虚構の春

「お疲れ様でした。もしよろしければ、こちらにご署名とご連絡先をお願いします。メールアドレスでも電話番号でも結構です。」

それは参加者名簿といったものだった。こういうものは普通、始まる前に書くものだと思っていた。ここの趣旨としては、内容を聞いた上で署名したい人だけ署名してもらうというものらしく、こうやって最後に名前を募っている。川崎誠一郎、@gmail.com、帰りがけについさらさらと記入してしまい、間違いに気づいた。これは、とある団体のセミナーだった。僕は頼まれて来ていたんだ、自分の名前を書いてどうする。ああいう名簿は参加申し込みと照合して、出席を確認したりするにも使うはずだ。僕は自分の名前で申し込みをしていないから、出席だけしていたらおかしなことになるんじゃないか。この時はそんなどうでもいいことを考えていた。

 

「お前暇だろ?」

「暇なわけないだろ。わかってて言ってるだろ」

「時間ぐらい作れるだろ?」

「お前にも作れるだろ」

「それがタイミング悪いんだよ、ちょうどこの日は。空いてないか?」

「空いてても行かない」

「なんで」

「なんで行くんだよむしろ」

「興味ないか?ヤバそうだろこれ」

「いや、意味わからないから」

就職活動の合間、代わりにセミナーに参加するよう頼まれた。本人が行きたかったけれど都合が悪く、概要でいいからメモを取ってきてほしいと言われ、もちろん断った。その日は選考があり、それどころではない。僕は彼とは違い、普通に就職活動をしている。石上という男は、大学のサークルで参加しているwebメディアで取材のようなことを行っていた。そのwebメディアには他のサークルや個人も登録されており、それぞれの活動を吸い上げ、厳選されたものを公開している。石上は卒業してからも活動を続けるらしい。セミナーに参加しようとしていたのも活動の一環であり、セミナーに参加できないのもまた活動の一環が重なったためだった。就職活動中の僕よりも忙しそうだ。石上からfecebook経由で送られてきたイベントの広告には、セミナーの日時や説明が書かれていた。

『徒歩 代表 縞 哲朗 講演会 〜明日への歩み〜 2月29日(木)14:00〜15:00』

石上の予定としては参加したついでにアポイントを取り、その後インタビューめいたことをやりたかったらしい。これのどこに惹かれたのか、彼が何を「ヤバそう」と言ったのか全然わからない。しかしそういったものをどこからか見つけてくることで、彼の活動は今までもこれからも続いているのかもしれない。

「そうか、残念だな。どうせ俺は行けないから気が変わって行くことがあれば後で教えてくれ」

石上は僕に頼み込むわけでもなくあっさりと引き下がった。僕はそんな話をしたことも忘れていた。

***

グループディスカッションでは、議題を与えられて問題解決へ導くための模擬会議を行った。初対面の就活生同士、ぎこちない愛想笑いを浮かべながら引いたカードの議題について話し合う。グループディスカッションを何度か受けて気づいたことは、議題が曖昧であること、正しい答えなんてないこと、答えを導くまでの筋道を整える過程を見られていること、そしてそれらをまとめ上げた人間が次の選考過程に進めるということだった。ここで必要なのはアピールではなく、ロジックでもなく、コミュニケーションでもない。同時にそれら全てが求められているとも言える。そういうことが見えてくると、選考におけるグループディスカッションは得意分野になった。最初に議題を与えられた時点で模範的な回答とそれに向けた筋道を描く、そして他の就活生たちとあたかも相談しているかのように装いながら、自分の筋道へと誘導する。その筋道には根拠が明解にあり、感情で批判してくる就活生や、ただ同意して頷くだけの人間はもれなく落とされる。そのまま自分が描いていた回答にまで導くことができれば、僕は次の選考過程へと進めた。そして今日はそれに失敗した日だった。「後期高齢者を対象とした今までにない新しいサービスを考える」このテーマついてどうしても筋道を描くことができなかった。発言していた人たちも似たり寄ったりのことしか言えず、妥協案のようなものでなんとなく話がまとまり選考は終了した。その日の僕は、ただ参加して頷く人間でさえなかった。頭が働かず、何一つとして発言しないでいた。落ちたな。

『本日です』

iPhoneが揺れ、画面に表示されたのは予定の通知だった。1時間後、場所は最寄り駅近くのカルチャーセンター、内容は

『徒歩 代表 縞 哲朗 講演会 〜明日への歩み〜 2月29日(木)14:00〜15:00』

広告にアラートが設定されていたらしい。僕は電車に乗った。

***

何度も前を通ったことのある建物だった。こんなところで講演会のような催しが行われていたことさえ今まで知らなかった。ビルには告知や看板といったものもない。外開きのガラス扉を開け、部屋番号を確認して階段を昇った。ドアは閉まっており、表にはfacebookの告知と同じ文言をただプリンタで印刷しただけの紙が貼られている。講演の開始時刻まで15分。僕はドアを開けて中に入った。

部屋は予備校の教室のような折りたたみ式の机とイスが3列に並べられており、その向こう側にはホワイトボードがあった。10数名がまばらに座り、本を読んだり携帯を触ったりしながら静かに佇んでいる。年齢層は20代前半から後半、やや年配の人もいるが10代と見られるような人はさすがにいない。男女比は少し女性のほうが多く見られる。僕以外の全員が普段着であり、リクルートスーツは場違いに感じた。

「どうぞ、お好きな席におかけになってください」

入口近くに立つ受付らしき女性に声をかけられた。大学生のような服装ながら、その物腰には落ち着きが感じられる。アルバイトだろうか。僕はやや後ろ、右寄りの空いている席に座った。この部屋は講演のために貸し出されたらしく、簡素であり、広告や掲示というものはない。ただ机とホワイトボードと窓だけがある。周りの人は一人スーツ姿の僕に目を向けるわけでもなく、ゆっくりと時間が過ぎるのを待っている。各々が一人で来ているようであり、並んで座っている人はいない。会話をしている人もいない。若い女性がこんなところに一人で来るものだろうかと不思議に思った。

一人の男性が前に立った。

「そろそろ時間なので始めたいと思います。本日は私共『徒歩』の講演会、『明日への歩み』へご参加いただきありがとうございます。本日講演をつとめさせていただきます、縞です。よろしくお願いします。それではまず、本日の概要についてお伝えいたします。初めに本題である『明日への歩み』のお話をいたします。その後私共『徒歩』についてご紹介いたします。最後に質問等を受け付けたいと思います。たった1時間ですので、どうぞおくつろぎながらご参加頂ければと思います。よろしくお願いします。それでは早速始めていきましょう」

この縞哲朗という男性は一見して普通のサラリーマンであった。僕以外に唯一のスーツ姿が彼であり、真っ直ぐな水色のネクタイと身体にサイズが合った紺のスーツ、着慣れた印象を受ける。短めだが少し伸びかかった髪、今朝髭が剃られたであろう鼻の下と顎のあたりは僕らリクルートスーツ姿の学生とは違う、いかにもな社会人の姿であった。おまけに話し方まで会社説明会のようだ。

講演の内容はよくわからなかった。人類の歩みと成熟に至るまでの歴史とか、これからの歩みとその方向性などというテーマであり、話が上手いとも面白いとも言えない。人類の歩む道とは動物、ひいては生物という存在からの脱却を目指す歩みであり、その先にある姿こそが人間の完成された形であるとか、その時人類は国家や法律、貨幣経済などの枠組みを必要としない存在となっているとか、サラリーマン風の縞哲朗の姿からはどうにも似つかわしくない、変な話を終始行っていた。縞の語る言葉をときどき就活用のノートの書き留めていたが、石上はこれを見て理解できるのだろうか。

「我々『徒歩』は、この"歩み"を意識的に行っていこうという志の元に集まった団体です。まだ5人ほどの小さな団体ですが、本日ご参加頂いた方の中にもご興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、一度私共の活動にもご参加下さい。見学いただくことも可能です。」

セミナーは終了した。変なカルト教団か何かだろうかとも思ったが、積極的な勧誘のようなものもなければ、不安を煽るような語り口調でもなく、予定の1時間を過ぎる前に終わった。これ意味わかった人いるのだろうか?聞いていた人たちも感化されたような様子はあまりなく、途中で部屋を出て行く人や質疑の時間になると帰っていく人もおり、このセミナー自体が失敗のようにさえ思われた。名簿に名前を書いたとき見えたのは、僕以外に署名していたのが10人に満たないぐらい、なんだかんだで来たついでに名前ぐらいは書いていったのだろう。

帰宅後、この自己啓発ノートのような走り書きを石上に渡すかどうか考えながらメールを確認していた。就職活動中にはリクナビからのメールが山のように届き、その中に紛れていた一通のメールは、今日のセミナーを主催していた『徒歩』からのものだった。

川崎 様

本日は当セミナーにご参加いただき、まことにありがとうございました。当セミナーはいかがでしたでしょうか。私共『徒歩』は今後も引き続きセミナー等の活動をおこなっていきますので、ご興味をお持ち頂けましたら今後ともご検討のほど、何卒よろしくお願いいたします。

さて、早速ではございますが、来月より当方代表である縞との個別対話の会を実施いたします。当方からは縞一人にてご対応させていただくこととなるため、まことに勝手ながら先着順にて人数に達した限り締め切りとさせていただきます旨をご了承下さい。このお知らせはこれまでのセミナーにてご署名頂けた方にのみお送りしておりますゆえ、ご参加頂けることを心よりお待ちしております。

『徒歩』藤井 千弦

***

「ほら、ヤバかっただろ」

「ああ、ある意味でね。これお前行くのか?」

「そうだな、さすがにそのメモだけでは材料が足りないし、直に会えるんだったらアポの手間も省けて都合がいい。いやあ助かったよマジで。ていうか本当に行ってると思わなかった。正直なところどうだったんだ?信者になって帰ってきてないよな?」

「いや、そもそもあれはなんなの?宗教なのか?」

「そうだな、厳密に言えば宗教じゃない。つまり、宗教法人という形はとっていない。それどころか『徒歩』に関してはどの法人格も持っていない。社会的には単なるクラブやサークルみたいなもんだ。最近できた集まりみたいなんだけど、そんなに大掛かりなイベントや活動をしているわけでもない。たまにこうやってセミナーを開いたりメンバーだけの勉強会を開いたりしているそうだ」

「なんでお前はそんなの知ってるんだ?」

「それがな、友達に『徒歩』のコミュニティにいたっていうやつがいて、そいつから話を聞いたんだ。そいつは旅行でアイルランドに居たんだけどその時お世話になっていたって」

「え、アイルランドで?」

「そう、なんか共同生活とかやっているらしくてジャガイモ作ったりしてたって言ってたんだ。意味わからないだろ」

こいつの話が意味わからないし、その友達がやっていることも意味わからない。それ以上に『徒歩』の活動が全く意味わからなかった。こっちは就職活動真っ最中だというのに、こいつらは一体どこの世界に住んでいるんだ。

「その話を聞いて気になったから調べたんだよ。こっちでは活動規模が小さいらしいけれど、それでも母体はやっぱり日本で、そうだお前代表に会ったんだろ?どんな人だった?もうお前の方が詳しいんだよ」

「どんな人って、サラリーマンみたいだったよ」

「見た目が?」

「見た目も、印象も、話し方も」

「ああ、そうか、本当にそうだったんだな。やっぱ俺が行きたかったな。でも個別セミナーあるっていうから楽しみだよ。本当よくやってくれた」

「それでその『徒歩』ってなんなんだ?勉強会とか、なんだよそれ」

「おまえ、興味持ったのか?」

「興味持ったっていうか、まあ気になるだろそりゃ、だって変だよあれ」

「ははは!お前も入信したいのかと思ったよ。そうだ変なんだよ。だからもっと近づきたいんだ」

「まあ僕はそこまでじゃないけどさ、何やってる団体なの?」

「うーん、ざっくり言えば自己啓発セミナーみたいなもんだ。お前もノートに書いていた通り、今までから現在を振り返り、自分の意識を変えて別の道を歩もうとかそういう感じ?」

「わかるような、わからないような」

「そういうのは基本的にどの団体でも同じなんだ。みんな違うのは何を基盤にするかっていうところなんだよ。宗教だったら神様だったり仏様だったり、他にもスポーツや政治思想だったり、団体がやってることってのはなんだって根本的に同じだよ。集団になって一定のルールに則った活動を行い、精進するというか。違いといえば何を基盤にするか、もう一つは何を目指すかっていうところかな」

「じゃあその『徒歩』はどうなんだ?何を目指しているんだ?」

「それこそお前の方がよく知ってるだろ。俺はセミナーの内容ほど詳しくは知らないけれど、なんか人間の成長とかなんとか言ってたな。大人になるとかそういうんじゃなくて進化みたいなやつ?ただその進化って言っても肉体的なものや機能じゃなくて、精神とか意識の進化?まあそこは俺もよくわからないんだよ。でも宗教にはありがちだよ」

「やっぱ宗教なのか?」

「宗教、宗教じゃないんだけど宗教っぽいから、つい宗教って言っちゃうね」

「でも僕は勧誘とかされなかったぞ」

「そう、そこは宗教っぽくない。金を巻き上げられたとかそういう話も聞いたことがない。そう、何を基盤にするかっていう話だけど、どっかの投資会社が活動資金を提供しているとか」

「なんなんだよそれ、全然よくわからん」

「それを確かめに行くんじゃないか!やっぱお前も行くか?」

「いや、いい」

しかし石上が「縞 哲朗」との個別対話へ応募したところ「石上様にはご署名いただいていないため、まことに申し訳ありませんが今回はご参加いただくことができません。次回のセミナーにご参加いただき、ご署名頂けたのちに同様に機会を設けますので、改めてのご来場をお待ちしております」という返答が来た。そしてやはり、この個別対話には結局、僕が参加することになった。石上は残念がっていたが、別の活動も忙しいからということで僕に「縞哲朗に対する質問集」みたいなのをよこし、それが返ってくれば一応材料は足りて記事にはなるからと収まりがついていた。こいつ自身も一体何をやってるのかよくわからない。

***

今回は先着順ということだったが機会に恵まれたらしく、場所の指定があり日時のすり合わせをメールにて行った。僕は就活中でこんなことをやっている場合ではないんだけど、時間の都合もつけてもらい話す内容も石上が用意してくれたから、何も準備することなく当日を迎えた。就職活動の合間の日を選んだためその日はスーツを着ずに、セミナーに来ていた他の人達と同様の普段着で向かった。場所は前回とは違ったけれど、駅近くの雑居ビルにある貸スペースという点では同じだった。今回も告知は貼られておらず、看板も立っていない。ビルのエントランスを通り抜けてエレベーターに乗り、当該階のボタンを押すと扉は閉まった。僕は就活中のこともあり、スーツこそ着ていないものの、駅近くの雑居ビルはブラック企業へ面接に来た気分になった。当該階にエレベーターが着くと、廊下を歩いてドアの前に立ち、ノックした。こぶしをドアに軽く2回ノック、これも近頃の面接の癖だ。しかし「お入りください」という声があるわけではなく、ドアが開いた。ドアを開けたのは先日見た縞哲朗本人だった。

「あ、どうも本日はお越しいただきましてありがとうございます。さあどうぞ」

縞は片手でドアを開け、もう片方の手を部屋の中へと差し出していた。縞は前回と同じくスーツ姿だった。ダークグレーの上下に紺の縞模様が入ったネクタイ。

「はい、失礼します」

僕が中に入ると縞はドアを閉め「どうぞこちらです」と僕を誘導した。入った先は前回とは違い、事務所の待合室といった風にガラステーブルとソファが置かれ、部屋の脇には観葉植物と自動販売機まである。僕は先導されるがままに歩き、ガラス張りの個室に通された。少人数用の狭い部屋で、真ん中にテーブルが置かれ、事務イスが向い合っていた。

「どうぞおかけください。コーヒーは飲まれますか」

縞は微笑をたたえながらイスを引いた後、個室の出口へと向かいながら僕にそう尋ねた。

「いえ、おかまいなく」

「紅茶のほうがよろしいですか?」

「あの、ほんと全然、大丈夫ですから」

「そうですか。私も飲みますので、よかったら召し上がってください。それではすぐ戻りますので少々お待ちください」

そう言って縞は個室を出ていった。これは面接の雰囲気と全然違う。まるで来客のような対応をされた。来客で間違いはないのか、それにしても縞の発言、諸動作があまりにもサラリーマンっぽい。これがあの、わけのわからない団体の代表だとはとても思えない。

縞はお盆にコーヒーカップを二つ乗せて戻ってきた。

「お待たせいたしました」

カップをそれぞれの席の少し右側に置き、お盆は隅にあるサイドテーブルのような棚の上に置いてようやく縞も席についた。

「それでは改めまして、本日はお越しいただきましてありがとうございます。わたくし、『徒歩』の代表をしております縞でございます。初めまして、じゃなかった二度目ですね、すみません」

「あ、いえ」

近くで見ると若い。当然自分よりは年上だがおそらく30もいってないのではないだろうか。そんな人間が団体の代表で、アイルランドで活動しており、しかも学生である僕に対してこれほど低姿勢で来られたらどう対応していいかわからない。

「ごめんなさい、緊張されてますか?これクセなんですよ、営業みたいな喋り方だってよく言われて。そうだな、もっとフランクに話したほうがいいですか?」

「いえ、そうですね、どちらでも結構です」

「わかりました。もう少し話しやすいように心がけますね。そうだ、ええと、川崎さん、ですよね?今回は個別対話ということで応募いただいたんですけど、もしかして何か、お話しされたいこととかご用意されてきてますか?」

「あ、はい」

僕はリュックサックに入れていたノートを取り出し、石上の質問が書かれたページをめくった。

「お、紙。本格的ですね」

「あ、いえ、そんな大した物じゃないです。いくつか質問させてもらいたくて」

「質問ですか。質問かあ、わかりました、もしよかったら、それ見せてもらっても構いませんか?」

見せる?石上の質問リストをそのまま見せてしまっていいのだろうか。でもどうせ口頭で質問するつもりだったんだから同じか。

「どうぞ」

縞はノートを受け取り、質問の箇所を眺めた。石上の質問は20ほどあり、より聞いて欲しい順で上から並べられている。さらに回答例のパターンを想定した追加の質問まで用意されている項目もあり、「全部聞けなくていいからできる範囲で」と頼まれていた。

「うーん、なるほど。これ、雑誌か何かですか?」

縞と目が合った。縞は先ほどと同じような態度のまま微笑をたたえている。

「雑誌ではないんですけど、インタビューのような」

「これ、良かったら書いて渡しましょうか?会話して書き取るのも大変だろうし」

「え、いいんですか?」

「ええ、後で書いて、お帰りの際にお渡しする形でもいいですか?その間ノートお借りすることになりますけど」

「ああ全然、何でも、大丈夫です」

「わかりました。それではこちらは一旦お預かりしますね」

怒ってはいないようだ。実際今までに何度もインタビューを受けているのかもしれない。

「では、質問は後回しで、今回の本題である対話に入りましょう」

「わかりました。でもあの、対話って一体何を話すんですか」

「そうなんですよね。何話せばいいんだろ、よくわかんないんですよねこういうの」

何を言ってるんだこの人は。この機会を設けた本人であり、この団体をまとめている人の言葉とは思えない。まるで下っ端の人間が組織の思惑を理解しないまま働かされているような発言だ。

「あの、失礼ですが、縞さん、縞さんでいいですよね、縞さんは代表なんですよね?」

「ははは、よく言われるんですよ、代表っぽくないって。代表なんてよくわからない肩書きですけど、そうですね、一応代表っていうことになります。実際は僕一人が全て考えているわけでもなく、上司もいるんですけどね」

上司、何かとんでもないことを聞いてしまった気がした。代表といえば株式会社で言うところの代表取締役のように実質トップの人間だろう。石上の認識でも縞哲朗が一番に名前の上がってくる人物だった。それに上司がいるとは。

「それって、もしかして影で操られている的な」

「ははは、そうですね。僕は傀儡みたいなもんですよ」

それはこんなにあっさり言う内容なのだろうか。よくわからない変な団体という先入観でここまで来たが、彼にとっては後ろめたさが何も無いことの現れなのかもしれない。しかし、石上も知らなかったということは一般的に表に出ていないような情報をこうもあっさりと打ち明けられ、それが返って得体の知れない恐怖を覚える。この眼の前の平凡なサラリーマン風の男が。

「そうだ、前回のセミナーなんですけどリクルートスーツで来てましたよね?就職活動中なんですか?」

「え、気づいていたんですか?」

「そりゃあ目立ちますよ。僕以外スーツの人はあなただけでしたから、川崎さん」

「いや、でもそれが僕だってよくわかりましたね」

「それは、そうですね、まあ来ていた人数も少なかったですから、顔を見てなんとなく思い出したんですよ。順調ですか?就活」

「順調かと言われれば、あまり順調ではないですね」

「そうですか。大変ですよね、僕も5年ぐらい前に就活してましたけど、あの時はまだ今よりましだったから、今の人はもっと大変だと思います」

「え、就活されてたんですか?」

「はい、してましたよ。新卒で入った会社は辞めてしまいましたけど、この通り」

だからこんなにもサラリーマンっぽいのか。この通りと言われたところで、今の姿もそのままサラリーマンにしか見えない。それが何故、こんなわけのわからない団体で、しかも代表なんて肩書きをやっているんだ。全部がおかしい。

「僕の場合は、そうですね、今も会社員みたいなもんなんですけど、前の会社を辞めてからこの『徒歩』をやることになって、まあそれで生きてるって感じですね。僕の話はいいんですけど、川崎さんはもう就活されているから、やりたい仕事とか行きたい会社の選考過程なんですよね?」

「そうですね、一応」

「どんな仕事をされるんですか?」

「経理とか、事務を受けてます。でも無理だったら営業でもいいって話はしています」

「そうなんですか。そういうの得意なんですか?経理とか」

「得意っていうわけではないんですけど、あまり営業には向いていない気がして、事務職に就けるように一応簿記を取って選考を受けているんですけど、なかなかうまくいきませんね」

「簿記持ってるんですか。それは持っていない人よりは有利でしょうね。すみません、僕は別に採用とかやったことないからあまりよく知らないですけど、とにかく会社員になりたいんですよね」

「なりたいって言うか、なるしかないかなって」

「そうなんですか?」

「そう、だと思います。僕は何か秀でた部分があるわけではないですし、生きていくためにお金を稼がないといけないから、まあなんとか頑張って会社員になるしかないかなって」

「ああ、なるほど。そうですね、大学生?ですよね、そうやってみんな就活してますからね。僕もしてましたし」

「はい。親が自営やっているわけでもないし、何か他にできるかっていうと何もないから」

「それは、才能とかってことですか?」

「そうですね、才能とか、身につけた技能とかも無いです。それどころか何をやりたいっていうような願望もなくて、今まで何もせずにここまで来たから、それで就活もうまくいってないんでしょうね」

「うーん、そうですね、採用のことはよくわからないですけど、うまくいけばいいですね。例えば会社員になったとしたら、それってどうなんですか?」

「どう?とは?」

「会社員になるということは、あなたにとってどういう意味があるんですか?」

「それは、さっきも言ったように生活ができるとか」

「とか?」

「そうですね、それぐらいしかないですね。生活のために会社員に、それ以外のことはないかもしれません」

「生活か。まあそうですよね、みんな生活のために仕方なく働いていますよね」

「そうです、実際そうだと思いますよ。もし宝くじで5億円当たっても仕事を続ける人なんてほとんどいませんからね。仕事なんてそんなもんじゃないですか?」

「うーん、それは職場環境や仕事内容にもよりますね。世の中にはいくらお金があっても仕事が楽しくて続けているっていう人が中にはいますから」

「そんなのごく一部でしょ?」

「まあ、確かにそうでしょうね。川崎さんはもし5億円当たったら就活やめるんですか」

「そりゃやめるでしょう」

「じゃあやっぱり働きたくないんですか」

「あ、はい。でも、5億円なんて無いから就活してます」

「ないですよね。僕もないです、ああでも、僕は別に5億円はいらないですけど」

「いらないんですか?」

「うーん、5億円あってもねえ」

「何言ってるんですか?まさかもっとものすごいお金持ちっていうことですか?」

「いえいえ、お金は全然持ってません。5億円どころか、全然」

「でも代表なんでしょう?」

「ははは、でも会社じゃないですから『徒歩』は。会社員みたいなもんですけどね」

「そうですか、よくわかりませんが」

「そうだなあ、なんて言えばいいんだろう」

「あ、でも、確かに僕も5億円なんて大金は、いらないかもしれません。そんなお金があったって別に」

「え、そうなんですか?いろんなもの買えますよ?」

「でも5億円も使って欲しい物なんて、別に無いから、」

「物欲無いんですか?」

「物欲が無いというよりは、必要最低限の物があればそれで十分かなって、ほら、会社員になろうとしているのだって、ただ生活ができればいいってだけの話なんで」

「なるほど。謙虚ですね」

「謙虚って言うんですかね、こういうの。ただあんまりそういう、お金とかで欲しい物を買うって好きじゃないんですよ、資本主義なのに。だから会社員とかってあまり向いてないのかなって、競争心とかも無いから」

「そうですか、大変ですね」

「まあ仕方ないですよね」

「うーん、そうですね、じゃあよかったら、うち来ますか?」

「うち?」

「ああでも、お金とかは本当に出ないんですよ、うちでは通貨を用いていないから。ただ生活はできます。そりゃあ仕事みたいなことはやらないといけないし、僕みたいにね、中には大変なことだってあると思いますが、それは会社にいても一緒で、ほら、会社員みたいなもんだっていうのはそんな感じの意味ですよ。僕は川崎さんに5億円あげることはできないけど、まあ川崎さんの場合そもそもいらないっておっしゃってましたから、僕にできるのはこうやって『徒歩』に誘うことぐらいかなあ」