるかもしれない。

とりとめのない話になった。黒本弐は一見ゴシップみたいだけど検証の価値ありでおすすめです。