いい加減、わかりあえる前提はやめたほうがいい

「話せばわかる!」

「問答無用!」

ピンポーン!

「犬養毅!515事件!」

ピンポンピンポンピンポーン!

話せばわかるという前提に立って物事を進めるのがいかに不毛なことか。僕たちは幼少期の頃に、少なくとも一度は感じたことがあったのではないだろうか。

「私のことを、誰もわかってくれない」

歳を重ねるに従って、理屈や心情を言葉で表現するすべを身につける。それだけでなく、場の流れや雰囲気を察知することも学習するようになる。日常の些末な意思疎通は大抵このあたりで解決した!はずだった!!僕を除いて、君を除いて!!狭いコミュニティ(せまコミュ)で暮らしていると、調和という名のパターン化が生まれ、相手の考えていることや行動がある程度予測できるようになる。だって毎日同じ人と顔を合わせて外部からの新たな情報も刺激も革新もないんだから、相手のことは次第にわかってくる、そう思っていた。僕を除いて、君を除いて!いや、もういいか。

とにかく僕たちは分かり合えない存在なんだ。それは僕たちに限った話ではなく、そこで犬と会話している彼のことだって、ハトに餌をやっている爺さんのことだって、なんにもわかっていない。彼らは犬やハトと心が通じ合った気になっているが、全然わかっていない。川を流れている水の心や、風で葉を鳴らしている木のことだって、全然わかりはしない。だから僕らは言葉を発するし、その意味がわかったって、気持ちまでは理解できない。虫の鳴き声が発情とか、そんな単純なことでさえも。それどころか自分の気持ちだって。内側で鳴っている鐘の音だって、街頭のざわめきに打ち消されてしまう。わかりきったことさえ、わからないことにしてしまう。

そう、前提に立ち返ろう。我々は犬や豚だ。豚は同胞が目の前で屠殺されるのを見ると次は自分の番が来るとわかって大暴れするらしい。しかしニワトリは平然としている。我々にはこれぐらいの違いがある。「人間、皆同じ。なかよし」なんていう幻想。理想は信じて思い描くものではなく、塗り固めて創り上げていくものなのだ。団結せよ!思想の元に!書いてあることを読まずに、聞きかじったことを信じるのはよくない。二次的な解釈を三次的に飲み込んだだけ。

残酷性を嗜虐的に喜ぶ姿は悪趣味に見える。グロ消費の需要とはいったいどこにあるのだろうか。肉体的なもので言えば拷問とか。拷問を愉しむ姿にいまいち乗れないのは、ストレートではなく歪んでいるからだろう。迂回している。普通だったら「まあ、ひどい」と思うところの裏にちょっとした怖いもの見たさがあって、それが肥大した姿、要するに肥満体の醜さに通じる。怖いもの見たさで満たされてしまえば、もはや怖いものではなくなり、より強いものを求めて加速していきやがてはブクブクと太っていく。

それがわかっていて手前の好奇心を煽る。どこかでキャパオーバーになるその上限を上げていく。悪徳と呼ばれるものの正体か。幸福の先には退屈があり、それを避けてのことだろう。自らの、他者の痛みを喜びに変える。まさにグロ趣味と言えよう。そういうグロ趣味に対して真正面から肯定的になれないのは、どこかに優越性が潜んでいるからだ。当事者になれない優越性、コメディの優越性。

当事者であれば、そこには共感を欲している姿がある。そこに本来の喜びはない。迂回した先にある共感という喜びだ。まわりくどい。そこでしか喜びを感じられなくなったのはある意味不幸なことなのかもしれないが、かといって矯正できない歪みをそのまま受け入れることができない。例えば、何度も例に挙げる男性の話。慢性的な頭痛に悩まされていた男性は、ある日、自らの手で人を絞殺する。その時だけ頭痛が治まることに気づき、やがて絞殺に取り憑かれる。これは一つの個性だ。歪んで生じた個性かも知れないが、その際だけ分泌されてしまったんだからしょうがない。マラソンに嵌まる人と同じ。どちらも同じ。

善と悪を定義づけるにあたってよく言われるのが、宇宙をより高度に発展させるものが善で、低い位置に堕落させてしまうのが悪だ、全員が同じことをしても成り立つのが善で、成り立たなくなるのが悪だ、と言う。投資と投機なんかに使われる。バランスを保つためには何処かに悪役も必要なのかもしれない。頭の悪い僕たちは目の前に悪役が存在しないと何が悪なのかさっぱりわからなくなってしまうから。地球人は善きことだけで世の中を回していけるほど高度には発展していない。だとすれば、悪は悪として認識するからこそ意義がある。共感はいらない。善に転化しようとするのもおかしい。対立軸として受け入れよう。しかし、枠組みは発展してく。世の中の高度化に沿って、基準は広がっていく。寒気を催していたことだって、対処が簡単になり枠組みの内側に入っていく。人を殺すと頭痛が治まる人に対して必要なことは、人を殺すことを受け入れるのではなく、頭痛を取り除くこと。それが簡易になってくれば親身にならずとも連帯を、独立を維持できる。肯定も否定もする必要がなくなる。暇人は議論したっていい。待っていても世の中は変わらない。同時に、走り回ったって変わらない。