答えを探している話

答えを形作りたい。こうです、これです、でました、という答え。手段ではなく、探していたのは答えだった。過程に興味はなく、その先にある結果を導く手段ならなんだっていい。

プロセスが答えだっていう人もいるのだろう。自分はそうではなかったというだけの話。その先にあるのは全体なのだろう。全てがその先に結びついている。把握したい。思い返せば一度人に話したことがあった。うまく言い表せなかった。全てを内包するもの。その手段もなにもかも。

だから、夢とかやりたいこととか自己実現を語る人に何一つ同調できなかった。ずっと違和感を覚えていた。そうじゃないし、自分はそういうのどうだっていいんだよなあって。全てのプロセスは答えに結びついているが、形を表すには一本では足りない。形に直接結びついていないこともある。知らないことが多すぎて、線がつながっていないところは疑問として残る。真っ直ぐ先に進む人もいれば、全体を見渡す人もいる。一方向に進めば点しか見えないが、一方向にも進んでおらず何も見えない。形作るには、何もかもが足りていない。

宗教や哲学に惹かれるのは、全体が見えているからだろう。その全体も一方向からの視点でしかない。普遍性、何にでも当てはまるもの、広く深く、一般論ではなく、見えてこないもの含む全て。見えている範囲だってうまくまとまらない。誰でも知っていること。自分で形作ることに意味は見出していない。答えがあればそれでいい。答えを探している。なければ自分で形作るしかない。

答えの断片は散りばめられている。貼り絵をイメージする。見たもの、読んだもの、知っていること、考えたこと、感じたこと、出会った人たち…は、それぞれ一枚の紙片である。パズルのように、どこに何を当てはめるかは決まっていない。それらの紙片をかき集めて、一枚の大きな貼り絵を作る。物事の構造と仕組みを解析するのは、紙片を取り出す作業だ。紙片には様々な色と形と匂いと大きさがあり、なるべくその本質を取り出したい。